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『甲驛新話』引用・書籍一覧(34) [甲駅新話]

 早稲田大学・古典籍総合データベース『甲駅新話』(原本)、小学館『日本古典文学全集』の「洒落本・滑稽本・人情本」「黄表紙・川柳・狂歌」、岩波書店『日本古典文学大系』の「川柳・狂歌集」、永井荷風全集より『大田南畝年譜』、『森銑三著作集』第一巻・第十巻、浜田義一郎『大田南畝』、佐藤至子『山東京伝』、新宿歴史博物館刊『特別展 内藤新宿』、『蜀山人 大田南畝と江戸のまち』、岡本綺堂『新宿夜話』、『江戸東京切絵図』、『絵本江戸土産』(画・広重)、『江戸名所図会』(画・長谷川雪旦)、芳賀善次郎『新宿の散歩道~その歴史を訪ねて~』、安宅峯子『江戸の宿場町新宿』、野村敏雄『新宿っ子夜話』と『新宿裏町三代記』、鳥居民『横浜富貴楼お倉』、三田村鳶魚『未刊随筆百話』の「岡場遊郭考」、成覚寺ご住職のお話とプリント資料、久生十蘭『鈴木主水』、喜安幸夫『大江戸番太郎事件帳(ニ)』、新宿区地域女性史編纂委員会『新宿女たちの十字架』、中央公論社『洒落本大成』第九巻収録『甲驛新話』続編の『粋町甲閨』、旺文社『古語辞典』(第十版)、児玉幸多編『くずし字解読辞典』、岩波書店『広辞苑』(昭和三十年版)。


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遊女投げ込みの成覚寺‐Ⅱ(33) [甲駅新話]

muentou_1.jpg 「子供合埋碑」と「旭地蔵」は新宿区指定有形文化財。その説明板も設置されていたが、「子供合埋碑」奥の、箕輪「浄閑寺・新吉原総霊塔」によく似た「無縁塔」には文化財指定がなかった。何故だろうか。

 「子供合埋碑」は安永五年から明治五年まで約二百十七名が弔われているとの説明だったが、住職が下さったプリントには「戒名をつけず、或はこっそり埋葬したこともあったとすれば、これを上回る数になると思われる」の一文あり。多くの旅籠屋が規制外の遊女も抱えていただろうから、こっそり埋葬も伺える。そんな場合は「無縁塔」に弔われたか。昭和四十四年刊の芳賀善二郎著『新宿の散歩道~そ歴史を訪ねて~』に、この「無縁塔」についてこんな記述があった。

 ~無縁塔は遊女・行路病者などの無縁の死者を弔ったもので、三河屋大助という宿屋の親分が、天保八年(1837)に建てたもの。大助は牛太郎(客引男)で、遊女を一手に集めて方々の遊女屋に世話することを商売にしていた者で、新宿宿場では侠客としてとおっていた。

 ちょっとハッキリせぬ文だ。大助は牛太郎(客引男)か、女衒(ぜげん)か、旅籠屋主か、はたまた侠客か。「行路病者(こうろびょうしゃ)=飢えや病で旅の途中で行き倒れた者」。・そして芳賀著には成覚寺の項の冒頭に~

 「明治三十年ごろまで、遊女の待遇は犬猫同様の取扱いで、死んでからも着物ははがれ、髪飾りは取りあげられ、情をかけられても経帷子ぐらいをかけられるだけで、たいていはさらしもめんにお腰一枚で送り込まれてくる。拾文女郎と呼ばれた低い遊女は米俵に屍(しかばね)をくるんだまま投げ込まれてくる。その数は約二千二百人位といわれる」

 出典元はわからないが、いやはや大変な数字が出てきた。それほど多くの遊女らが戒名もなく葬れれ、この無縁塔に弔われているのか。ちなみに「拾文」とは江戸後期のかけ蕎麦十六文から、いかに酷い扱いだったかが推測される。

 野村敏雄著『新宿裏町三代記』に、昭和三年の調査が紹介されていた。新宿の遊郭戸数は五十三軒、娼妓数うは五百五十八人。遊興費規定は特等深夜・席料玉代各二円五十銭=計五円。三等深夜だと席料玉代各一円で計二円。つまり三等娼妓が泊り客をとると、客から入るのは二円。そのうち席料の一円は楼主。残りの一円を楼主と娼妓が折半。定規の取り分は五十銭。ここから六割を前借金として差し引かれ、実際に得るのはに十銭。これで食事、化粧、衣裳、医薬、日用品、風呂代まで賄う。絶対に稼げない、むしろ借金が増える仕組み。まさに底なし沼の地獄。多くの死者が出たことが伺える。

 今度は新宿区地域女性史編纂委員会編の『新宿 女たちの十字架』をひもとく。同著には明治六年の「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」による公娼制度以後の状況が詳しく報告されていた。同年、旧旅籠屋十七名(軒)の連名で「貸座敷」の許可を得、従来からの飯盛女は三百七十五人。加えて引手茶屋から「貸座敷転業」が十一軒。十五歳から二十代前半までが全体の八割。

 明治二十四年から三十六年までの成覚寺過去帳より作成された七十三名の娼妓死因は結核二十三、脚気十六、梅毒五。意外や性病より結核の死亡がずば抜けた数字。明治期の吉原もまた同じだったように推測される。そう云えば江戸末期にはコレラが大流行した年もあった。新宿の昭和十一年の娼妓数は七百四十一名、貸座敷五十三。売防法施行は昭和三十一年(1959)。江戸の旅籠屋時代より、明治以降の公娼性度以降の方がより劣悪だったようにも感じるが、どうだったのだろうか。

 芳賀善次郎著『新宿の散歩道』の掲載写真は左から無縁塔、子供合埋碑、白糸碑ろ並んでいて、今とまったく逆の配置になっていた。他にも「南無阿弥陀仏」の墓標に「山口屋寄子中」と刻まれた墓碑が片隅にあった。これは同旅籠屋で働き亡くなった男衆らの合同墓碑らしい。

 こう記して、新たに不明部分が出てきたが、機会があればまたご住職に「無縁塔」と「子供合埋碑」の違い、江戸時代と明治六年の公娼制度以後との違い、日清・日露、また第二次大戦時の遊郭状況なども伺ってみたいと思う。

 なお内藤新宿の旅籠屋(妓楼)が現・新宿二丁目(成覚寺の西側一画)に移転したのは大正十年(1921)。現・新宿二丁目は明治二十一年から「耕牧舎」という牧場で、舎主はなんと芥川龍之介の父・新原敏三。龍之介は明治25年生まれ。だが発展途上の新宿に牧場はそぐわぬと大正二年に郊外に移転させられた。跡地「牛屋の原」に大正七年の警視庁令で江戸時代からの旅籠屋が移転。大正十年に全軒移転完了。昭和三十三年の売春防止法まで遊郭・赤線だった。今はゲイ・ホモの街で、朝までオネエ言葉で盛り上がっている。

 この「成覚寺訪問記」を遊女らの供養として『甲驛新話』終了。次回に引用・参考本一覧をあげる。


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