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堀田善衛『方丈記私記』(4~5章私抄) [鶉衣・方丈記他]

hojyokinosyo.jpg_1.jpg 著者は20代後半「東京大空襲~終戦」の間に、『方丈記』を読み続けたと述懐する。鴨長明が「福原遷都」を、養和飢餓を体験報告したのは自分と同じ20代後半。時代は大きく隔たるも、青年期に戦争末期を生きた堀田の胸に『方丈記』が、いかに迫ったかは容易に想像できる。

 政治や天災からの絶望、社会転換が強いられた日本人民の、精神的・内面的な処し方、歴史感覚や歴史観には、それらから共通したものが流れているのではないかと推測する。『方丈記』が記す仁和寺(にんなじ)法印が、飢餓死42,300人の額に「阿字」と書いて弔ったこと、大地震の記述~。「悲惨の膨大量」は変じて「末期認識」へ至ると記した後で、著者はとんでもないことに気が付く。

 藤原定家の父・俊成はそんな波乱・悲惨に「我関せず」を貫いて『千載和歌集』の撰を続けた。朝廷一家の〝政治〟とはいったい何だったのか。それは「政治であって政治ではなし」。日本政治家の「責任もへったくれもない精神」は、この頃から形成されていたのではないかと記している。

 かく時代に長明はどう処したか。著者はまず藤原定家「初学百首」より「天の原おもへばかはるいろもなし秋こそ月の光なりけり」を紹介。定家20歳の作ならば1182年。42,300名が餓死した養和大飢饉の最中の作。そんな世間に我関せずで、ただただ秋の月光の美しさにうっとりしている。

 著者の胸は張り避けんばかり。朝廷一家の政治が、いかに「政治責任、結果責任に無縁」だったか。だが、その一方で人間が持ち得る最高の詩歌世界『千載和歌集』、やや時代を下がって『新古今和歌集』誕生は、そうした政治の無責任ゆえか。それが天皇制で、著者青春期の悲惨な戦争遂行者へと延々とつながっているのはないか。天皇と為政者の姿勢は『方丈記』の時代と同じく相変わらずの「吾事二非ズ」。

 政治に関与できぬ身分の長明は、身を動かして京の巷を足を使って観察し続ける他にない。著者が鎌倉の将軍へ会いに行ったのは、よく言われる宮仕えを求めてではなく、福原遷都視察と同じように、身を動かして現場を見るジャーナリスト的な政治関心・好奇心ゆえだろうと推測する。

 その推測根拠に『吾妻鏡』(鎌倉6代の将軍記)に記された鴨長明の、源頼朝・法華堂の柱に残した「草モ木モ靡(なびき)シ秋ノ霜消テ空(むなし)キ苔ヲ払フ山嵐」(草木も靡いた頼朝の権勢は、秋の霜のように融けて、残った苔に風が吹いてゆくよ)を紹介する。長明はこの歌を詠んだ後に、方丈の庵に籠って「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず~」と書き始めて散文の世界に入って行ったと記す。

 ゆえに彼の「無常感の実体」も、彼の異常なまでの政治への、歴史への関心からきたものではなかろうか。なんとも眼からウロコの指摘です。挿絵は明暦4年の山岡元隣『方丈記之抄』(国会図書館デジタルコレクション)より。

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