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晶子と「おなか団子」(22) [千駄ヶ谷物語]

kimonoakiko.jpg 千駄ヶ谷の「与謝野寛と晶子」編の最後です。夫妻の長男・光氏(医学博士、公衆衛生関連の理事、会長など歴任)90歳の聞き書き『晶子と寛の思い出』には、こんな文もあった。

 「千駄ヶ谷に移って、有名な〝一夜百首会〟が行われた。十時で電車が止まっちゃうから、一晩に一人百首読んで、朝に帰るんです」

 これは「結び字、結字」を入れての作歌会。石川啄木「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きゆれて蟹とたはむる」は「蟹」を結字にした一夜百首会で詠まれた作とか。評伝では〝一夜百首会〟は中渋谷の明治36年頃から始まってい、当時は渋谷も千駄ヶ谷も終電は10時頃ゆえに、徹夜の歌詠み会が行われたのだろう。

 光さんは話をこう続ける。「百首会は長丁場で腹が減りますから、近衛4連隊の下、今は住宅公団のアパート裏あたり、今は暗渠になっている渋谷川沿いに〝おなか団子〟という団子屋さんへ行くんです。僕が三つか四つの頃で、母が団子をたくさん買って大きな袋に入れて、それを背負って帰るんです」

 小生が2年前春に、この周辺を自転車散歩した際には、未だ「都営霞ヶ丘アパート」群が建っていて、団地北東脇の小公園に「近衛歩兵第四連隊(青山練兵場)」の碑が建っていたのを覚えている。今は新国立競技場建設と同時にアパート群も碑も姿を消した。

 「おなか団子」は、千駄ヶ谷シリーズ最初に『江戸名所図会』の「仙寿院」紹介の際に「渋谷川に沿った道を多くの人が歩いていて、そこには明治元年まで〝お仲だんご〟あり。お仲さんは美人で広重も描いたとか」と記した。その「お仲だんご」が与謝野晶子の千駄ヶ谷時代にもあったと語られている。代替わりして存続していたか、同名を名乗った団子屋だったのだろうか。

 そして与謝野光著の最後はこう結ばれていた「やはり思い出すのは、貧乏ではあったが大勢の方々で活気があった千駄ヶ谷時代ですね。裏を返せば、うちの母にとっては、ずいぶん苦労の多い時だったということでしょうけど」 なお、与謝野光氏に関しては、GHQ命による米兵らの性のはけ口場設定と性病予防で後に再び登場です。写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より。

 与謝野夫妻と交流のあった石川啄木や北原白秋の関連書を読めば、さらに当時の千駄ヶ谷の様子が記されていそう。手始めに川本三郎著『白秋望景』、嵐山光三郎著『おとこくらべ』を読めば、明治45年に「千駄ヶ谷大字原宿」に引っ越してきた北原白秋が、隣家の人妻・俊子さんと不義密通。姦通罪で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷・未決監房へ運ばれたとあった。

 荷風さんが〝大逆事件〟関係者らを乗せた囚人馬車を自宅前で見て「文学者として何も出来ぬ己は、江戸の戯作者に身を落とす他にない」と自戒したのが明治43,44年だった。白秋と俊子さんも、囚人馬車に乗せられて市ヶ谷監獄へ向かって行く~。さっそく北原白秋・関連書を読むことになる。

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