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8)藤原惺窩と林羅山の違い [朱子学・儒教系]

fujiwaraseika.jpg_1.jpg 儒教が朱熹の謹厳さ反映「朱子学」になった。小生はこの辺で御免蒙りたいが「孔子vs朱熹」と同じく「藤原惺窩vs林羅山」も面白いので記してみる。

 惺窩には孔子的な人間味があり、また権力者・家康から離れたのに比し、弟子の林羅山は家康に〝曲学阿世〟で擦り寄った。以下は太田靑丘著『藤原惺窩』参考にまとめる。

 藤原惺窩は川中島合戦最中、永禄4年(1561)の播磨(兵庫)生まれ。父は歌道の下冷泉家系。7、8歳で仏門へ。18歳で父と兄が戦死。京都相国寺で禅学に専念。(若冲が〝山川草木悉皆仏性〟で描いた「動草綵絵」奉納は約185年後のこと)。30歳、朝鮮国使の宿舎・大徳寺に出向いて筆談。朝鮮はすでに朱子学の時代だった。

 文禄2年(1593)、33歳。豊臣秀俊(秀吉養子)に従って朝鮮出兵の後方根拠地・備前の名護屋(佐賀県唐津市)赴任中に明国信使に会い、また徳川家康にも謁見。これを機に、同年12月に家康に招かれて江戸へ。政治家必読『貞観政要』(唐皇帝・太宗の帝王学)を講じた。

 翌年、母の訃報で京都へ戻る。3年の喪があけた慶長元年(1596)、惺窩は明に渡って直接朱子学を学ぶべく薩摩から明へ渡航を企てるも、疾風で「喜界ヶ島」に漂着。

seika_1.jpg 京に戻った惺窩は、慶長3年(1598)38歳で、伏見城で監視下にあった朝鮮役捕虜の朱子学者・姜沆と会う。惺窩は彼から四書五経を写本。慶長5年、惺窩44歳、林羅山22歳が入門。羅山が同写本(新注)を読む。この辺は「林羅山」の項で消化済ゆえ省略。

 ここからが二人の分岐。惺窩は家康から身を退いた。森銑三著作集・第八巻「藤原惺窩遺事」にこんな記述あり。「或時(家康が)湯武の事を聞きたいと再三御望有れば、合点のゆかぬことぢゃ。大坂でも討つ思案かとて、それから御前へ出られなんだ」。(湯武放伐論=「孟子」にある討伐論)。

 惺窩は家康の野望察知で身を退き、慶長10年に京都鞍馬山麓の山荘に隠棲した。清貧に甘んじ、家系の和歌を、連歌を詠み、芸を否定せず、ユーモアも解し、神儒一致志向へ。心の広さから陸象山や王陽明らの長所も認めた。元和5年(1619)秋、59歳で没。

 惺窩の弟子で姻戚の30歳下の京都・松永尺五の講習堂の門人は数千人。ここから木下順庵、貝原益軒らが出て、順庵門から新井白石や室鳩巣らが輩出された。

 一方の林羅山は家康に擦り寄い、引き続き家光~家綱に仕えて、三世・鳳岡が大学頭へ。松平定信「寛政の改革」で朱子学が幕府公認学問へ。聖学堂に昌平坂学問所を設置。そこに招聘されたのが「寛政の三博士」。彼ら朱子学者の主張が「天道~将軍~大名・役人~国民」だった。(写真は藤原惺窩。国会図書館デジタルコレクション「肖像集」江戸後期刊より)。

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