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江戸名所図会の鳩森八幡宮(7) [千駄ヶ谷物語]

hatimanguu_1.jpg 『江戸名所図会』に「千駄ヶ谷八幡宮」が広大な俯瞰図で描かれている。まずは同文を読んでみる。

 同所(観音堂)一丁計(ばかり)西にあり。此辺の総鎮守にして例祭は九月廿七日なり。別当は真言宗高雲瑞圓寺と号つく。

「鈴懸松」門前に松の老樹有り。寛永の頃、大樹此地に御放鷹の時、御鷹の鈴、此松の枝にかかりしてなり。故に名とすと。

 社記に云く往昔此地深林の中に時として瑞雲現しける。又或時、碧空より白気降りて雲上に散す。村民怪むて彼林の下に至るに忽然として白鳩数多(あまた)西をさして飛たれり。依て其霊瑞を称し小祠を営み名つけて鳩森といふ。貞観二年慈覚大師東国遊化の頃、村民等大師に鳩森の神体を乞求む。依て宇佐八幡宮城州鳩の嶺に移り給ふ。古を思ひて神后皇后応神天皇春日明神等の尊体を作り添て正八幡宮と崇め給ふ。遥に後、久寿年間渋谷正俊領地に鎮座の御神なるを以て、金王丸生前隋身の本尊恵心僧都の作の弥陀如来の像を本地仏として社を造営して此地の生土神と称し奉りしより霊応は照々として日に新なり。

 南向亭云く当社の前路は鎌倉街道の旧跡にして今も鎌倉路と字せり。青山の原宿より此地をへて大窪へかかりし也とぞ。北条家分限帳島津孫四郎所領の中に千駄ヶ谷の名有り。

 さて、描かれた絵の表門、富士塚、神輿蔵などの位置は現在も同じ。表門前が鎌倉街道で、荷馬が行き交っている。表門前が現・将棋会館。鎌倉街道は武士らが〝いざ鎌倉〟と馳せ参じられるように関東各地へ伸びた道で、鎌倉から上道(長野方面)、中道(埼玉・群馬方面)、下道(奥州街道)など。江戸時代の五街道開通で存在価値は薄れるも、今も「旧鎌倉街道」痕跡が各地に残っている。

 八幡宮前の道は中道で、鎌倉を出発点してここ青山~八幡宮~(新宿御苑と戸山公園で痕跡なく)~早稲田~板橋~宇都宮へと痕跡を残している。小生の現・在住地の東側を通って、さらに若い時分に住んでいた早稲田の某ビル近くの小道に「旧鎌倉街道」の標石があったことを思い出す。

 『江戸名所図会』に描かれた門前「鈴かけ松」は現在ないも、今は鳥居前や富士塚脇に大銀杏がある。これらは戦災を免れて〝御神木〟とか。推定樹齢400年。『江戸名名所図会』刊は天保5~7年(1834~6)ゆえ、当時は銀杏より松がメインだったのだろう。

 この絵の背景に「新国立競技場」を描き込めば185年の時空が結ばれるが、この長閑な寺院風景図を見た池波正太郎は〝鬼平〟4作に「千駄ヶ谷八幡宮」を登場させている。面白そうゆえ、その4作の設定を次回に簡単紹介してみる。

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