内藤新宿の投げ込み寺・成覚寺‐Ⅰ(32) [甲駅新話]
『甲驛新話』登場の女郎は二十二歳の三沢さん、嫌な客には「あしか」となる綱木さん。田舎客の骨を抜く折江さん。茶屋の女将(後家)も女郎上がりと説明されていた。メモでは鈴木主水に惚れられた「橋本屋」白糸さん。ハナが落ちた勢州楼の玉河さん。内藤新宿を廃駅に追い込んだ内藤大八の馴染が「信濃屋」千鳥さん。豊倉屋の女郎から横浜・富貴楼女将となって明治の政治家、財界人の間で大活躍したお倉さんが登場した。
年季を無事に勤め上げるか、お倉さんのように身請けされるかして苦界を脱した女性たちはどれほどいたのだろうか。廓で病み亡くなって、投げ込み寺に葬られた方が多かったようにも思われる。吉原の投げ込み寺は箕輪「浄閑寺」で、内藤新宿は「成覚寺」だった。
永井荷風は「浄閑寺」を訪ね、「余死するの時は、娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ」と記した。荷風四周忌(昭和38年)に「新吉原総霊塔」前に詩碑と墓碑が建てられた。詩は「偏奇館吟草」より「戦災」の詩が刻まれ、墓碑に遺歯二枚と愛用筆が収められて筆塚とされた。
荷風の真似は出来ぬが、『甲驛新話』完読にあたって、遊女らの霊を供養して〆るのがいいだろう。靖国通りに面した成覚寺を訪ねた。「寛政の改革」で自害した(だろう)恋川春町の朽ちかけたお墓は、すでに幾度か参っているが、遊女らの掃墓は初めて。
本堂に向かって左側に「子供合埋碑」あり。その左の枝垂れ梅の奥に「鈴木主水」の〝白糸塚〟。「子供合埋碑」前に新宿区指定有形文化財歴史資料として説明板あり。こう記されていた。 ~江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)十一月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。
読んでいると、ご住職が声をかけて下さった。『甲驛新話』を読んで言うと、丁寧に説明して下さった。成覚寺が投げ込み寺になったのは享保元年(1718)の廃駅から約五十年後の明和九年(安永元年、1772)の復驛から間もない安永五年(1775)からとか。なんと『甲驛新話』刊の翌年である。明治五年(1872)までに二百十七名(大半が十六歳から二十三歳)が埋葬されたそうな。はっきりした数字や年齢が把握されているということは〝過去帳〟があってのことだろう。
「惣墓=共同墓地」。この「子供合埋碑」は実際に埋葬した「埋め墓」とは別の「拝み墓」。実際の「埋め墓」でお参りすれば〝霊が付く〟と嫌われて、旅籠屋仲間が協力して造った「拝み墓=供養碑」だと説明下さった。
もうひとつ、恋川春町の墓の説明文と並んで、新宿区指定有形文化財歴史資料「旭地蔵」説明あり。~「三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に十八人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(1800)から文化十年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうち七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客たちであると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。別名〝夜泣地蔵〟とも呼ばれていたと伝えられる。明治十二年(1879)七月道路拡張に伴いここに移設された。宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。
