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映画「ソール・ライター」を観て② [スケッチ・美術系]

saulleiter_1.jpg ソール・ライターの写真代表作は、隠棲するずっと前の20~30歳(1940~50年代)作とわかった。例えば『足跡』(雪と赤い傘)は27歳頃(1950)、『Dont' Walk』(赤信号)や雪の『郵便配達夫』は29歳頃(1952)で、『看板描き』は31歳頃(1954)の作。

 その頃のソール・ライターと時代背景を知る必要があろう。あたしにとっての「イースト・ヴィレッジ」はヘンリー・ミラーだった(20歳の頃に彼の著作を読み漁った)。性と文学の彷徨・模索をしつつ、36歳で水彩画展を開催。

 ソール・ライターがファッション誌で活躍し始めた35歳(1958)頃のミラーは、すでに欧州で文学・水彩画の評価を得ていた。ライター38歳(1961)の時に、それまで輸入禁止(猥褻小説)だった『南回帰線』『北回帰線』の米国版が初めて発売。『南回帰線』はマンハッタンとブルックリンで暮した自伝的長編。(改めて読んでみたいが先へ進む)

 そして1950年代の「イースト・ヴィレッジ」はビートニックの時代。ジャック・ケルアックはライターの1歳上。『路上』刊がライター34歳の時。アレン・ギンズワークは3歳下。『吠える』刊がライター33歳の時。ウイリアム・バロウズは9歳年長で『裸のランチ』刊がライター36歳の時。ギンズバーグが「イースト・ヴィレッジ」で亡くなったのが、バロウズの死と同じ1997年。ライター74歳の時だった。

 ユダヤ教聖職者家の出のソール・ライターには、ヘンリー・ミラーの奔放な性の世界、ビートニックのドロップアウトとドラッグの世界に飛び込むには相当に無理があったが、彼らの詩や小説を貪り読んだに違いない。さらに「イースト・ヴィレッジ」は60年代にヒッピーの街になった。

 ソール・ライターは彼らの世界を横目にファッション誌の写真を撮り、あの「ストリートスナップ」を撮った。彼は何故アンダーグラウンドの彼らを被写体にしなかったのか。小生の若い頃の知人写真家は、怖い方の刺青や怪しい場所を撮っていたし(有名写真賞を受賞)、擬似強姦写真でカメラ雑誌掲載は1964年の五輪に東京脱出して伊豆で遊んだ友人だった。

s-nudes_1.jpg ソール・ライターには聖職者育ちの影響が相当に強かった、と容易に想像できる。激しく変化する新カルチャーの大洪水のなかで、彼に出来たことが、あのストリートスナップだった。

 そこには絵画面のジャポニズム、ビートニックらに影響を与えた鈴木大拙の「禅」、さらにはドイツを脱出した「バウハウス」系のデザイナーや写真家の影響も推測される。2歳年上の石元泰博はシカゴのニューバウハウス系で写真を学び、1960~63年のシカゴを撮った写真集『シカゴ、シカゴ』を1969年に刊。ソール・ライターはそうした構図理論に雪・雨粒・傘・滴・一瞬の美・脆さ~など現実(リアル)を超えた独自世界を写真にしたと考えていいだろう。

 老人になってからの写真代表作がないのは何故か。そのパターン完成から、さらに弾ける挑戦をしなかった、出来なかった。老いてからは写真より絵に情熱を傾けたように推測する。

 映画は89歳没の1年前製作だが、ガッシュで紙焼きに上塗りする際の紙焼きを現像所から受け取るシーンが映されていた。「上質紙の方が絵具のノリがいいでしょ」なる言葉入り。その紙焼き写真の上にペインティングされた絵が、実に素晴らしい。

 それらは2015年刊の画集『painted nudes』に収録も、あたしには手が出ぬ6千円。そのヌード写真の多くが恋人ソームズの若き日の姿だろう。艶めかしい裸体に、かつて生命力が弾けただろう頃を蘇らせるような明るい色彩が躍動している。

 映画『ソール・ライター』から、まぁそんなことを思った次第です。もうひとつは小生は老人らしく「もっとゆっくり歩き、ゆっくり考えること」が必要だなと反省したこと。

 挿絵上は彼の代表写真の~らしき図。挿絵下は小生にヌード写真の持ち合わせ?なしで、数年前に描いたマティスの簡易模写絵の上からソール・ライター風色彩で即興ペインティング。あぁ「せっかち」はいけませんね。彼のように今日は一筆、明日に一筆のペース。描き直しましょうか(似顔絵共々描き直しました)。

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