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焼け跡に日野皓正のトランペット(41) [千駄ヶ谷物語]

IMG_0998_1.JPG 日野皓正、昭和17年、高円寺生まれ。昭和20年(1945)に疎開先の盛岡から焼け跡・千駄ヶ谷5丁目の親戚所有地に建てたバラックで戦後生活開始。(山手線と中央線に挟まれた一画か?)

 「焼け跡・千駄ヶ谷には未だ誰も住んでいなくて、富士山がよく見えた」。ワシントンハイツ竣工後で、バラック前に米軍接収の1軒家があった。皓正少年は同家のブッチ少年と交流。日野の父は戦前の日劇タップダンサーでトランぺッター。ブッチ少年は日野の父からタップダンスを習い、皓正も5歳からタップシューズを履き、父から厳しく仕込まれた。

 鳩森小学校に入学、(その名から「鳩森八幡神社」傍と思われるが、中央線の向こう側、新宿御苑の千駄ヶ谷門前。同小学校の通学圏は東京体育館、鳩森神社周辺の千駄ヶ谷1丁目、北参道駅周辺の千駄ヶ谷4丁目を含む)。トランペットの練習は小学3年、9歳頃から。父の古いトランペットで、学校へ行く前の30分、放課後に2時間、そして、父がキャンプやキャバレーの仕事から帰宅後の夜12時頃にまた練習。

 後のNYで活躍のベーシスト・中村照夫少年が、日野少年の〝河原〟での練習音を耳にしていたとか。最初は渋谷川と思っていたは、当時を思えば玉川上水が現・新宿南口の文化学園辺りから千駄ヶ谷へ「原宿村分水」が2本も流れ込んでいたゆえ、その河原と推測した。(あぁ、中村照夫ライジング・サン・バンドのレコードを持っていたような~)

 皓正少年は、練習より遊びたい。東郷神社の池で泳いだり、明治神宮の池で鯉を釣ったりの悪戯盛り。中学生になると代々木寄りへ移住だが、弟・元彦と共に馴染の地、外苑中学校(現・明治通り内側に千駄ヶ谷小学校で、山手線側に原宿外苑中学校)へ入学。

 父がタップで、弟がドラムスの「日野ブラザース」でワシントンハイツに出演。皓正少年は〝見世物はイヤだ〟と荷物運び。この頃に「原信夫とシャープス&フラッツ」のトランぺッターがカッコよく、それを見たことで練習に熱が入る。日系2世のディ―プ釜萢の新宿(大久保)の「日本ジャズ学校」(昭和25年設立)や、千駄ヶ谷に出来たジャズ学校へ通い出す。

 昭和28年(1953)、父に連れられて「浅草国際劇場」公演のルイ・アームストロングを観た。前座はフランキー堺のバンドだった。次第に腕を上げてワシントンハイツから成増、立川、朝霞などのキャンプに出演。中学生で早くも新宿のキャバレー「リド」にも出演。佐藤勉に師事・修行。

 日野皓正の少年時代を例に挙げたが、戦前からのジャズマン、戦中生まれの多くのミュージシャンたちが、かく米軍キャンプや米国文化に触れつつ、戦後日本のジャズや、ポピュラー音楽のブームを興して行ったことは衆知のこと。またワシントンハイツ在住の日系アメリカ人、ジャニー・ヒロム・キタガワが、同ハイツ内の「ジャニーズ少年野球団」に代々木中学校野球部の飯野修實、真家弘敏、青井輝彦、中谷良三が通って来たことから最初のユニット「ジャニーズ」誕生。アイドルもまた同ハイツから生まれたと言ってもいいでしょう。

 以上、日野皓正については、小川孝夫著『証言で綴る日本のジャズ』、秋尾沙戸子著『ワシントンハイツ』、ネットに多数アップのインタビュー記事からの再構成です。

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