寛政十二年の翻迷信士と環浄信女から、文化十年の松野屋での心中、離間信士と照闇信女まで十九人の戒名が刻まれ、横に施主名の碑。豊倉屋、伊勢屋、中村屋など二十四の旅籠屋名が並んでいた。成覚寺の説明では、その後の大黒屋の心中が武士と遊女で、「享保の改革(吉宗)」で情死を〝相対死〟として厳しく取り締まるようになって、以後の情死は表沙汰にしなくなったのだろうと説明。そして気になったのが「無縁塔」だ。吉原・浄閑寺の「総霊塔」にどこか似ている。(続く)
最後は「跋=あとがき」(31) [甲駅新話]
粋(すい)とハ梅干、野父(やぼ)とハ鶏の名かときくやうや、新宿田舎にあやめ咲とはしほらしと、ぞめきの声、有頂天にひゞき、ヤツサコラサの息杖(いきつえ)坤軸(こんぢく)にこたへて、茶屋ハどんどん(人が入る)、拍子木かちかち。草鞋うる老父(ぢゞ)もいきはり(意気張)を覚へ、団子商ふ賤女(かゝ)もよしなんしとはねかけ、桑田変じて海道の繁昌を、唯一冊に書しるせしもの、二日酔のちらちら目に見れハ甲驛新話とあり。嗚呼、吾党いき(粋)ちよんの君子をして、これ(内藤新宿)にあそばしめば、即(すなハち)、其尻つまらざるにとかゝらん。随行散人随帰(ずいと行く、ずいと帰る散人)の枕上に跋(ばつ)す。安永乙末秋(安永四年) 新甲館蔵書
「跋:ばつ=あとがき」。「粋とハ梅干」は、酸い(粋)も甘いもの酸い=梅干の洒落。「野父とハ鶏」はヤボとチャボの語呂合わせで鶏。そんな答えが返ってくるような田舎の新宿で、あやまが咲くとはかわいらしい、と言っている。
「ぞめき=騒」。ぞめくこと、浮かれ騒ぐこと、冷やかしの客。「息杖」は駕籠かきや重い荷を担ぐ人がひと休みする時に、物を支えたりする杖。あたしは若い時分に山男だったので、荷上げの歩荷(ボッカ)さんが、背負子の後ろに支え棒をついてひと休みする姿を見た記憶がある。
「坤軸」は広辞苑に、大地の中心を貫き支えていると想像される軸、地軸とあり。「よしなんしとはねかけ」は廓言葉で、客の戯れ言葉に〝よしなんし〟と返している光景。「尻つまらざるにちかゝらん」は尻が詰まらん=おもしろくて止まらない。
以上で『甲驛新話』完。最後に内藤新宿の投げ込み寺・成覚寺を訪ねたく思います。
茶屋に戻った谷粋と金公(30) [甲駅新話]
<金>そんなら着けへて(着替えて)来やせふ ~と下へ <三>も一所におりて~
<三>あんなにいひじらけ(言白け=言い争って座を白けさす)にして置ちやア、おかしゐもんだね
<金>ナニサ、うつちやつて置なせへ
<三>そんなら、ぬしやアかならずちけへ内に来なんしよ、谷粋さんとやらハどふでモウ来なんすめへ
<金>廿七八日時分に来よふ
<三>けふハ三日(二十三日)だね。そんなら待て居いすよ
~<金>着かへる内を待かね <谷>二階よりおりる~
<谷>どふだどふだ、きつい感通(通じ合う)だの。人のこゝろも知らねへで
<金>サア、もふよふごぜんす
<五郎>モウ、ひとりの女郎衆ハヘ
<谷>よしさよしさ
<三>どなたも憚りもふしんした(失礼しました) ~金公がせなかをつつきて~ ほんにへ
<金>アイ、おさらば
<谷>三さわさん、おやかましうごぜんしたろう
<三>アイ、そんならどふぞ、又此頃にお出なんし
<谷>正月の十二三ある時(そんな時はない)に来やせふ
<三>きついあいそうさ。おさらばへ
<半兵衛>ごきげんよふ。又おちかい内に
<金>おせ話おせ話 ~くぐり戸がぐらりぐらり(廓の朝の常套句。門・戸が閉まって、脇のくくり戸から出る)~
<五郎>夕べハどふでごぜんした
<谷>ナニモウ、いめへましいふんばりよ。寝てばかり居やあがつたから、いざこざをいつたら怖がつて下たつけが、よくよくおそろしそうで、けへるまでつらも出しゑへねへ。金公なんざあとんだ事よ。
<五郎>ミさわさんのほんにーが気に入やせんよ
<金>ナニサ、谷粋さんを、なんでも連もふして来い、とつてさ
<谷>おれをば、とつぽどおそれて居よふよ ~いろいろはなしの内にさかミやの門ト~
<後>おはよふござります。サア、お上りなさりまし
<金>イイエ、もふ遅く成やした
<谷>モウ直にいきやせう
<後>そんなら煮ばな(煮端=煎じたての香味のある茶)を一ッあがりまし。~脇ざし、笠など出して~ 夕べの残りを上ませう ~と前きんちやくへ手をかけるを~
