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泉鏡花④麹町時代(イ) [牛込シリーズ]

 2泊3日の「検査入院」が〝こじれて〟15日間の入院生活になった。(コロナ無関係。入院にはPCR検査の陰性が必須条件) 退院後も即、日常生活には戻れず20日振りのPC起動です。この件については、いずれ記すことになろうが、まずは泉鏡花の続きです。

asahirennsai_1.jpg 泉鏡花、明治38年(1905)32歳。祖母(87歳)が死去。尾崎紅葉旧居近くの「円福寺」を菩提寺として雑司ヶ谷霊園に埋葬。弟の豊春は筆名「泉斜汀」で小説発表。札幌「北海道タイムス社」勤務で自立した。

 明治38年、鏡花は健康を害して約3年半、伊豆田越村(現・逗子市5丁目9番38号)で療養生活・小説『春昼』には、鏡花とすゞが散歩をした当時の逗子の風景が伺えるそうな。

 明治40年(1907)34歳。『婦系図』の新聞連載を開始。明治41年、すゞが大病(良質腫瘍切除?)手術。同年8月、妹の多賀が嫁ぎ先の富山で死去(32歳)、二人の子の赤痢看病で罹患とか。文学は自然主義(理論的指導者は島村抱月「早稲田文学」が牙城)の最盛期になるも鏡花奮闘す。

koujimatibunjin_1.jpg 明治41年35歳。牛込から麹町土手3丁目に移転。家賃30円。崖下の家(市ヶ谷~四谷間の濠寄り。同地域には後に内田多聞らも在住で、昭和13年に五番町に改称。現・番町会館辺りか~。写真下)。

 明治42年、鏡花は朝日新聞入社の夏目漱石を訪ね。60回分の小説連載を依頼。朝日新聞は漱石『それから』~鏡花『白鷺』~永井荷風『冷笑』~漱石『門』と続いた(漱石・鏡花の写真は国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 明治43年37歳。麹町区下6番地(現・千代田区6番地5番)に転居、ここが終の棲家になった。その旧居については次回として、まずはどんな時代だったかを探ってみたい。

 明治43年3月に『遠野物語』発表の柳田国男は鏡花を評価し、鏡花もまた『遠野物語』を「奇譚・妖怪の一つ一つに想像力を刺激される」と評価。鏡花は『夜叉ヶ池』『天守物語』など戯曲形式作を発表。明治44年に小説19編を発表。

utidadote3cyoume_1.jpg 次に永井荷風。『花火』にこう記している。~明治44年慶応義塾に通勤する頃、」わたしはその道すがら折々市ヶ谷の通で囚人馬車(大逆事件の)が五六臺引続いて日比谷の裁裁判所の方へ走って行くのを見た。(略)わたしは世の文学者と共に何も言わなかった。わたしは何となく良心の苦痛に耐へられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事について甚しき羞恥を感じた。以来わたしは自分の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如くはないと思案した。

 同年11月、荷風は「三田文学」に無名の谷崎潤一郎作品に対する評論を発表。谷崎は同書を持つ手が可笑しい程にブルブル震えるのを如何ともすることが出来なかった程に感激する。その谷崎は泉鏡花を「独特の世界に遊んだ作家」と記し、「日本には浪漫派の作家が少ないので、鏡花がひとり懸け離れて見える。その異色ある境地=鏡花世界に住するも陰鬱・病的・ひねくれていない。日本的な明るさ、華やかさ、優美さ、天真爛漫さがある。我が国土の生え抜きのもの世界だ」。

 明治44年秋頃から鏡花作の舞台が活発化。『婦系図』『南地心中』『天守物語』『戯曲日本橋』など演劇(新派、歌舞伎、能)とも係わりが深くなる。写真中は明治時代に文人らが多く住んだ「麹町文人旧居図」。次回は鏡花の終の棲家「麹町区下6番地11番地」宅についての詳細を記してみる。

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