SSブログ

戸山荘⑲古驛楼や高札の戯言 [大久保・戸山ヶ原伝説]

odawarajyukuzen_1.jpg <カットは全図の部分拡大。写真は小広場に建つ「古驛楼跡」史柱(赤丸)。この辺から右奥の建物(現「シルバー活動館」昔は児童館)へかけて小田原宿を模した町並が続いていたらしい。160年前の我家近所に、そんな戯れの宿場町があったとは、信じるも信じないも貴方次第。

 本陣といへる家には紫と白との布ませ(仕切り)の御幕引廻されしも、ちりめんにてあんなれば(~と聞けば)、風に吹なびきたるさまうやうやしくぞ見渡されたる。菓子(果物)の名をくすりに戯ぶれて茘枝(ライチ)丸、龍眼(リュウガン)圓、蜜漬丸などやうのkoekirousiseki5.jpg数々。金だみ(だみ=彩潰し。塗り潰す。金だみ=金泥で彩色すること)たる看板を臺にすへて、うしろには虎の絵かきたる屏風を建られたり。こゝをなん(強調)「古驛楼」と名付て、内のさまつきづきし(ふさわしい)。御上晴(御上=おうえ、座敷+旧字の晴=?)のご縁は高欄作りにて、氈敷ひらめ(平め)かしてことやう(異様、風変り)にこしらへ、こゝにはしばしやすらはせ給ひて興をそへ給ひし。

 <古語辞典、広辞苑ひもときつつ四苦八苦です> 我等ごときは始ことたりぬ(不足)など申せしも、いとふ(厭ふ)さみしげに成たるなどいいて、蓮葉につつみしかれいい下し(言い下し)給ふを手々に(てんでに)取てそたひにたひける(粗大に度ける?)。酒たうべ(飲む食うの謙譲語)など興ずるも多かりけり。御共のくすし(具すし=従い歩く)何がしかれがしそれがし(誰・彼某・某=だれ・あんた・わたくし)など、かの駕に乗てかたげ(乗手・担げ)ありきしも興尽ぬ事ぞ多かりし。かたへ(片方、傍ら)の経師表具したてて、かり張(無茶、むやみ)に懸置けるも、御もてなしの数なんめり。

 此所を過て大きなる木戸のある番所はいかめしくかまへ、火の番などいふめる(~ようだ)。とほしなとのさま(通行などの様)にいたるまでこまやかにぞ、其外面に星霜ふりし制札あり。たはふれの製し詞ことある中、落花狼藉尤くるしき事、草木の枝きりしたん停止の事。人馬の滞あつてもなくてもかまいなき事と、さもことごと敷そ建られたり。このころのたはふれ(戯れ)に書たらんものなりせばばかばかしき、御前にたてゝおかるべくもさむらはねど(さむらふ=「あり」の謙譲語。傍に控える、近づくことはございませんでしょうが~)、年ふりたれば(年を経たれば)、文字もさだかならず。やうやうとさゝやきあんじて(考えて)読つゞくるほどになんありけるにぞ。ふりにし(古るくなってしまった)世のしたはしげにや、人々もとふとみあへりき。『和田戸山御成記』(14)

 <高札原文と現代訳を以下に記す> 一、於此町中喧嘩口論無之時、番人ハ勿論、町人早々不出合、双方不分、奉行所江不可届事。(この町中において喧嘩口論これなきとき、番人は勿論、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所に届けべからざること) 一、此町中押買不及了簡事。(この町中で押し買いは了簡およばざること) 一、竹木之枝幾利支丹堅停止之事。(竹の枝、キリシタン堅く停止のこと) 一、落花狼藉いかにも苦敷事。(落花狼藉いかにも苦しきこと) 一、人馬之滞有てもなくても構なき事。(人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと)>

 <小寺著には37軒の町屋は約207m。1軒平均間口は約3間半(5.5m)。北端の木戸内に番所、外に高札。古驛楼と称する本陣は、以前は小田原名物の老舗「外郎屋」の名。この宿場町は享和3年(1803)の正月火災で27軒焼失。文化12年(1815)に古驛楼はじめ8軒再建。文政3年(1820)に11件、同4年に10軒完成で完全復活。弘化4年〈1847)の12代将軍家慶の来遊時にも町は健在。安政6年〈1859)の大火で焼失。同著は「虚構の町」で1章を設けて当時の図面入りで詳細紹介している>

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。