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戸山荘㉒五重塔、世外堂で完 [大久保・戸山ヶ原伝説]

gojyunotouup_1.jpg ここかしこめくりて、なたれ(傾)たる芝生の清き事いわんかたなく(言いようがない)、塵もなく、さし出し草もなく、たゞのしにのべたるか(伸ばし絶え間なく続くさま)ごときうちに、見上るばかりの大石をこともなけにすへ、そのほとりに芝つつしなとたへたへに(控え目に途切れ途切れに)あしらへるさま、御庭の事司しめさせ給ふ人の心の行しことぞおし量られて、いと感することの限りなりし。右りもかたの長畑道とて細く清らに直なる道に入らせ給ふ。<この大石風景は幾つもの絵図に描かれているも省略>

 左に「番神堂」また「五重の塔」有。事ふりし(事旧りし=ふるめかしい)白木造りにて、是なん餘慶堂にての眺望なりけらし(~だったようだ)。このほとりは竝木(なみき)の松数もしられぬばかたちつゞきたるか。林の竹の生たるようにて、枝もすくなくすなほにてのびやかなる。西北の風烈しき所なるにや、梢は皆東南になびきて、吹ぬに残す風の姿(風が吹くことによって残った姿)もめづらかなり。「稲荷」の宮ゐ(宮居)など拝まれおはします。

segaiji2_1.jpg 此道をはるばると過させ給ひて「世外寺」と名付られし古寺の跡有。地内に地蔵堂また大きなる鐘あり。楼は節々多くたくましき荒木にて造りたるも古めかし。八幡観音虚空蔵殊勝にも又とふとし。小高き岳より見やりけるに、こは名におふ大久保などいへるあたりを見おろしたるけしき。折から青みわたりしもたくひなくぞ覚え̪し。むかしはまことの寺にて、墓所なんと有しとし。万治の年号刻る石燈など有き。誠に閑寂たることともあわれけに見へしも、皆御庭の風情もとめんたよりに作りし成べし。西南山の車力門より還御おはし給ぬ。これは寛政五のとし、けふの暮つかた(暮つ方)のことになんありけらし(~たらしい)。

 そも此御庭と申は、将軍家大猷公(徳川家光)の姫宮、尾州家へ御入輿ましましたる時、御遊び所にとて進せしめ給ひし、二とせ三とせ過にし頃、さいつ頃(先つ頃=先頃)の外山の庭はいかにとも尋され給るに、尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心に任せ侍らしと仰せありしかは、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓て(やがて、にわかに)こと行はれ侍るとぞ申伝へたるとなん。

seikyo_1.jpg けふの御もてなしの御調度ともは、皆御宝にて尾州国よりはこびもて来しものなるか。程もなく築地の御屋敷なる御蔵へ運き行て舟艤(ふなよそおい)し、尾州国の御宝蔵へ送り、かりそめに造られし御調度迄一ツとして残し給はず、皆御宝の数に入られたるよし聞伝へし。其折しも幸に御供にまかりて、ここかしこ見し聞しこと計をおもひ出しはしはし書つづり侍るもよしなし。『和田戸山御成記』(16)完。

 <世外寺(せがいじ、コブ寺)があったのは現・生協(写真)辺りか。世外寺は千代姫がらみゆえ、尾張2代藩主・徳川光友の造営経緯をまとめる最終回に詳しく記してみたい。「五重塔」は現・小生マンション7F眼前が14、15階の戸山ハイツ群だが、昔ならば眼前に五重塔が建っていたのだろう>

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