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泉鏡花②牛込南榎町から神楽坂へ [牛込シリーズ]

kyoukaenoki1_1.jpg 泉鏡花は尾崎紅葉の玄関番の修行を終えると、博文館主人・小石川戸崎町の大橋乙羽(18歳で母を失い、19歳で上京。硯友社同人で博文館主・大橋佐平の長女婿へ。紅葉が媒酌人)へ移った。紅葉は内弟子卒の祝いに西洋料理・明進軒(当時の牛込唯一の洋食店)で馳走。鏡花、初めてナイフ・ホークの持ち方を教わる。

 博文館の百科全集の編纂に携わるなどしつつ、同社発行の「太陽」「文芸倶楽部」「少年世界」など雑誌ジャーナリズムに触れながら、自身も「文芸倶楽部」に『夜行巡査』などを発表。一葉宅から戻った乙羽夫人が「お夏さんが褒めていましたよ」。当時絶頂期のminamienoki2_1.jpg樋口一葉からのお褒めに大喜び。

 『外科室』『活人形』『鐘声夜半録』『貧民倶楽部』『愛と婚姻』『琵琶伝』などを発表後の明治29年(1896)23歳、小石川大塚町57番地の家を借り、祖母と弟豊春を迎えて一家を成す。当地は広大な陸軍省用地(弾薬倉庫)の隣(現・茗渓会館辺り。跡見学園中高隣=昭和5年に跡見学園が同官有地=大塚町56番地を購入。区立窪町小学校の春日通り反対側)。『日本の作家 泉鏡花』には祖母きて77歳、豊春16歳と共に縁側で寛ぐ写真が掲載。当時の鏡花評は「奇異怪僻不自然の観念小説・深刻小説」。

 明治32年(1899)26歳。神楽坂の蔦永楽の抱え芸者・伊藤すゞ(亡き母と同名の17歳・桃太郎)と恋情も、紅葉これを許さず。能登輪島で芸妓の妹・多賀も自宅に引き取る、なお紅葉の愛人は神楽坂芸者・小ゑん。紅葉晩年の交情相手は芸者・小糸だった。

IMG_5633_1.JPG 秋27歳、牛込南榎町23番地(写真上)へ転居。同地は牛込天神から南へ坂を上り切った辺りの左「矢来公園」を経て、そこから2本目の路地を右に曲がった先のアパート一画。新宿区登録史跡「泉鏡花旧居跡」(写真中)が設置されている。新宿歴史博物館サイト「泉鏡花旧居跡」の写真は平成7年で、写っているのは二階建て一軒家。地名通り大榎が鬱蒼、野草蓬々の荒み切った2階家で、上下3,4間の家。2階の6畳が書斎で、下の6畳が舎弟斜汀の居間。現在は新築アパート風建物の角に史跡看板あり。文章・写真も平成7年地とは微妙に変わっている。

 なお「矢来公園」辺りは鏑木清方旧居碑があるも、二人の交流が鏑木が矢来公園に移転(大正15年)以前の明治34年(1901)頃からで、安田銀行頭取などの実業家・安田善次郎(松廼舎)宅で紹介されてから。南榎町在住時の作品は『高野聖』『葛飾砂子』(後に谷崎潤一郎脚色で映画化)など。

 明治35年(1902)29歳、胃病を癒すために逗子田越村桜山の一軒家で約1ヶ月を過ごしている。台所仕事に服部てる子がいたも、すゞが週2で通っていたとか。すゞと人目を忍ぶ「幽居」でもあったらしい。

izumihakusyu_1.jpg 翌30歳、南榎町から牛込神楽坂2丁目22番地(写真下)の新築2階家へ移転。いわゆる「物理学校裏」で、ここには「泉鏡花・北原白秋旧居地」の史跡看板が建っている。同年10月30日に紅葉が36歳で逝去後に、すゞと正式結婚した。鏡花の同借家に在住は明治39年7月までで、その2年後に北原白秋が翌年10月に本郷動坂へ転居するまでの約1年間ここに住んでいた。白秋は千駄ヶ谷に転居したのは、本郷動坂からだろうか。千駄ヶ谷では隣人の人妻と密通で囚人馬車に乗せられて市ヶ谷の未決監へ送られた。その辺の事情とその後の波乱人生については、弊ブログ「千駄ヶ谷物語23~26」で紹介済。

 次は麹町へ移った泉鏡花を紹介してみる。

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