SSブログ

方丈記6:京都に辻風襲う [鶉衣・方丈記他]

tujikaze1_1.jpg 前記「太郎焼亡」の翌年、治承2年(1178)に「次郎焼亡」。火災範囲は前年と同様で、京の主要建物多数が焼失して景観一変した。

 北村優季著『平安京の災害史』には、平安遷都直後から頻繁に火災があったと列挙されていた。当初は高い建築物への落雷火災、小さい家の密集地での出火延焼(数百家規模)が多く、10世紀になると社会・政治不安から盗賊襲撃などの火災多く600家~700家規模に拡大。

 以上から道路幅拡大、防火考慮の建物が作られるようになるも、その上での「太郎焼亡・次郎焼亡」だったと記す。その2年後の治承4年4月に「以仁王の乱」。騒動収まらぬ5月に今度は「辻風(竜巻?)」が京を襲った。長明は「以仁王の乱」のやるせない気持ちを「辻風」記述にぶつけた(らしい)。

 又治承四年卯月廿九日のころ、中御門京極の程より、大なる辻風おこりて、六条わたりまでいかめしく吹けること侍き。三四町をかけて吹まくる間に、其中に籠れる家共、大なるもちいさきも一(ひとつ)としてやぶれざるはなし。さながらひらにたふれたるもあり。けた(桁)、はしら(柱)ばかり残れるも有。又門の上を吹はなちて四五町が程におき、又垣をふきはらひて隣とひとつになせり。いはんや家のうちのたから、かずをつくして空にあがり、檜皮ぶき板の類ひ、冬の木の葉のかぜに乱るるがごとし。塵を煙のごとくふきたてたれば、すべて目もみえず。をびたゞしくなりどよむ音に、物いふこゑも聞えず。地獄の業風なりとも、かくこそはとぞ覚へける。家の損亡せるのみならず、これをとりつくろふ間に、身をそこなひ、かたはづけるもの、かずを知らず。此風ひつじさるのかた(南南西)にうつり行て、おほくの人の嘆きをなせり。辻風はつねに吹く物なれど、かゝることやはある。たゞことに非ず、さるべき物のさとしかなどぞうたがひ侍りし。

 ●辻風は内裏東側辺りから南方向へ吹いた。●籠れる=囲まれている、包まれている。●「かくこそはとぞ覚へける」は岩波文庫では「かばかりにこそはとぞおぼゆる」=このくらいであろう。●かたはづけるもの=身体が不自由になった人。●ただごと=徒事(普通の事)。●さるべきものの(何事かの)さとし(神仏のお告げか)どぞ(強調)うたがひ侍り(怪しみ恐れた)

 五味文彦著には「リアルな記述ゆえ、長明も被災していたのかもしれない」と記されていた。また辻風の文章は『平家物語』三之巻「辻風」も『方丈記』とほぼ似た文章。両著の関連性が興味深いです。そして京は心休む間もなく翌月6月2日に、な・なんと「福原遷都」です。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。