<金>~おさへて~ 何よしさ。取て置な
<後>それハありがとうござります
<谷>そんなら、おさらば
<後>ハイ、左様なら。又どふぞおちかい内にお出なさりまし
<金>アイ、おせわに成りやした
<五郎>どなたも御きげんよふ
<後>モシ、お羽折のお衿がまだおれません
<金>アイ、さあ、おさらば・おさらば
〇夏の夜は、まだ宵ながら明ぬるを、知らせよふとて烏がかあかあ、鐘がごんごん(天龍寺の鐘。今も明治通り沿い山門あり。中に入って右手に時の鐘がある)、舂米屋ががつたりがつたり(玄米を搗く店の臼の音)。
『甲驛新話』の挿絵は金公と谷粋の姿を描いた一点だけで、あとは行替えなしの全文棒組み。それでは読みずらいし、おもしろくもないので、今の会話文体裁のように会話毎に行替えし、内容に即した絵をあちこちから探して模写絵を加えた。シリーズ(4)で金公を、(5)で谷粋の絵を別々に模写したが、物語の最後で元の絵のように二人揃った一枚絵に戻した。
くずし字、江戸言葉の勉強に加えて筆ペンでの絵の模写は、いずれはオリジナル、たとえば筆ペンでさらっとスケッチでも描けるようになったらいいなぁとの魂胆がらみ。さて、思い通りに行きましょうか。
くずし字はひらがな中心の山東京伝の黄表紙『江戸生艶気蒲焼』、そして今回の漢字交じりの大田南畝(山手馬鹿人)洒落本(遊里文学)を筆写、読み書きしたことになります。洒落本は次の世代に十辺舎一九『浮世道中膝栗毛』、式亭三馬『浮世風呂』や『浮世床』の〝滑稽本〟へ。さらに為永春水『春色梅児誉美』などの〝人情物〟へ発展して行きますが、今度は何を読みましょうか。おっと、あと一頁。あとがき「跋」が残っていました。
「おっせんす」と「ごぜんす」(29) [甲駅新話]
<金>谷粋さん、こりやアどふでごぜんす
<谷>まあ聞てくんねへ。宵から今までふさり(臥さる=うつむく。ふす。ねる。江戸語)やあがつて、ちつと起したとつて、そつちこつち(其方此方=そちこち=あれこれ)いやあがるから、あんまりいめへましい(ネット調べをしたら甲州弁辞典で=くやしい。谷粋は甲州出身か)
<金>それでも、おめへでもごぜんすめへ(校注:通人のお前ににあわないだろう。この「ごぜんす」については後述)。しづかにおつせんしな。
<三>アイサ、お腹のたつ事がおぜんしても、志づかにおつせんすりやアようおぜんす。
<谷>なんだな、おめへ方まであじに並びを付て(校注:いっしょになってだが、「あじ」は手際よく、こざかしく、調子に乗っての広辞苑にあり)おればつかりつき出す(広辞苑:遊女に始めて客を取らせる、が出てくるが、校注:悪者にする。)のか
<金>どふしておめへを突出もんでごぜんす
<綱>ナニサ、おかめへなんすな、わたしもそうおふにハつとめ(相応には務めた=裏意ではイタした)いした
<谷>又口を出しやアがる
<三>綱木さん、おめへハ、マア、あつちへいきなんし
<綱>アイ、そんならゑへよふにお頼もふしんす ~と立ってとなりのざしきへはいり~ 哥松さん、おやかましうおぜんせう~
<哥松>アイ、なんだなむづかしねへ
<綱>ナニサ、もふいつそすきいせんよ
<哥>たばこを呑なんせんか
<綱>まあ、往て来いせう
<三>成ほど、お腹の立事もごぜんせうけれども、どふぞきげんを直しておくんなんし、わつちがどのよふにもあやまりいせう
<谷>そりやアもふ、思しめしおかたじけなふごぜんすが、あんまり安くするからのこつてごぜんす。そしてマア、おめへの前じやアいひにくうごぜんすが、こゝれへ来てあつかわれた(ここ新宿に来て安っぽく扱われちゃ)といつちやア、どふもげへぶん(外聞)が悪ふごぜんす。大きな声をしていふがミめ(見目=面目)でもねへけれども、あんまりでごぜんさあナ
<三>ほんに綱木さんも悪ふおぜんすが、あの子も若ふおぜんすから、気が付なんせん、そしてぬしも ~金公が事~ きげんよく居なんす事でおぜんから、ちつとハ御ふ肖(不肖=父に似ないおろかなこと、とるにたらないの意だが、校注=胸に収めて。校注の判断元を知りたいものです)もなんして、マア、お休みなんしよ
