SSブログ

戸山荘㉓徳川光友と千代姫と~ [大久保・戸山ヶ原伝説]

segaiji1_1.jpg 三上季寛『和田戸山御成記』最後に戸山荘造営に関して~<尾公こたへ給ふは、小身のやつがれ心(気持ち)に任せ侍らしと仰せありしかば、即命下りて早卒に御庭造りまゐらせよとて、頓てこと行はれ侍るとそ申伝へたるとなん>

 と簡単に記している。この尾公とは、11代将軍家斉御成りの際の9代藩主・徳川宗睦ではなく、戸山荘を造った2代藩主・光友のことだろう。加えて最後に本堂なしの「世外寺」も登場した。同寺は光友の正室・千代姫を産んだ「お振」の墓所・自証院(現・市ヶ谷富久町)が焼失で、家斉御成りの寛政5年の54年前、元文4年(1739)に世外寺(コブ寺)を移築したため。(絵図は尾候戸山苑図より。世外寺は現・生協辺り)

 ということで、戸山荘シリーズ最後は女性がらみだった光友の「戸山荘造成」経緯を簡単にまとめておく。光友の父・義直は家康の9男で、家光は2代将軍秀忠の次男。家光は衆道傾向ゆえ「おなよ」の孫娘「お振」を春日局の養女にしてボーイッシュ仕立てで側室にあげ、家光最初の子・千代姫が産まれた。「おなよ」は二度の結婚や夫浪人などの経歴、勉学で深い教養を深めており、義理の叔母・春日局の補佐役として大奥や家光の信頼を得た。しかし千代姫の母「お振」は、産後の肥立ち悪く3年後に没。

 12ヶ月の千代姫は、13歳の光友と婚約。寛永16年(1639)、14歳光友と2歳千代姫が婚姻。もし家光に男子が産まれなければ、次は光友が将軍なる密約もあったとか。だが2年後に家光に「家綱」が誕生。

 寛永20年(1643)、家光の勧めで「おなよ」は出家して「祖心尼」へ。同年に春日局も没。1646年、祖心尼は家光より寺社建立をと牛込に1万坪を拝領して「濟松寺」(現・早稲田駅から徒歩7分の榎木町)を開山。

 慶安4年(1651)に家光没。「祖心尼」も大奥を去って同寺へ。翌年に千代姫15歳、光友27歳の間に「綱誠」誕生。(側室が長男を産んでいるも、側室の子で嫡男へ。ちなみに光友側室は10名。子は正室の子も含めて11男6女。庭作りも好きだったが、子作りも好きだったらしい)

 寛文8年(1668)、濟松寺内に江戸有数の名庭を有していた80歳の祖心尼が、戸山荘の地4万6千坪余を光友に譲る。光友は翌年から造営開始。寛文11年(1671)、その隣接地8万5千坪余を幕府から拝領。理由は千代姫御病気御静養のためとか。周辺地も入手して計13万6千坪余の戸山荘へ。(尾張藩の江戸屋敷については徳川黎明会によるPDF「大名江戸屋敷の機能的秩序」渋谷葉子氏に詳しい)

 そして寛文末から延宝期(~1681)に戸山荘の主施設完成。戸山荘の作事奉行は尾州の加藤新太郎とか。なお「祖心尼」は濟松寺で余生を過ごし88歳で没。千代姫は元禄11年(1699)に62歳で没。増上寺に葬られたが、後に尾州瀬戸の定光寺に合祀されたらしい。この項は多数ウェブサイト巡りで自分流まとめ。また『和田戸山御成記』の三上季寛は、当時は御先手頭を勤めていた600石旗本と記したが、改めて同名検索すれば「火付盗賊改方頭」180代長官(鬼平モデルの長谷川宣以の8年後)でヒットした。多分同一人物だろう。次回にこのシリーズ主な参考資料を記して終わります。

コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。