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カンディンスキー(8)バウハウス以後~ [スケッチ・美術系]

yuukitai1_1.jpg カンディンスキー夫妻は1928年にドイツ国籍を取得も、落ち着いた生活は短かった。翌年、世界恐慌。1933年1月、ヒットラー政権誕生で「バウハウス」閉鎖。身の危険に、12月にスイス経由でフランスへ。パリ郊外を終の棲家にした。

 妻ニーナによると、彼がパリに落ち着くことに、対極の存在のピカソは嫌ったとか。カンディンスキーは穏やかな生活のなかで晩年作を制作。この時期は、生命の発生や進化に関心を持って有機体が空を浮遊しているような「空色(空の靑)」「穏やかな飛翔」など。どこか〝陽気ではないミロ〟風作品です。挿絵はその一部をアレンジ模写。

 一方、ドイツでは1937年にナチス「退廃芸術展」。膨大な押収作品のなかにカンディンスキー作57作。そこから油彩1点、水彩6点が展示されたとか。1937年、スイスでクレーの臨床を見舞ったのが最後の旅。1940年、ナチスのパリ侵攻。ナチスのパリ占領下の1944年、78歳の誕生日パーティー後に永眠。

 カンディンスキーと別れたミュンターは、ドイツ表現主義の女流作家として活躍し、第二次大戦の戦禍からカンディンスキー作品を守り抜き、85歳で逝去。遺言でミュンヘン市立ギャラリー「レンバッハハウス」に作品寄付。同美術館は一夜にして有名美術館になったとか。(ウィキペディア参照)

 最後に松下透著「あとがき」文を紹介。~彼が抽象絵画に向かった動機の一つは、物質主義のなかで「芸術における精神的なもの」が危機に瀕しているという時代認識。一つは人並み外れた感受性によって、自然から受け取る感動で「自然と宇宙との交換によって生み出されたように思われる」と結んでいた。

 「バウハウス」の理念、カンディンスキーの教えは、米国へ亡命した多数教師陣らによるシカゴ「ニューバウハウス」によって、また教え子らの活躍によって世界中に普及。今も人気のフォント「フーツラ」「ユニバース」もバウハウス系。これにてカンディンスキー理解の〝玄関口〟に辿り着いたようなので、ここで終わる。

 参考資料:二十歳の頃の教科書『点・線・面~抽象芸術の基礎』『抽象芸術論』。展覧会ショップで購入の松本透『もっと知りたいカンディンスキー』、図書館本でアナベル・ハワード『僕はカンディンスキー』、フランソワ・ル・タルガ『WASSILY KANDINSKY』、ハーヨ・デュヒティング『ワリシー・カンディンスキー』。

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