<谷>ナニサ、今からけへろうの何のと、おやしき物かなんぞのよふに、いやミからミをいふのじやアごぜんせん
<三>そりやアもふ、何おめへを悪く思ひす物でおぜんす。堪忍せへしておくんなんせバ、何も申事ハおぜんせん
<金>モウ、夜があけるそふだ。阪見屋も来やせふからきげんを直しなせんし
<谷>ナニサ、きげんを直すの直さねふのと、寝起のやゝさまじやアあるめへし
<三>コレサ、そんな事をおつせんしちやアふしが立て(角が立つ)悪ふおぜんす、なんでもわつちにおくんなんし
<五郎八>~ろうかより~ はい、お迎でござり、あす
<三>五郎どんか、とんだ早いね。サア、這入てたばこを呑なんし
ここでは遊里語の「おつせんす」と「ごぜんす」について記す。「おっせんす=おっしゃります。(言う)の尊敬語と辞書にあり。 「ごぜんす」は辞書になく、こう判断した。「御ぜんす=おぜんす=おぜえす」。こう変化すると考えれば「おぜんす」は辞書にある。「おぜんす=おぜえす=「ある」の丁寧語でござります。あります」。「ございます、ござんす」に当たるが、それより敬意の度は低い。「ございます」のありんす言葉は「ござりんす」。文脈から「ある」と判断したが、これで正しいとした。
江戸言葉については、以前調べたことがあって数冊の辞典が本棚にあり、子供時分を思い出すべく志ん朝落語口演本も読みこんだ。一方、遊里(廓)言葉は広辞苑に載っている言葉もあれば、載っていない言葉も多い。校注者はどんな資料でどう判断したのだろうか。
中野栄三著『江戸秘語事典』は6081円。真下三郎著『遊里語の研究』は古本で2700円(定価は1万円位か)、『江戸語大辞典』は古本で6042円。『江戸語辞典』は定価で20520円。隠居遊びゆえ、そこまではいらんように思うが、まぁ、古本市で安く出廻っていたら購いましょう。嫌な客には「あしか」になる(28) [甲駅新話]
<綱>ウゝゝ
<谷>是さ、用があらアな、目をさましなせへ、コウコウ
<綱>おがミいす、寝かしておくんなんし
<谷>マア、ちよつとこつちよヲむきなせへよ
<綱>エゝモウ、うるせへ。よしなんしよ
<谷>エゝ、何だ、此ふんばり(下等遊女を卑しめていう語)やア。ゑへかとおもやあがつて、あめへことば(甘い言葉)を懸りやア、つきあがりのしたびろうどべりのぼんござに寝ると思て、めつたに大きな面アしやアがる。なんぼ高くとまつても、たかゞ飯もりだ。此よふな貧乏屋てへ(屋台)でやすくされるよふなやろうじやアねへよ。惣(そう)てへいめへましい(すべていまいましい)、~と、たばこぼんをほうり出す。火ハなし(ト書きですね)~
<綱>~おき上り~ もしへ、何のこつでおぜんす。おつせんす(おっしゃりたい=廓言葉だろう)事があるなら、しづかにおつせんしたがよふおぜんす。新ぞう衆(若い遊女)じやアおぜんすめへし、怖がりもしゐすめへ
<谷>くそをくらやアがれ。しずかにいおふが高くいおふが、おれが銭でおれが買た座敷で、おれが口でおれがいふに、何の頓着(とんちゃく、とんじゃく=深く心に掛けること、気づかい)が有もんだ。それが悪かア、いわれねへよふにしやあがつたがゑへハ
<綱>わつちも、勤る所ハつとめて置ゐした。(イタすことはイタしたって意だろう)
<谷>何だ、勤た。あんまり虫がゑへ。百合若大臣(舞曲、浄瑠璃、歌舞伎の復讐物の主人公で、闘った後に三日三晩眠りこけたとか)の娘だかしらねへが、あしかから五節句を取るほどふさり(伏さる、臥さる=寝る)やあがつて、人聞(きとぎき)のゑへ。第一、うぬが名からして気にいらねへ。蕎麦切へ入る饂飩の粉(つなぎ)じやアあるめへし、つなぎだのなんだのと、おしのつゑへ(押しが強い=我が強い、ずうずうしい)。つなぎよりやア、
つばき(唾液)をなめてゑへ風だ。
