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4)孔子経歴と『論語』経緯 [朱子学・儒教系]

kousitogyo_1.jpg 前回は最後文のブログアップ出来ぬ障害に遭ったが、次へ進む。湯島聖堂で孔子銅像を撮ったら、孔子経歴も知りたくなった。清水書院の3人共著『人と思想・孔子』、影山輝國著『「論語」と孔子の生涯』を参考にまとめてみた。 

 孔子は春秋末期に中国東部(現・山東省西部)の小国「魯」は昌平郷で生まれた(〝昌平坂学問所〟の由来)。当時の魯は周囲に従属する小国。

 孔子は70歳余の父、孫のような巫女を母に生まれた。高齢者と少女の婚で〝野合〟とか。孔子3歳で父没。父は下級なれど勇敢な武士だった。孔子は父の血をひく立派な体躯で、母を助けつつの貧窮生活。13歳から学校へ。15歳で学問を志す。19歳、魯の下級官僚になって妻を迎えた。子供は男女の2人。仕事は倉庫管理や牧場の繁殖係りなど。

 20歳、教師になる。音楽と学問好き。多数弟子を抱える。24歳で母没(父の墓に合葬すべくも所在地わからず。母も早く亡くなって孤児の説もあり)。36歳、君主が斉に亡命で、孔子も斉へ向かった。斉の貴族の家臣になる。斉の君主が抱えようとするも、孔子の儒の儀礼作法は費用がかさむと実務型政治家が拒否。

 37歳で魯に戻る。以後10数年間は私塾で子弟を教育。誰もに貴族独占的教育だった『詩』『書』などを教えた。52歳、魯中部の宰(町長)に就任。政治的手腕が認められて魯の司空職(土木を司る)から司寇職(裁判を司る)へ。

kousubyo_1.jpg 53歳、隣国・斉が魯を属国扱いにすべく会談に全権大使役で臨み、相手の策を一喝。斉は侵略耕作地を返すなどで謝罪。孔子は大司寇(法務大臣)に昇格。孔子の国政参画で魯は人心安定。次に三家に私物化されていた軍を魯国軍に統一すべく画策するもこれに失敗。孔子56歳より14年間の放浪生活へ。69歳で、魯に残した弟子らに呼び戻されて政治顧問になる。

 閑職ゆえ、弟子らの教育と古典整理に傾注。散逸していた『礼』『楽』『詩』『書』を整理し、魯国史『春秋』執筆。71歳、長男と一番弟子・顔淵が没。73歳、愛弟子・子路も没。孔子も74歳で没。

 孔子死後、門人らが師との対話集として編纂し、漢代に入って何晏らにがまとめた『論語集解』注釈(古注)が定着。その背景には、漢の前「秦」始皇帝が儒教弾圧で、漢王朝になって儒教が重んじられたことの影響もあるらしい。そして朱熹(朱子)による新注『論語集注』へ至る。

 日本では平安~室町時代が「古注」で、江戸時代に「新注」が読まれた。面白いのは萩生徂徠の弟子が足利学校書庫で写した古注本『論語義疏』が寛延3年(1750)刊で、それが中国に伝わって古注復刻版が相次いだこと。

 写真上は湯島聖堂の孔子銅像と後ろの孔子廟。写真下は入徳門から孔子廟を臨む。江戸時代には孔子廟左側に「昌平坂学問所」が広がっていた。今は東京医科歯科大学キャンパスになっている。

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