SSブログ

鳩森小学校周辺の実態(47) [千駄ヶ谷物語]

IMG_1076_1.JPG 次に朝日新聞縮刷版で、昭和32年(1957)2月22日の「温泉マークから子供を守ろう/浄化に父兄ら立上る/千駄ヶ谷鳩森小/衆院委でも実態調査」見出しの記事を見つけた。

 「鳩森小」は度々記すが、鳩森八幡神社そばではなく、新宿御苑の千駄ヶ谷門の前辺り。記事のリード文の概ねの内容~

 3月20日の衆院文教委で取り上げられた同小学校の環境調査のため21日午後、文部省2名、都教育庁の3氏が同校を訪ね、関係者から実情を聞いた。温泉マークの旅館32軒(別に建築中2軒)に取り囲まれ、昨年11月には正門も閉鎖。いまPTA代表が環境浄化に立ち上っている。この日も婦人たちはエプロンにタスキ姿で、立ち並ぶ旅館地域に浄化運動のビラを貼り、代表は原宿署を訪れて実情をうったえた。

 写真は同小学校付近でビラを貼るPTAの母親たち。本文で校長による説明が紹介されていた。「放課後の児童の教育が危なくなっている。この一帯は昼間の〝休憩〟が多く、ゲイシャ、女給などをつれてかくれ遊びをする中年が多く、あけすけな態度を平気で見せる。夜になるとマンボ族が交代して現われ、外苑通りに抜ける国鉄ガード下がとくにひどい」

 校長は説明後に二階角の3年1組の教室に案内する。窓のすぐ前に旅館の部屋が接している。4月の売春法実施を前に、新宿の靑線地帯がこの辺に流れこんでくる恐れがあると危惧する。

 次に国会資料。昭和32年3月5日参議院会議録がネットでヒットした。「第026回国会、文教委員会第8号」に「日本こどもを守る会」副会長で社会評論家・神崎清、鳩森小学校PTA会長が参考人で出席し、概ねこう述べていた。神崎清氏は小生も読んだ『実録 幸徳秋水』の著者だろう。

 「千駄ヶ谷は第二の玉ノ井である。千駄ヶ谷というとニヤリと変な顔をされる。千駄ヶ谷、原宿、代々木で114軒のこの種の旅館〝さかさくらげ〟がある。この温泉マークは組合の申し合わせで鳩森小周辺は撤去されているが、ほとんどがアベック旅館。千駄ヶ谷のアベック旅館は二千円から高級なのが三千円。女性を連れたアメリカ兵利用は鳩森、千駄ヶ谷のアベック旅館利用だったが、現在は減ってアメリカ兵利用は5、6件で~」

 「鳩森小学校」の通学区域は、新宿御苑・千駄ヶ谷門まえの千駄ヶ谷5丁目、東京体育館や鳩森八幡神社辺りの千駄ヶ谷1丁目、北参道までの千駄ヶ谷4丁目。

 さて〝連れ込み旅館街〟の当時の地図や写真は~。戦前の店舗名入り詳細地図はあっても、当時の記録は一切なし。嫌な過去は隠蔽したいのが人情。いま話題の「将棋会館」サイトの将棋ペンクラブの思い出記に、こんな文があった。

 「昭和36年(1961)に東中野から千駄ヶ谷に移って来た当時は、都内でも有数の連れ込み旅館街で、当時の古い建物を旅館だと思って二人連れが間違えて入ってきたことがあった」。当時は鳩森八幡神社周辺も〝連れ込み旅館街〟だったと推測される。また近くに当時を偲ばす「ホテル看板」がひとつ~。次に〝読み物〟から当時の様子を探ってみる。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。