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カンディンスキー(6)絵画状況と欧州史 [スケッチ・美術系]

kandinskyhon3_1.jpg インプレッション、インプロヴィゼーション、コンポジション制作期は1910~13年頃。今回は同時期のパリの絵画状況、欧州史を俯瞰してみたい。

 カンディンスキーはパリの「サロン・ドートンヌ」に1904年から出品。1906年に大賞。1905年の同展でマティス「フォーヴィスム」が注目。1907年にはピカソが「アヴイニョンの娘たち」制作。だがマティスは抽象へ走らず(75歳からの切り絵コラージュは抽象っぽい)。ピカソもブラックも抽象へは向かわず。

 カンディンスキーがいたドイツでは表現主義(絵画、文学、映像、建築に主観的表現に主眼をおく運動)中心だったが、1914年(48歳)第一次世界大戦勃発。ドイツの対ロシア宣戦で中立国スイスへ。諸都市を転々後にミュンターと別れてモスクワへ帰郷。

 1917年、51歳で10代の二―ナと結婚。同年11月、ロシア革命でソヴィエト政権樹立。政治に距離を置くも「教育人民委員会」の造形芸術・工芸芸術部に参加。モスクワ国立自由芸術工房の長、絵画文化美術館・館長、芸術科学アカデミー設立の副総裁。彼の許に若いロシア・アヴァンギャルドの芸術家らが集った。

 だがカンディンスキーの「コンポジション」に比し、若い世代は次第に感覚性・芸術性を排した「コンストラクション」(工業製品に限定)志向。社会主義革命に奉仕する芸術優先となり、彼は1921年12月に再びベルリンへ戻った。

 そのドイツでは1918年「ドイツ革命」翌年にワイマール共和国(ドイツ共和国、1919~33年)誕生。その最中1922年にワイマール州立美術学校「バウハウス」開校で、招聘される。この時、56歳。

 同校は「すべての造形活動の最終目標は建築(Bau、バウハウスは造語)である」が設立宣言だが版画、彫刻、陶器、ステンドグラス、壁画、織物の工房も設けられ、カンディンスキーは壁画工房のマイスター就任。ステンドグラス工房にパール・クレー就任。

 同校は1924年にドイツ人民党の圧力で自主解散。翌年にデッサウ市立バウハウス開校。製品生産会社も設立で家具を生産。カンディンスキーやクレーは応用美術、課外授業で絵画も教えた。

 ここでのマイスターハウスは2連住宅で隣がクレー家。互いに影響し合わぬわけがない。だが1933年1月のヒットラー政権で「バウハウス」閉鎖。身の危険にカンディンスキーはフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 写真はフランソワ・タルガ著『WASSILY  KANDINSKY』(美術出版社)。バウハウス時代の「黒い随伴」(1924年作)が表紙になっている。

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