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島田旭彦、広東料理店を潰す(26) [千駄ヶ谷物語]

mizukouzu_1.jpg 嵐山光三郎『おとこくらべ』の「りんごさくさく」に、白秋の同郷・同年の歌人・島田旭彦が千駄ヶ谷で広東料理店「楽々」を出していた、と記されていた。

 52歳の旭彦が(白秋も52.昭和11年ならば成城の白秋宅)訪ね来て、秘書の宮柊二が言う。「ガンジーです。酔っぱらっています」。旭彦は色浅黒く、容貌がガンジーに似ていた。内気だが酔うと始末におけない。旭彦が絡む。

 「最近、あんたらはうとの店になして来んとですか」。旭彦は深川区役所を辞めた退職金で1年前に千駄ヶ谷に「楽々」という広東料理の店を出した。白秋が案内状を書いてくれたが、歌人仲間は一向に来てくれないと文句を言う。

 白秋が「いま戒厳令下ど(2・26事件)。みんな料理店へ行く暇はなかとぞ。そいけん歌人協会の集まりもおいの自宅でやったとぞ。ガンジー、金に困っとっとやろう」と白秋は菊子(三番目の妻)を呼び、五十円を封筒に入れて渡した。

 嵐山光三郎著は、概ね以上の記述。広東料理店「楽々」については川本三郎『白秋望景』にも出てくるが、詳しくは『白秋全集36』が詳しい。島田旭彦は昭和11年11月22日に脳溢血で急死。白秋は荒川三河島の陋巷を訪ね、遺体に接した後に詠んだ「貧窮哀傷」47首について記している。つまり、旭彦が酔って白秋宅を訪ねて間もなくの死だった。

 「あはれさはあふるる涙とどまらず生国も歳も同じこの死びと」「外に遊ぶ末の弟娘が声きけば父死にたりとまだ知らざらし」「人は死に生きたる我は歩きゐて蛤をむく店を見透かす」。白秋は別れた女にもクールだが、友の死にもクールで無常観を詠む。そう云えば「サトウハチロー」も都内警察の留置場すべてを体験のワルで、女性関係もドロドロだったが(佐藤藍子『血脈』)、そういう奴が子供向けの純朴な歌を書く。

 その頃の白秋も糖尿病と腎臓病で視力を失いつつあった。白秋の終焉の家は阿佐ヶ谷で、旭彦急死の5年後の昭和17年、病の床で郷里・柳河(柳川)写真集『水の構図』序文を書き、その1ヶ月の11月2日に亡くなった。57歳だった。写真は同写真集に掲載されたサングラス姿の白秋。(国会図書館デジタルより)

 さて、旭彦の店「楽々」は千駄ヶ谷のどの辺にあったのだろうか。『白秋全集36』の「旭彦覚え書」に~昭和十年の秋、旭彦は千駄ヶ谷の八幡通りに広東料理「楽々」の招牌を掲げた。深川区役所の雇員を辞めた退職金の殆どがこの資金に吐き出された。初めは「おでんや」をはじめるつもりで造作もしたのであるが~(中略)人の甘言に乗せられて「楽々」の店を譲り受けた。主人は老酒の名も知らず、細君は「メニュー」を料理名と思っていた、と余りに無知。高給の広東人コックを雇って、半年経たずにつぶれてしまった~

 白秋は「楽々」のチラシ文も書いたと全文掲載。~名も苅る萱の千駄ヶ谷三丁目に、気も楽々と広東料理の灯をかゞげて、新に荒き波の潮に生を凌がむとする島田旭彦は~。以後は友を悼む文章が10頁に亘っていた。「楽々」は鳩森八幡神社から南西方向へ坂を下る商店街かなと推測するが、いかがだろうか。

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