SSブログ

米軍去り、オリンピック(52) [千駄ヶ谷物語]

tokyo1964.jpg_1.jpg 昭和32年(1957)4月に千駄ヶ谷、代々木、原宿が〝文教地区〟指定。これは翌年のアジア競技大会・東京開催と、昭和39年(1964)東京オリンピック決定も影響したらしい。

 昭和35年は60年安保。小生、附属高校入学。不良中学からゆえか、先輩らに地下室に連れ込まれて殴られた。キャンパスでは大学生らが物騒な(釘出し)プラカードを作っていた。高校生も大学生も荒れていた。

 高2で大人の山岳会に入った。アメ横の放出服が右翼っぽかったかで「オトヤ」と呼ばれた。同年の17歳〝山口二矢〟の浅沼稲次郎刺殺が由来らしい。

 6月15日、安保デモで東大生・樺美智子さん死亡。60年安保は全国的に盛り上がった。アメリカ文化への憧れ一辺倒からの大ギアチェンジ。そんな日本人の怒りを見てか、はたまた同国が「軍事顧問団」の名でベトナム参戦したかで、昭和36年に「ワシントンハイツ」代替地用意と移転費用80億円で全返還を表明。

 同ハイツはオリンピック選手村へ。現・調布飛行場や味の素スタジアム辺りの元米軍水耕農園(人糞を使わぬ野菜作り)跡に新「カントウ村」を建設で、昭和37年11月からワシントンハイツ部分返還開始で、翌年12月に全返還。

 ハイツ敷地は二分され、南側に国立代々木競技場、国際放送センター(NHK)、渋谷公会堂(CCレモンホール)を建設。北側が選手村。木造舎250棟、独身宿舎14棟を修繕して選手村・役員宿舎へ。新たに食堂3、共同浴場4、練習場を新設。米軍家族用の劇場は「オリンピック劇場」、PXは「ショッピングセンター」。

 昭和39年10月9日までに93ヶ国が順次入村。男子5900人、女子1000名。会期は9日から15日間。現在は代々木公園にオランダ選手仕様の1棟が記念に残され、独身兵舎跡はオリンピック記念青少年総合センター。

 写真はオリンピック開催3年前の第1号ポスター。亀倉雄策デザイン。なんと自信に満ちた堂々たるデザインよ。原爆とB29で焦土と化した日本。進駐軍、復興、そして朝鮮戦争特需を機に、力強く高度経済成長へ邁進の日本が象徴されているようです。比して2020年のポスターの精彩なきこと。

 あたしは、オリンピックがうるせぇ~てんで東京脱出して伊豆へ逃げた。貧乏学生で金乏しく、海岸沿いの百合の根を掘り起こして食い、混浴の村の銭湯へ入った。共に東京脱出した友は、後にカメラマンになって福生ハウスで暮した。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。