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四角関係、キラ星の文人らが(21) [千駄ヶ谷物語]

yosanohon1_1.jpg 明治37年(1904)に山川登美子、増田雅子が日本女子大に入った翌年1月、登美子、雅子、晶子の合著『恋衣』刊。さっそく千駄ヶ谷で新年会を兼ねた『恋衣』出版記念会が行われた。開業間もない「千駄ヶ谷駅」に降り立つは登美子、雅子。そして錚々たる文人27人ほど。

 盛岡から上京の19歳石川啄木は、新詩社を紹介してくれた先輩・金田一京助にこう報告したとか。「一昨日は新詩社の新年会。めづらしく上田敏、蒲原有明、石井柏亭などの面々出席。女子大学より〝恋衣〟の山川登美子、増田雅子のお二人見え候~」

 鉄幹に晶子、登美子、雅子のめくるめく性愛を読みたい方は、その道の小説家・渡辺淳一『君も雛罌栗われも雛罌栗』でお楽しみ下さい。女性らの嫉妬の火花はさておき、与謝野光『晶子と寛の思い出』の「千駄ヶ谷時代」は、こう続く。

 「千駄ヶ谷時代っていうのは、まだランプなんです。だから朝ね、母を中心にランプ掃除をやるの。僕も手伝ったけど子供にはたいへんだった」。ネットで当時の電化状況を調べてみた。

 ●明治38年9月、日露戦争終結。兵士・武器・弾薬輸送に大変だったので甲武鉄道を国有化。●明治40年(1907)に東京鉄道が千駄ヶ谷、渋谷町、品川町、目黒村などに電灯・電力供給を開始。●戦勝景気で電気事業も好況。水力電力も加わって電燈料金半減。電燈が石油ランプを駆逐。

 啄木が最初の訪問から3年後の春の与謝野家を再訪しての日記に「お馴染みの四畳半の書斎は、机の本棚も火鉢も座布団も三年前と変わりはなかったが(中略)~少なからず驚かされたのは、電灯のついて居る事だ。月一円で却って経済だからと主人は説明したが、然しこれはどうしても此四畳半幅の人と物と趣味とに不調和であった。此不調和はやがて此人の詩に現はれて居ると思った」

 ランプ生活が電灯に変わったが、鉄幹編集の『明星』と彼の詩には、啄木日記からも伺えるように、早くも時代に色褪せてきた。明治41年正月、同人の吉井勇、北原白秋、木下杢太郎、長田幹彦ら7名が退会。晶子は「朝の雨さびしうなりぬ紫のからかささして七人去れば」と詠った。

 その後に窪田空穂、相馬御風らも退会。啄木が5月に訪問した日記には「今の新詩社、与謝野家は晶子女史の筆一本で支えられている」。『明星』最盛期5千部から9百部に落ち込んで、明治41年11月の百号で終刊。「わが雛はみな鳥となり飛び去んぬうつろの籠のさびしきかなや」。

 明治42年1月、与謝野夫妻は千駄ヶ谷を後に、神田駿河台ニコライ堂近くの東紅梅町へ去って行った。

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