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与謝野夫妻の千駄ヶ谷(20) [千駄ヶ谷物語]

myoujyo.jpg_1.jpg 明治37年8月21日に甲武鉄道「千駄ヶ谷駅」開業。同年11月3日に与謝野鉄幹・晶子が「新詩社&明星」共々、千駄ヶ谷村字大通549へ引っ越して来た。現・北参道駅から鳩森八幡神社へ至る、今も〝大通り〟の名を冠する商店街の郵便局近く。現・千駄ヶ谷1-23。「東京新詩社跡」の史跡柱が立っている。

 夫妻の長男・与謝野光『明子と寛の思い出』(思文閣出版)に「千駄ヶ谷時代」の項あり。「明治書院がたくさん借家を造ったんです。で、その借家に移った」。そして、こう続く。「駅からかなり遠かった。今の津田塾のあたりです。今の駅からだと近いけど、その頃は信濃町の駅からでしたからね。今は南の方に出口がありますけれども、北の方にあったんです。それで、よけいにたいへんでした」

 氏の90歳の聞き書きゆえ、多少の記憶違いはあろう。この辺を検証すれば、資料では間違いなく「千駄ヶ谷駅」開業後の移転。ちなみに「信濃町駅」開業は明治27年(1894)。千駄ヶ谷辺りから軍用「青山停車場」へ引き込み線あり。「千駄ヶ谷駅」開業当初の乗降客は1日250人程だったとか。

 与謝野夫妻の足跡を要約してみる。逸見久美著『評伝与謝野寛晶子(明治編)』、青井史著『与謝野鉄幹』、野田宇太郎著『改稿東京文学散歩』他を参考にする。

tekansi.jpg_1.jpg 鉄幹、明治32年(1899)に浅田信子との間に女児を設けるも40余日で死去。信子と別れて林滝野と同棲し「東京新詩社」設立。明治33年4月『明星』第1号発行。発行所は麹町区上六番。発行人・編集人は林滝野。鉄幹が林家の養子に入る約束、かつ資金も林家。金子薫園、佐々木信綱、正岡子規、高浜虚子、河東碧悟桐、島崎藤村、泉鏡花、広津柳浪など錚々たる執筆陣。

 同年、鉄幹は岡山で鳳晶子、山川登美子と会う。滝野との間に男子誕生。明治34年(1901)1月、晶子と京都で遊ぶ。3月、詩歌散文集『鉄幹子』刊。「妻をめとらば才たけて、顔うるはしくなさけある~」の〝人を恋うる歌〟収録。

 『明星』は67頁雑誌に急成長で、歌壇の中心になる。子規派と鉄幹派は平行線で、3月に匿名『文壇照魔鏡』刊。鉄幹は「強姦をし、放火をし、妻を売り、無銭飲食をした」と誹謗。滝野は子供を連れて帰郷。5月に渋谷村中渋谷へ移転。6月、晶子が鉄幹宅へ身を寄せ、8月『みだれ髪』刊。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」。10月、晶子・鉄幹挙式。

 明治35年、長男・光誕生。明治37年、鉄幹・晶子『毒草』刊。晶子『明星』に「君死にたまふこと勿れ~」発表。渋谷時代の彼らの住家を見た明治書院社主・三樹一平は日記に「あまりなるあばら屋で驚くの外なしと語り合ひ、さて千駄ヶ谷の地にふさはしき詩堂建てまゐらせむと申さるゝなり」と記す。かくしての千駄ヶ谷移転。

 挿絵は『鉄幹子』巻末の「明星」広告とカット。絵は藤原武二のアンフォンス・ミュシャ(アール・ヌーヴォー中心画家)の模倣図だろう。国会図書館デジタルコレクションより。

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