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北原白秋、姦通罪で囚人馬車へ(23) [千駄ヶ谷物語]

kawahakusyu.jpg 千駄ヶ谷の与謝野夫妻「新詩社」が明治42年1月に千駄ヶ谷を後に、神田・東紅梅町へ去った翌年9月のこと。北原白秋が牛込区新小川町から千駄ヶ谷村大字原宿へ引っ越してきた。「新詩社」の件で千駄ヶ谷に馴染があったゆえだろう。

 以下、川本三郎『白秋望景』、西本秋夫『白秋論資料考~福島俊子と江口章子を中心に~』、藪田義雄『評伝 北原白秋』を参考にする。

 白秋は明治42年(1909)24歳の若さで処女詩集『邪宗門』刊。日露戦争勝利の近代日本ヤングジェネレーションの官能謳歌。2年後に第2詩集『思ひ出』刊。一躍、詩壇の寵児になった。

 さらなる飛躍を期して郊外住宅地・千駄ヶ谷へ移転。だが「好事魔多し」。隣家の人妻・俊子がなんともいい女だった。俊子22歳。前年に松下長平と結婚して長女を出産。短歌を愛し、斉藤茂吉にも師事。夫・長平は国民新聞社の写真部記者。嗜虐性が強く、俊子に生傷絶えず。加えて混血情婦もいた。それゆえの愁い含んだ眼差しで白秋を見つめる。すらりとした肢体、ぬけるような白い肌。坊ちゃん気質で世間知らずの白秋はイチコロだった。

 だが道ならぬ恋ゆえ、人妻ゆえ、姦通罪ゆえに、二人の恋心は抑えれば抑えるほどに燃え上がった。どうやら隣家主人・長平が仕込んだのかもしれない。時代の寵児へのやっかみ、脅せば金にもなろう。やがて思惑通り「姦通罪」で起訴。白秋と俊子は、出頭した裁判所から他の囚人らと共に囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監に送り込まれた。時代の寵児が、一転して姦通罪人。マスコミが喜ぶことよ。

 「小生は第八監十三室の〝三八七〟というナンバーに名を改められた」。2週間後、弟の北原鐵雄の必死の奔走で示談。相手は300円という大金をせしめてニヤリと笑ったとか。川本三郎著には松永伍一『北原白秋 その青春と風土』よりの引用で「僕に童貞を破らせたのは石川啄木だよ。浅草十二階の魔窟へひっぱって行かれてね」を紹介。白秋は、性の甘い深淵を覗き見たばかりだった。

 そんなことはどうでもいい。川本著には「千駄ヶ谷原宿に引っ越した」と記して、括弧括りで(現在の千駄ヶ谷駅近く)とした。さて、それは一体どの辺りだったか。(続く) 

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