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戸山荘⑮カニ川は二手にわかれ~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

kanihairu.jpg 「濯纓川(たくえいせん)」はあさき流なるに、おもしろげなる石をしけく(繁く=いっぱい/をしけく=惜しいこと。〝繁く〟と読んでみたが~)おきて、つたひありくさまも清げなりき。「清水御座郷屋」とて田舎めき(めく=~らしくなる)たるか、御ゆか(床)もなく、御腰休めばかり竹と木と交あはせて作られたるに、夏毛と冬毛の鹿の敷革を六ッ七ツ重ねて出しおかれしもゆかしけなりし。その横さまに御供のやすらひ所も有けり。これはなをひきく竹にて造られし。此御屋の内は、皆砂を敷わたして箒の跡も乱さぬさまにてありし。こわ(これはまぁ、なんとまぁ)御座のみあり。ちかく通り侍らねば、爰かしこに通べき道なきまゝに、かくまで心を懸られしは、御はからひと思はる。此ところのさま見渡し給ふけしきもなく、ひたすらにおくらきさま、餘の御すまひにかわりたるも興ある御事にて、又深き故もやあるらんかし(あるだろうよ)。『和田戸山御成記』(12)

simizuya.jpg_1.jpg <戸山荘に流れ込むカニ川は、上の全図(寛政年間作)部分拡大から、荘内に入るとすぐに北上する「古流」と、湿地へ流れる「流」に二分しているのがわかる。「流」は「清水御在郷屋」前の小泉水となり、そこから周囲の田畑への用水となって、名を新たに雅名「濯纓川」(大井川)になる。

 今年3月の新宿歴史博物館講座「尾張徳川家戸山屋敷とその庭園」講師・渋谷葉子氏(徳川林政史研究所)は、池泉は年代によって大幅に造り替えられたと説明。まず池水は南から「上の御泉水」「下の御泉水」「御泉水」の三構造。第一段階:主にカニ川より取水で満水。第二段階:「下の御泉水」が湿地化。北側(早大側)の「御泉水」はカニ川以外の水源によった。第三段階:南の「上の御泉水」が消滅し「下の御泉水」と「御泉水」が満水になって併せて「御泉水」になったと説明。

simizuya2_1.jpg 絵図(中)の「尾張公戸山庭園」(寛政5年)は第二段階の形だろう。カニ川は荘内に入るとすぐ二分され、「流」が小池泉にダイナミックに流れ込んでいるのが描かれている。そして絵図(下)「尾候戸山苑図」(幕末近くの様子)は、渋谷氏説明で「同図は東上空から南西方向を見たパノラマで、遠景の大久保から細いカニ川が石組トンネルを経て流れ込んでいる。それが「古流」。絵は林に隠れているが北上して「下の御泉水」へ。「清水御在郷屋」前の小泉水へは〝掘り抜き井戸二ヵ所からの流入だろう〟と説明された。文中の「御供のやすらひ所」は、図の赤いコの字型のことだろう。また「濯纓川」には摂津国小田の蛙(カジカカエル?)が放たれ、宇治の蛍(ゲンジホタル?)が放たれたとか。

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