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ナダール①小説~風刺画~肖像写真家へ [スケッチ・美術系]

nadar1_1.jpg ソール・ライターが尊敬した画家ボナールについて「ライターとボナールも濃密複数愛者」を4月にアップした。ライター写真集の解説には「印象派の第1回展覧会会場は、伝説的写真家ナダールのアトリエ。その意では、ライターは彼の直系子孫である」と記した文章もあり。

 印象派をお勉強すれば、その第1回会場の写真を見ているはず。小生も見ているが、それが迂闊にも写真家ナダールのスタジオで、彼の愉快人生を知らずにいた。以下書(『ナダール 私は写真家である』(筑摩叢書)、小倉孝誠著『写真家ナダール~空から地下まで十九世紀パリを活写した鬼才』。写真左)から、彼の愉快人生を紹介したい。

 ナダール名は通称。1920年生まれ(江戸は文政3年で南畝71歳、北斎60歳、広重23歳、定信62歳)。実家はリヨンで印刷業で成功。父はパリに出て印刷出版を展開も事業失敗でリヨンに戻った。この時ナダール17歳(1847)。彼はパリに戻って新聞・雑誌に記事や小説を発表しつつ「カルチェ・ラタン」で約10年間のボヘミアン生活。当時の仲間ボードレールは、常に彼の成功に嫉妬とか。ボヘミアン生態を描いた風俗小説も発表した。

 雑文・小説家のナダールは、ナポレオン3世による第2帝政が始まると、ポーランド義勇軍に参加(28歳)。だが逮捕されてフランス国境に返還。厳しい現場を見たナダールは新たな表現手段「風刺画家」へ転身した。『滑稽新聞』などに連載。風刺画と鋭い批評文で人気を博すが、成功に安住しない彼は写真技術の発達で「写真家」へ転身した(30代半ば。1850年代)。

 まずは「肖像写真」で成功し、1854年にスタジオ開設。それまでの多彩な交際から著名人が続々とスタジオに集まり、後世の人々が(私たちが)見る多くの肖像写真を残した。ボードレール、『三銃士』のデュマ、空想科学小説のヴェルヌ、小説『居酒屋』『女優ナナ』のエミール・ゾラ。ショパンの恋人ジョルジュ・サンド。画家のドラクロワ、ミレー、クールベ、マネ。作曲家のロッシーニ、ベルリオーズ、ヴェルディ等々を撮影。

 「肖像写真家」で成功(従業員50名余)したナダールは、1860年にカピュシーヌ大通りにスタジオを移転。そこが後の印象派第1回展覧会・会場になる。雑文・小説家~風刺画家~肖像写真家への転身ことごとくに成功した彼は、また新たな挑戦を始めた。(長くなったので区切る。次回へ)

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