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若者文化・新宿~オイルショック(53) [千駄ヶ谷物語]

sinjyku2.jpg アメリカが「ワシントンハイツ」返還の旨を表明した昭和36年(1961)、同国は「軍事顧問団」の名でベトナム参戦。年々兵力増加。昭和40年には18万4300人を投入。

 昭和43年(1968)、虐殺事件から米国内で反戦運動。同年の日本は「新宿騒乱」。翌年、アメリカ「ウッドストック・フェス」。日本では「安田講堂事件」「新宿西口広場・反戦フォークゲリラ」。東大駒場祭ポスターに「止めてくれるな、おっかさん」。若者はカウンターカルチャー。お父さんは頑張ってGNP世界2位。

 1960年代末は「新宿の時代」。小生、社会人1年目はデザイナー。新宿西口広場の若者を、東口でシンナー吸う若者らを縫っての出勤。途中で「新宿プレイマップ」を買っていたかもしれない。後年、演歌の山本譲二に上京時を訊けば、彼でさえ「まずは新宿東口。そこで二日間を過ごした」

 「新宿風月堂」で首振りつつジャズを聴き、諏訪優のギンズバーク翻訳本などを読む。やがてヒッピーのジミーが我が部屋に転がり込んで来た。ある日、帰宅すると文学全集とジミーの姿が消えていた。近所の古本屋に小生の本がズラッと並んでいた。幾らで売れたやら、彼は元気にやっているだろうか。

 新宿で飲んでいると、ベトナムからの帰還兵だろう疲れた青年兵士らと幾度も逢った。杉本真人唄う『センチメンタル・ゲイ・ブルース』の世界。新宿2丁目のゲイの物語。♪女を知った三日後にGIジョーに抱かれた~

popeye.jpg_1.jpg 社会人3年目にPR会社へ転職。社長プロデュースのパピリオン見学に大阪万博へ。山本一力は、旅行会社転職で万博客の宿不足にラブホテル活用案で大活躍とか。そして数年後にオイルショック。

 若者文化も元気を失った。すでに「イージー・ライダー」のバイクの若者も南部で銃弾に倒れている。小生のフリー人生は滑り出し好調も、オイルショックで仕事を失った。数年を経た昭和50年(1975)、ベトナム戦争終結の年、中島みゆき『アザミ嬢のララバイ』『時代』のレコード会社向け分厚いプロモート計画書を書いていた。♪まわるまわるよ時代はまわる~。

 すでにカウンターカルチャーの拠点・新宿の時代は終わって、女性誌「an・an」「JJ」に次ぎ、昭和51年(1976)「ポパイ」「Hot-Dog PRESS」創刊。ブランド、ファッションの時代へ。そのマニュアル通りに生きた代表が田中康夫だろう。長野県松本から東大受験失敗で駿台へ。「ポパイ」創刊年に一橋大入学。キャンパスが中央線郊外だったことに我慢ができなかったか、所属サークル「一橋マーキュリー」資金で神宮前にマンションを借りた事件で停学留年。その時に書いたのが「ポパイ少年・JJガール」主人公の『なんとなくクリスタル』(昭和55年)とか。

 以上、昭和36年~55年の約20年の時代表層を一気にまとめた。田中康夫への興味なく未読ゆえ、38年後に読んでみることにした。千駄ヶ谷が「裏・青山原宿」的に出てくるらしい。写真は〝新宿〟の冠がとれた「プレイマップ」(復刻電子書籍が出ている)と、今も発行の「ポパイ」最新号。

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