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連れ込み旅館街の記憶(48) [千駄ヶ谷物語]

hoterukanban_1.jpg 鳩森八幡神社隣の「将棋会館」ブログに、こんな思い出話が載っていた。同会館が東中野から千駄ヶ谷に移転してきた昭和36年(1961)頃は「(この辺は)都内でも有数の連れ込み旅館街で、その頃の古い建物を旅館と思って、二人連れが入ってきたことがあった」と。

 東京オリンピックの2年前、昭和37年当時の千駄ヶ谷〝連れ込み旅館街〟について、梶山季之が『朝は死んでいた』(文芸春秋新社刊)で、概ね次のように書いていた。

 「代々木・千駄ヶ谷といえば、体育館や野球場のある神宮外苑所在地としてよりも、むしろ〝温泉マーク〟の代名詞として、東京のサラリーマン達には親しまれている。現在では、この界隈に数百軒の旅館がひしめき、お客の争奪戦をくりひろげている。各室バス、トイレ付きは常識で、なかにはホテルに較べて遜色のない豪華な施設をもった旅館もある。冷暖房はもちろん、室内にはテレビから電気冷蔵庫まであり、百円硬貨を入れるとチリ紙、衛生サック、強精剤がワンセットになって転がり出す器械まで置いているところも決して珍しくない。いわばデラックスな情事が、その密室の中で楽しめるようになっているのだ。しかも客は夜ばかりではなく、朝のうちから訪れてくる傾向にあるそうだから〝温泉マーク〟は大繁盛である。午前中にやってくるのは人妻と学生(後で記すが、山本一力の自伝的小説に、高校生の時に16歳年上の人妻と連れ込み宿を利用していたことが書かれている)、歌手とか映画俳優といったカップルだそうだ。〝昼下がりの情事〟を楽しむのは重役と秘書。若い高校生たち。夕方から午後十時頃まではBGとサラリーマン、商店主と女事務員~~」

 なべおさみ著『やくざと芸能と』にも、こんな記述があった。「家を出た19歳(昭和33年頃か)の私が部屋を借りた場所は千駄ヶ谷でした。ここは隣接する代々木、原宿と肩を並べた日本最高級連れ込み宿ホテル地帯でした。公務員の初任給が9200円の時代に、1泊1万円の部屋が幾らでもあるのです。その一画の四畳半でラジオの構成台本なんかを書いていると、旅館の玄関がチリリンと鳴って~」

 昭和30年代の日本人の欲望は、どうかしていたような気がする。小生は東京オリンピック期間は東京脱出して伊豆で遊んだ。3年後に社会人。デザイナーとして制作会社に2年間勤務後、昭和44年にPR会社へ転職した。入社直前に梶山季之が『チャスラフスカを盗め』を発表。キレ者社長率いるPRマンらが、大手広告代理店らを相手に、東京オリンピックの名花=ベラ・チャフラフスカ再来日時にCM代理権をトリッキーな展開で獲得した物語。小生は同社を2年後に退社で、以後はフリー人生。梶山季之に憧れたわけじゃないが、某週刊誌の某アンカーマンのデータマンを短期間だけ勤めたこともあった。

 写真は昔の〝連れ込み旅館街〟だった頃の名残だろう、鳩森八幡神社近くに営業を辞めたホテル看板が一つだけ〝何かを主張するように〟遺されている。

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