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秘すれば花。「花園神社」の巨大麻羅 [散歩日和]

hanazonomara_1.jpg 先日、別サイトで新宿職安通り~大久保コリアンタウンを結ぶ入り角の石像に背中合わせでメール打つ女性がいて、「メール打つ背中合わせの男根像」として写真アップした。その像は済州島の石爺(トルハリバン)で帽子が亀頭の子宝を授かる像、つまり男根像だった。

 そんな事が契機で、なんと近所でお馴染みの「花園神社」境内の末社「威徳稲荷大明神」に、それは立派な木製男根が祀られているのを知ってしまった。

 同神社へは自宅~三丁目伊勢丹の徒歩途中にあって、氏子ではないも、まぁ馴染の神社。しかし境内の、ちょっとミニチュアっぽい小さな鳥居の連なりをくぐり参拝しようとは思わなかった。

 大田南畝(別人作の説もある)の『甲驛神話』(内藤新宿で野暮と粋な男が遊ぶ戯作)全文を筆写+挿絵複写で「くずし字」勉強もし、遊女投げ込みの成覚寺のご住職から説明も受け、三田村鳶肴『岡場所遊郭考』の内藤新宿の歴史を読み、野村敏雄『新宿っ子夜話』などdankon6_1.jpg多少は「花園神社」の歴史にも触れて来たが「威徳稲荷大明神」のことは知らなかったぁ~です。

 かくして初めて鳥居をくぐって参拝。神額掲げた梁の上に、その赤黒く艶々とした巨大男根(麻羅)がチン座していて、腰が抜けるほど驚いた。社の土台塚にもコンクリート製らしき可愛い男根も屹立していた。

 なんでも同大明神は昭和3年4月頃に建立らしいが、資料焼失で詳細不明(~が神社の説明なれど、なんだか怪しい)。同神社周辺にはいかにも関係ありそうな芭蕉句碑が二つ。『花園神社三百五十年誌』によれば~芭蕉が尾張名古屋に住んでいた時に、花園稲荷神社の別当三光院と非常に親しくしていて書簡を交わす仲。その書簡を通じてこの句が三光院送られ、それを碑にしたのだろう~と説明されていた。

 本当かしら。一つの句碑は「春なれや名のなき山の朝かすみ」(1698年の「泊船集」。「野さらし紀行」には~春なれや名のなき山の薄霞)。もう一つの句碑は「蓬莱にきかはや伊勢の初たより」(芭蕉が江戸を立って上方で亡くなる元禄7年元旦の句)。神社説明は時代的にズレているし、むろん威徳稲荷とも関係ない。

 また祠前の「神狐一体」は嘉永6年(1853)と説明されているが、これもまた威徳稲荷とどうつながっているのかわからない、同神社に関係しているのは「威徳稲荷社殿建設奉納者芳名」の大石碑で、これは平成4年(1992)5月建立とある。

inari5_1.jpg ちなみに野村敏雄著『新宿裏町三代記』には「雷電神社」合祀経緯が詳細紹介されている。『花園神社三百五十年誌』には末社に関しては、享和3年(1803)の火事でほぼすべてが焼失。それまでの末社は八社(第六天・毘沙門天・疱瘡神・天満宮・金毘羅大権現・三峰大権現・牛頭天王・千葉稲荷)。それらは合祀されてり、別殿に合祀。

 また明治10年(1877)の大火でも神社全焼。この時に末社の須賀神社、秋葉神社、北野神社も焼失と記されているだけで、また新宿遊郭内に稲荷神を祀った「三社稲荷神社」が平成17年(2005)に「威徳稲荷大明神」に合祀された~の記述をみる程度。また同稲荷は初午(毎年2月)に祭礼が行なわれているそうな。つまり、なにがなんだかわからず仕舞いでした。

 ともあれ中世以前の生殖に関わる民族神=性器形を神体・奉納物とする信仰は、明治5年から始まった淫祀邪教を戒める法令施行にとって、猥褻だとみなす道徳観が一般的になって、表向きには生活の中から排除されていったらしい。だがそれは国家権力がその浸透に邪魔だと弾圧(キリスト教、邪宗門、廃仏稀釈などなど)したもの。

 今日の歪み・捻じれきった日本にとって、この原初・原始・土俗・原点的な神像を祀ることは、日本を振り返るに貴重なご神体のような気もする。多産・豊穣・子孫繁栄・良縁・夫婦円満・幸せの和合・精力増強・恋愛成就・安産のお願いに、皆さんも新宿へお買物・お食事ついでに、ぜひ「花園神社」の末社「威徳稲荷大明神」の鳥居をくぐってみることをお勧めです。

 小生は無学かつ宗教や神には疎いし、性器形神体に特別な興味を持ってもいるわけでもなく、この辺で終わりたい。その範囲内で間違い記述に気付き次第、その都度訂正して行きます。最後にもうひとつ、「花園神社」で是非拝見したかった奉納額がなかったんです。次にソレを記してみる。

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