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徳川邸から与謝野鉄幹・晶子へ(19) [千駄ヶ谷物語]

tokyotaiikukan_1.jpg 家達は昭和13年(1938)ロンドンで開催の赤十字国際会議へ日本赤十字社長として出席すべく米国~カナダ経由で旅立った。ロッキー山脈越えの車中で心臓発作。カナダの病院に入院後に帰国。昭和15年(1940)6月に亡くなった。息子・家正(外交官)が公爵家を襲爵し、貴族院議員になった。

 家正は、天璋院(篤姫、明治16年没)の〝島津家から嫁をもらうように〟の遺言通り、29代藩主・島津忠義の九女・正子と結婚。昭和18年(1943)6月、東京都が紀元2600年事業の一つ「武道館」敷地として家達邸に着目。家正と交渉して譲渡成立。壁に囲まれた本邸敷地1万2千余坪。徳川宗家は東郷神社傍の渋谷区原宿3丁目(1万坪の元三井財閥総帥・團琢磨家跡)へ去って行った。

 徳川邸は都・民生局所管となって「葵館」。鍛錬道場、また出征兵宿舎になった。空襲時は宿泊中の兵士らによって焼夷弾の火が消された。終戦後は進駐軍の将校クラブ「マッジ・ホール」になる。(「マッジ・ホール」については赤坂真理『東京プリズン』に登場するので後述したい)

 接収期間は昭和20年(1945)12月~昭和27年(1952)5月。返還年の末、体育館建設で木造建築物を除去、鉄筋コンクリート造りの洋館2階建ては位置を移動して、翌年10月に東京体育館着工。昭和29年(1954)落成。昭和32年5月、屋内水泳場建設で遺されたいた洋館も解体。徳川邸は完全に姿を消した(東京体育館HPより)。この際、日本間の大広間「鶴の間」は鶴見の総持寺の客殿へ、他にも移築された部分があるらしい。

 昭和61年(1986)、老朽化で閉鎖。槙文彦設計で平成2年(1990)に現・東京体育館として全面改築。以後、幾度かのリニューアルが行われ、今年7月から2020年の東京オリンピックに向けての改修工事が始まるらしい。カットは現在の東京体育館図で、この全敷地が徳川宗家新邸だった。

 これにて千駄ヶ谷の徳川家関連を終えるが、他に明治・大正時代の千駄ヶ谷に特筆すべきことはなかっただろうか~。徳川家達が貴族院議長になったのが明治36年12月。その翌年37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。それに併せたのだろうか、同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「東京新詩社&明星」共々、渋谷から千駄ヶ谷へ引っ越してきた。約5年間の千駄ヶ谷暮し。その時期はちょうど永井荷風のアメリカ・フランス時代。与謝野鉄幹・晶子夫妻にとって、この時期の「新詩社・明星」はどうだったのだろうか。『明星』が最も輝き、そして凋落した激動期。次回から与謝野夫妻の「千駄ヶ谷物語」です。

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