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十万坪の徳川宗家邸(13) [千駄ヶ谷物語]

tokugawajisyo_1.jpg 千駄ヶ谷は明治になると、現・千駄ヶ谷駅前の東京体育館、津田塾大から鳩森八幡神社まで、西は国立能楽堂辺り、さらに飛び地で原宿駅辺りまでが徳川宗家・家達(いえさと)邸敷地となる。約10万坪(東京ドーム7個分?)とか。

 寛永4年の「江戸切絵図」を見ると「紀州殿下屋敷」と記された2ヵ所と松平肥前守下屋敷を中心にして、周辺拡大して行ったらしい。現地図に徳川宗家敷地の凡そ図を示せば赤色が旧邸、水色が新邸、鳩森八幡の南側が徳川慶喜の四男・厚邸。10万坪はさらに広かろうゆえ、周辺地も取得していたのだろう。

 徳川邸で育った保科順子著『花葵~徳川邸おもいで話』(1998年、毎日新聞社刊。表紙は新邸イラスト)を読んだが、庶民とは縁遠いおば様方の思い出話構成で検証・資料僅少ゆえ、樋口雄彦著『第十六代徳川家達』(祥伝社新書)やネット情報も交えて、徳川家達(邸)の概要を探ってみた。

 まずは「徳川宗家・家達とは?」。徳川〝御三家〟は、家康の子から別れた尾張・紀伊・水戸藩大名。将軍が倒れたら即御三家の誰かが継ぐシステム。一方、徳川〝御三卿〟もあり。これは御三家が各藩主となって疎遠気味になったゆえ、8代将軍吉宗が次男に田安家を、四男に一橋家を、九代将軍家重の次男に清水家を立たせ、江戸城内堀前に予備後継家として設けたもの。家達は田安家。

hanaaoi1_1.jpg 家達は、田安家5代目慶頼の子。文久3年(1863)生まれ。実母は幕臣・津田栄七の娘。つまり家達と津田梅子(津田塾大創立者)は従兄妹同士。かつ家達次女が鷹司公爵夫人に。その関係なのだろう、同地が鷹司家地になって「津田英語会」校舎がここに完成。うむっ、早くも千駄ヶ谷駅前に津田塾がある所以が解けた。

 次は徳川家達が徳川宗家に至った経緯のお勉強。皇室から和宮が嫁いだ第14代将軍・家茂(元紀州藩第13代藩主)は、慶応2年(1866)に長州征伐途中の大阪城で病没。享年20歳。

 さて、次の将軍選びに13代将軍・家定正室だった天璋院(薩摩藩島津本家養女~篤姫)が田安家達(亀之助)を推すも、和宮はお家大事の時に〝亀さん〟では幼過ぎると一橋慶喜を推して、第15代将軍に徳川慶喜が決定。

 慶応3年、徳川慶喜は大政奉還・王制復古。上野寛永寺で謹慎生活に入り、江戸無血開城。当初は「嫁対姑、皇室対武家」で不仲だった静寛院宮(和宮)と天璋院(篤姫)は、徳川存続のために共闘。勝海舟の力もあって慶応4年、新政府より4歳の田安亀之助(家達)が目出度く徳川宗家と認可。家達は天璋院の下で屋敷を構えて育てられることになる。長くなったので次回へ。

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