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連れ込み旅館が消えた日は?(49) [千駄ヶ谷物語]

imamukasi_1.jpg 次に「代々木山谷」生まれの川本三郎『いまむかし東京町歩き』を読む。「千駄ヶ谷」項のリードに、鮎川哲也『憎悪の化石』を引用。「戦前は上品な邸宅街として知られたこのあたりは、いわゆる温泉旅館というものがたくさん建って、いまでは千駄ヶ谷と聞くと連れ込み宿を連想するほどになったことだった」

 そして本文。「中央線の千駄ヶ谷~代々木駅と、山手線の原宿~代々木駅間、この二つの線路を二辺とする三角形は、昭和30年代には連れ込み旅館(いまふうにいえばラブホテル)が多いところだった」。そしてこう続く。

 「当時、新宿の映画館のプログラムのうしろにはよくこの旅館街の広告が載っていた。いま手元にあるものを見ると〝千駄ヶ谷、原宿の森に、静もる閑雅清楚な優良旅館〟〝新宿からハイヤーで五、六分で参ります〟の惹句があって地図が添えられて、十軒ほどの旅館が紹介されている」

 「戦前は〝上品な邸宅街〟だったところが、戦後は〝連れ込み宿〟の町に変わってしまう。戦争が町を変えた。世代交代もあったろう」。そして最後に~「現在はもう旅館はない。直木賞作家、木内昇の『茗荷谷の猫』(平成20年)の終章は、東京オリンピック直前の千駄ヶ谷が舞台だが、主人公の青年の目にはおしゃれな古いスペインタイルの家は入っても、連れ込み旅館にはもう気付かない」

 さて、千駄ヶ谷の〝連れ込み旅館〟は昭和39年のオリンピック前の環境浄化運動~文教地区指定ですっかり姿を消したと思っていたが、映画評論家で横浜国立大大学院教授の梅本洋一氏(2013年、60歳没)のサイト「nobody mag」に、こんな記述が残されていた。

 氏がオリンピック翌年の昭和40年(1965)に東郷神社裏の公務員宿舎「東郷台住宅」に引っ越してきて、外苑中学編入の頃の思い出。「鳩森神社の側に住んでいたTくんの家は〝温泉マーク〟で、朝はベッドメイクをしてから学校に来るのでいつも遅刻だ。Tくんの家の近くには、Tくんの家と同じ〝連れ込み宿〟がたくさんあった」。そんな光景は、いつ頃まで続いていたのだろうか。

 山本一力の自伝的現代小説『ワシントンハイツの旋風』を読むと、高校2年(昭和40年頃)にして16歳年上の人妻と〝連れ込み旅館〟で愛欲を貪ったらしい。やはり千駄ヶ谷の〝連れ込み旅館〟は生き残っていたのだろう。

 小生には自慢する〝性体験〟もなく、千駄ヶ谷にも無縁・無関心だったが、山本一力氏は小田急線・代々木八幡で暮し、ワシントンハイツ内新聞配達をしていたとか。小生の高校時代は、放課後に代々木八幡駅前の級友某の屋根裏に屯ったり、部活ランニングコースがハイツ沿いだったこともあって、同小説を読んでみたくなった。

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