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芸術倶楽部跡から尾崎紅葉旧居へ [牛込シリーズ]

geijyutukurabuato2_1.jpg 夏のウォーキングで、迷い辿り着けなかった神楽坂・横寺町の芸術座倶楽部跡と尾崎紅葉旧居を新自転車で巡った。

 早稲田通りを「神楽坂駅」まで走り、その先の左が「赤城神社」で、その斜め右側の「朝日坂」へ入る。坂を上り切った辺りのアパート風家屋が並ぶ壁の電柱横に「芸術座倶楽部跡地」の史跡看板あり(写真上・中)。

 「島村抱月・松井須磨子物語」は記したゆえ、ここでは場所の確認だけ。ドイツ留学後の抱月は「早稲田文学」復刊で自然主義文学の旗手の一人だったが、同倶楽部内でスペイン風邪で亡くなった。須磨子も後追い自殺した。

 同地よりさらに朝日坂を進めば右に「円福寺」。そgeijutukurabuato_1_1.jpgの先の左側に「尾崎紅葉旧居跡」(写真下)。以前に歩き訪ねたことがあるも、夏のウォーキングでは迷い訪ねられず仕舞い。自転車散歩のなんと簡単なこと。

 中央公論社「日本の文学:尾崎紅葉/泉鏡花」年譜より、簡単に尾崎紅葉プロフィールを追ってみる。明治元年(1868)芝中門町生まれ。本名・徳太郎。父は象牙彫りの名職人。母は漢方医の娘・庸(よう)。紅葉4歳の時に母が早逝。母の実家。芝神明町の荒木家で育つ。

 11歳、東京府第二中学へ。小学時代の山田美妙と再会。2年で退学。漢学を学ぶ。14歳、三田英学校入学。15歳、東京大学予備門へ。「文交会」に参加し漢詩文を発表。17歳、山田美妙や石橋思案らと「硯友社」結成。筆写回覧雑誌「我楽多文庫」発行。母の実家・荒木家と共に麹町飯田町へ転居。「硯友社」に川上眉山、巌谷小波らが参加。

ozakikouyoutaku_1.jpg 明治21年、20歳。『我楽多文庫』公売。江見水蔭らも加わって同人80名余。帝国大学法科入学。翌21歳『二人比丘尼懺悔』が出世作になり、読売新聞社に入社。

 明治23年、22歳。牛込北町41番地に移る。実はここ大田南畝の生誕地で、南畝の子孫で画家の大田南洋(南岳)が住んでいた後に紅葉が住み、紅葉が出たあとに江見水蔭が入居(これは小生の説)。

 紅葉は試験で落第したことで大学を退き文筆に専念。掘紫山と本郷森川町に住み、23歳で再び牛込北町へ戻る。そこから牛込横寺町47(写真左)に転じて永住する。以後、作品を次々に発表。明治30年(1897)、読売新聞に『金色夜叉』連載。明治36年(1903)35歳、胃癌で畢命。墓地は青山墓地。戒名は彩文院紅葉日崇居士。

konjikiyasya.jpg 三島由紀夫は~「巧妙練達な文章。奇思湧くが如く。警語頗る多し。客観描写の洗練と日本的なリゴリスム(厳格主義)を伴った人事物象風景の実存感・正確度を要求する態度は、その後の近代文学をがんじがらめにした。紅葉を読む時は、まず一種観念的なたのしみ方から入って行くことが必要~と記していた。文学的には浪漫主義、擬古典主義。島村抱月らの〝自然主義〟ブームと対峙。

 尾崎紅葉旧宅跡を訊ねたら、同宅玄関の間で書生暮し後に活躍した泉鏡花の旧居巡りもしたくなった。(続く) 写真左はかつて歴史的仮名遣い勉強中に古本市で買った「金色夜叉」の挿絵。

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