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大正13年竣工「明治神宮外苑競技場」(27) [千駄ヶ谷物語]

meijigaien_1.jpg 千駄ヶ谷といえば、やはり目玉は国立競技場だろう。後藤健生著『国立競技場の100年』(ミネルヴァ書房)、山口輝臣著『明治神宮の出現」(吉川弘文館)、蜷川壽恵著『学徒出陣』(吉川弘文館)を参考に、国立競技場の歴史をお勉強。

 明治天皇崩御が明治45年(1912)で、青山練兵場跡地に設けた仮設・葬場殿で大喪の儀。「天皇陵を東京に」の運動が盛り上がるも、埋葬は定め通り京都・伏見桃山陵へ。そこで東京市長や東京財界有志が、陵墓が不可なら東京に「明治天皇を祀る神社(内苑)+公園(外苑)」をというアイデアを思い付く。

 明治神宮内苑は「代々木の原」(22万坪)に国費で和風造営、外苑は「青山練兵場」跡に国民献金で洋風造営と決定。外苑の献金受付「明治神宮奉賛会」設立で徳川家達が会長就任。一気に予定額を越える624万円が集まったとか。

 「明治神宮外苑競技場」竣工は、大正13年(1924)10月。敷地は約1万坪。西側メインスタンド。他3面は芝生観客席で、収容数は3万5千人。日本初の大規模スタジアム。竣工直後から全国規模の「明治神宮競技大会」など日本スポーツの聖地へ。昭和4年(1929)に「日独対抗競技」。翌年に第9回「極東選手権大会」。

 スポーツ熱が盛り上がったが昭和6年に満州事変。昭和7年(1932)3月に「満州国」樹立。翌年に国連脱退。昭和11年(1936)の第11回ベルリン大会で有名なのが「前畑ガンバレ」連呼。第12回オリンピック東京開催(昭和15年・1940)が決定するも、昭和12年7月に日中戦争。戦火拡大でオリンピックどころではなく、東京開催を返上。昭和16年(1941)に第2次世界大戦。スポーツは「国防競技」に変わった。

 そして終戦。「政教分離」で〝神道〟が国から分離されて、内務省神社局管轄だった「明治神宮内苑」が「宗教法人・明治神宮」へ。外苑も「競技場」(文部省)の他はすべて時価半額で同宗教法人へ払い下げられた。

 かくして今も「聖徳記念絵画館」は明治天皇を描いた絵画館で、「明治記念館」には大日本帝国憲法草案を作った建物を保存。今の明治神宮球場も「宗教法人・明治神宮」。

 昭和14年の地図から当時の外苑の様子が伺えます。野球場南「青山の女子学習院」は東京大空襲で焼失後に秩父宮ラグビー場へ。女子学習院は新宿・戸山キャンパスへ。当時の競技場写真は、ネットの画像検索で「競技場絵葉書」を見ることができます。

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