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牛込城跡の光照寺で「便々館湖鯉鮒」の墓 [牛込シリーズ]

kousyouji_1.jpg 「新宿発ポタリング」再開は、今夏ウォーキングで「コロナで閉門中」だった〝藁坂〟を上った先の「光鉄寺」へ。本堂前に新宿区登録史跡の牛込城跡の説明看板あり(内容は写真をどうぞ)。

 さて史跡看板はあるも、牛込城遺構があるワケでもなく、せいぜいが想像するに、当時はこの高台から南方向を観れば領有地の赤坂・桜田・日比谷方向が一望できて、牛込氏はさぞ気分爽快だったろうと推測するのみ。墓地を歩いて「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりふ)」の墓に出会ったことが嬉しかった。

 狂歌師・便々館については、今春に新宿西口は青梅街道沿い「常圓寺」門前の狂歌碑「三度たく米さえこはしやはらかし おもふままにはならぬ世の中」(2020年の今も、さらに強く深く広く〝思うままにusigomejyoato_1.jpgならぬ世の中〟になっています)。その碑の揮毫は光照寺崖下近くに50歳位まで在住だった大田南畝(蜀山人)だった。

 便々館の墓にも新宿指定文化財の史跡案内があった。「便々館湖鯉鮒の墓 江戸時代中期の狂歌師 便々館湖鯉鮒は本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生まれた。幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。はじめ牛込二十騎町に住む幕臣で狂歌師の朱学管江(あけらかんこう)に狂歌を学び、その後、唐衣橘州(からごろもきしゅう)の門下に転じ、世に知られるようになった。大田南畝(蜀山人)とも親交があり(~と常圓寺の狂歌碑についての説明があって)、文化15年(1818)4月5日、享年70歳で没した」とあり。

benbenkai.jpg_1.jpg benbenkan_1.jpg大田南畝は、同寺の崖下辺り牛込仲御徒町(現・中町)に50歳位まで在住。19歳で『寝惚先生文集』(序文・平賀源内)を刊で、狂歌師としても大人気。その後に散文小説『甲駅新話』(弊ブログで原文筆写済)発表。寛政の改革を皮肉った「世の中は蚊ほどうるさきものはなし 文武文武と夜も眠られず」作者と思われ、かつ同地で妻妾同居など、お上のお咎め危険に、狂歌人生から一転して「学問吟味」に挑戦し、二度目で合格して支配勘定へ。定信引退後の江戸文化人として再び大人気。便々館没から5年後の文政6年75歳で没。

 墓横の写真は便々館湖鯉鮒監修の『絵本狂歌山満多山(山また山)』。市ヶ谷八幡、王子稲荷、飛鳥山、護国寺など山の手名所の風俗を葛飾北斎絵に狂歌を添えた絵本。

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