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白秋と俊子の家はどこ?(24) [千駄ヶ谷物語]

suzume.jpg_1.jpg 白秋が千駄ヶ谷原宿へ引っ越して来て、隣家人妻・俊子と深間になった。さて、どの辺に住んでいたのだろうか。

 現代日本文学全集『北原白秋・石川啄木集』巻末付録に、鈴木一郎・文「北原白秋と松下俊子」に住所が記されていた。「明治43年9月、白秋はそれ迄住んでいた牛込区新小川町34番地の仮寓から〝青山〟に居を移した。正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地である」

 川本三郎『白秋望景』には「千駄ヶ谷原宿(現在の千駄ヶ谷駅近く)に引っ越しをした」。瀬戸内晴美の小説『ここ過ぎて』には「靑山原宿、正確には府下千駄ヶ谷原宿85番地」。作家らは同住所を記すも「千駄ヶ谷駅近く」「青山」「青山原宿」と微妙に異なり、誰もが場所を説明する文章を避けている。住所特定が出来なかったのではなかろうか。

 明治40年(1907)頃の住所を調べてみれば「東京府豊島郡千駄ヶ谷大字原宿」。明治42年地図では仙寿院の南側に「北原宿」「南原宿」あり。昭和12年の明治通り開通後の地図には「北原宿=原宿1丁目」「南原宿=原宿2丁目」、明治通り付近が「原宿3丁目」だが田畑ばかり。そして現在は原宿1~3丁目は「渋谷区神宮前」で「原宿」の名も消えている。

 かつて小生は藤田嗣治がパリ留学前の大久保の新婚旧居を特定したことがある。その資料は大正1年「東京市及接続郡部〝地籍地図〟」で、今回も同地図で探してみた。だが「千駄ヶ谷町大字原宿」は「字竹之下・北原宿」「字南原宿」「字石田」「字灰毛丸」と細分化されてい、「千駄ヶ谷原宿85番地」では特定出来なかった。

 作家らも同住所は記すも、場所の説明文を避けていた。文学者旧居巡りのサイトも多いが誰も手をつけていない。ひょっとして、この住所表記は正確ではなかったのではと推測される。まぁ、当時の地図を見れば「仙寿院」の南側が原宿一帯で、最寄り駅は「千駄ヶ谷駅」(明治37年8月開業)か「原宿駅」(明治39年10月開業)だろう。

 さて、二人の〝姦通〟経緯を簡単に記す。白秋は同地を五ヶ月後に去り、京橋区木挽町の土蔵「二葉館」二階一間に移転。そこは元待合で壁一面に描かれた春画を、いい加減な塗装で隠した部屋。ここが最初の情交場所か。白秋はここから飯田河岸、新富町、浅草と転々としつつ、明治45年5月に越前堀(お岩稲荷のそば。荷風さん関連で同地を訪ねたことがある)に移った時に、夫・長平から告訴。検察局より姦通罪で起訴。かくして二人は囚人馬車の乗せられて市ヶ谷未決監へ送られることになる。

 カットは白秋の二番目の妻・江口章子と過ごした極貧時代に〝雀を友〟として綴った雀観察の『雀の生活』(大正9年刊)の白秋自画。白秋は絵の才能もあり!と感じた。

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