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方丈記27:閑居への愛も執心か~ [鶉衣・方丈記他]

somosomoitigo_1.jpg 抑(そもそも)一期の月影かたふきて、余算山の端(は)にちかし(余命の端も近い)。忽に三途のやみにむかはん時、何のわざをか、かこ(託つ=歎く)たんとする。仏の人を教給ふおこりは(おこりは=始まりは。岩波文庫は〝趣は〟)、事にふれて執心なかれとや。今、草の庵を愛するも科(とが)とす。閑寂に着するも障(さわり)なるべし。いかが用なき楽しみをのべて、むなしくあたら時を過さん。しずかなるあかつき、此のことはり(理)をおもひつづけて、みづからこころにとひていはく、世をのがれて山林にまじはるは、心をおさめて道をとなはん(仏道修行をする)為也。しかるを、汝が姿は聖(ひじり)に似て、心はにごりにしめり。

 『方丈記』が評価される一つが、この「抑一期の~」の文にあると指摘する方が多い。つまり、隠棲の境地に達したかの後で「草庵を愛するのも、静かな生き方に心を休めるのも、執心ではないか。語っている姿は聖に似ているも、それゆえに心が濁っていると云えなくもない。その自戒は、こう続く。

 住家は則(すなはち)浄名居士(浄名=じょうみょう。インドで釈迦の教化を助けた長者。居士=寺に入らず家に居て仏門に入る男子)の跡をけがせりといへども、たもつところは(修行の結果は)、わづかに周sumikaha2_1.jpg梨槃特(しゅうりはんとく=釈迦の弟子で最も愚鈍だった人)が行にだにも及ばず。もしこれ貧賤の報のみづから悩ますか(前世の報いによる貧しさか)。将又(はたまた)、妄心のいたりてくるはせるか(心が汚れての狂いか)。其時、心、更に答ふることなし。ただ、傍に舌根をやとひて、不請の念仏、両三返を申してやみぬ(二三度唱えるにとどまった)時に、建暦の二とせ弥生の晦日(つごもり)頃、桑門(出家者)蓮胤(れんいん=長明の法名)、外山の庵にして、これをしるす。

 月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな

 最後の文章も難解。「不請の念仏=心に請い望まない念仏」。岩波文庫版では「不請阿弥陀仏」。五味文彦は「不請阿弥陀仏=不請の阿弥陀仏=阿弥陀仏に請わない。安易に頼らない」と言明していると記す。

 現職住職で作家の玄侑宗久は「一生懸命に唱えれば〝自力〟になってしまう。阿弥陀様に挨拶するように自然な調子で二三回唱えるだけでいいという親鸞の教えに近づいている」と解釈していた。

 最後の歌「月かげは入山の端もつらかりき たえぬひかりを見るよしもかな」は岩波文庫版にはない。「月の光陰が山の端に入る(消える)のは(寿命が絶るようで)辛いこと。絶えぬ光を見るすべがあればいいのになぁ」の意か。辞世歌。これにて『方丈記』おわり。最後に、その後の鴨長明さんについて。

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