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「クールベと海」展、観る前に~ [スケッチ・美術系]

courber_1.jpg 数年前に波の絵の簡易練習(写真下)をしたことがある。その時は「ウィンズロー・ホーマー」(米国画家)に注目したが、「新橋・親柱」確認の際に「パナソニック汐留美術館」4/10~「クールベと海」展の告知を見た。よし、その鑑賞後に「汐留川」を溜池まで遡ってみようと思った。

 ~と、愉しみにしていたが、ネットで山梨美術館「クールベと海」展の大学教授・美術ライターのYouTube「ギャラリートーク」2本を観てしまった。これ、巡回展覧会のデメリット。それで何だか食傷気味になってしまった。

 19世紀前半まで絵画は「海・女性裸体」は畏怖・神秘・宗教的な存在だった。それが科学的知識の普及で神話・神秘性から解放されてリアリスムの流れが生まれた。併せて鉄道インフラ拡充でイギリス南部やフランス・ノルマンディー辺りが海のリゾート化で、パリ裕福層の避暑地になった。ノルマンディー・ドーベルは「パリの21区」「海辺のパリ」と称された。

 ギュスターヴ・クールベは1819年(文政2年。この時、葛飾北斎59歳。歌川広重22歳)、フランスはスイス国境近くの山村で生まれ。18歳で工業専門学校の寄宿舎へ。息が詰まって、町の小さな家に下宿(ヴィクトル・ユーゴー生家)。21歳、パリのソルボンヌ大学法学部入学も、親の反対を押し切って画家を目指し画塾に通って、ルーブル美術館で巨匠らの作品を模写。

namisyusaku_1.jpg 画壇は従来からの擬古典主義がほころび出した頃でジェリコー、ドラクロワ、アングル、ルソー、ミレーなど。クールベはお気に入りのパレットナイフを使って憑かれたように描き続けた。「絶望した男」から「石割り人夫」へ。彼のアトリエに屯うボードレールも描いた。22歳で初めて海を見た。

 1854年、35歳。南仏モンペリエ滞在。1855年、36歳。パリ万博に大作「画家のアトリエ」「オルナンの埋葬」が落選で、博覧会場近くに小屋を建て入場料1フランの、美術史上初の個展を開催。この時に「レアリスム宣言」。1866年、47歳で世界で最も猥褻な「世界の起源」(女性陰部)を描く。レアリストの面目躍如。神話的女体ではなく、肉感的に熟れ崩れ気味の女体「水浴びする女たち」など多数の裸体画を制作。彼の女性裸体画のほとんどは野蛮さと魔力の双方が指摘される)。

 そして1865~1869年頃にノルマンディーのトゥルーヴィル、ドーヴィル、エトリタなどに毎年出掛けて、盛んに「海・波」(生涯に100余点の海を)を描いた。1870年、51歳。パリ・コミューンに参加して逮捕。1873年にスイスに亡命。その4年後に58歳で没。

 マリー・ルィーゼ・カシュニッツ著『ギュスターヴ・クールベ ある画家の生涯』(鈴木芳子訳)も読んだ。だが最も猥褻な問題作『世界の起源』には相当にぼかし暗示した数行(トルコの王子のために描かれた秘密裡にしか見せられない女性の下半身に~)があるのみだった。(2018年9月のニュースサイトで、パリ発で同作モデルが判明!で盛り上がっていた)。

 ちなみにクールベが『世界の起源』を描いたのは1866年。北斎はその50年余まえから春画(艶本)を描き、バレ句を添えるなど〝遊び心〟に満ちていたし、また北斎の「波」も素晴らしい。

 世阿弥が能の神髄を「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と『風姿花伝』に記したが、それは形式芸能のことで、リアリスト宣言のクールベから『世界の起源』を隠しては意味ないように思った。~そう云えば、近所の「花園神社」境内「威徳稲荷」に、木製巨大男根像が「秘する」ように祀られているのを1週間程前に初めて知って、ちょっと衝撃を受けた。次にそれを記す。 

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