全編会話構成で、場面説明(ト書き)を小文字で記入。『甲驛新話』はそのまま脚本として使えそう。 「おぜんす=おぜえす=〝ある〟の丁寧語。ございます、ござんす、あります」廓言葉。「つきあがりしたびろうどべりのぼんござに寝ると思て」は、「付き上がり」は丁半博打の張札。ビロウド縁の盆御座に寝ると思って、大きなツラをしやぁがる、と言っている。 「あしか」はよく寝るの代表的存在。五節句=七草、桃、菖蒲、七夕(笹)、菊の各節句にだけ起きるとか。その五節句もないほど寝ていると怒っている。綱木は酒事の会話から、ボソッと「嫌なヤツだ」とつぶやいていたから、寝りこけるのは確信犯だとわかる。
芝全交作・北尾重政画『遊技寔卵角文字』に、それにピタリの絵があったので模写した。ご丁寧にも絵の横に「よくねるあしかのよふだ」と書かれていた。当時の流行り言葉でもあったのだろう。メモ:豊倉屋お倉、明治を操る(27) [甲駅新話]
内藤新宿で代々旅籠屋(妓楼)総代を務める大見世が豊倉屋。太宗寺の斜め向かい。ここに安政三年(1856)、谷中生まれの伝法でちょいといい女(19歳)が身を売った(遊女)。彼女の活躍逸話の数々は横浜に移ってからだが、それまでの人生も面白いので、ここに記す。
父は丑五郎、祖父は川村屋徳次郎。一家は浅草堂前の私娼窟の店頭(たながしら)で、かつ十手持ち。「天保の改革」で岡場所取り壊し。一家は裏営業をつづけて摘発された。父は三宅島へ、祖父は流刑地の大島で亡くなった。(大島の流人墓地を探ってみましょうか)
かくして一家離散。六歳のお倉は浅草・馬道の夫婦に育てられた。娘になると水茶屋に立ち、一枚絵に描かれるほどの評判美人になった。鉄砲鍛冶の鉄六と恋仲に。所帯を持つが、安政大地震で鉄六は大怪我。まとまった金を得るために内藤新宿の旅籠屋に身を売った。金を鉄六に渡して「ちょっと風呂に行って来る」と家を出たまま姿を消した。行く先は豊倉屋。たちまち人気を得て、座敷持ちの女郎になる。今度は遊び人・亀次郎に惚れて、山谷堀の芸者・小万と競い合った。
大田南畝が「詩は詩仙、書は米庵、狂歌はおれ、芸者は小万に、料理八百善」と詠った小万だが、お倉に会って身を引いた。しかし亀次郎の遊びの尻拭いはきりがない。同じ内藤新宿「菊池屋」に移り、ここで八丁堀の与力・高橋藤七郎に身請けされて妾宅へ。亀次郎と切れずが発覚して放逐される。今度は品川「湊屋」へ。身代金の百五十両はむろん亀次郎の懐へ。ここでは金座の役人・誉田に二百両で落籍されて妾宅へ。またも亀次郎と脱走して、今度は吉原の引手茶屋「新尾張屋」の芸者に。吉原を逃げ、大阪を逃げ(大阪では芸者ではなく芸子)、さらに蒸気船に乗って横浜へ逃げた。
そこまでくっつき通した遊び人・亀次郎の祖父、父は植木屋。祖父の代に青花の石斛(せっこく、ラン科)を持っていたことで吹上奉行の目に止り、吹上御所の庭仕事を請け負う。十一代将軍は風蘭(ふうらん、ラン科)も好きで、風蘭の中でも特に素晴らしいのが「富貴蘭」。これを献上した褒美に、将軍から「富貴」なる書をいただく。これが後の横浜「富貴楼」命名へ。さらに加える。父の代になって飯田町から高田馬場は穴八幡辺りへ移転。広大な植木畑に職人と小作人合わせて百人。「穴八幡周辺に植木屋多い」の記述をどこかで読んだことがあるが、その植木屋の一人が亀次郎の父らしい。
横浜芸者時代に、井上馨と両替屋・糸屋平八の密会場所として小料理屋を持たされ、それが「富貴楼」の最初。店は次第に大きくなり、併せてお倉は明治の政治家、財界人を自在に手玉にとる大女傑になって行く。富貴楼・お倉を贔屓の政治家は伊藤博文、後藤象二郎、大熊重信、陸奥宗光、松方正義、西郷従道など。大臣参議も富貴楼で行われ「お茶屋の内閣」と言われたそうな。
お倉の本名は「渡井たけ」だが、彼女は内藤新宿「豊倉屋」での遊女名・お倉で生涯を貫いたそうな。この文は鳥居民著『横浜富貴楼お倉』と野村敏雄『新宿っ子夜話』よりまとめたもの。より詳しくお倉を知りたければ、鳥居著巻末に「参考・引用文献一覧」が載っている。内藤新宿の旅籠屋には、こんな遊女もいたというお話でした。
田舎客の骨を抜く女郎(26) [甲駅新話]
<孫>去年の正ぐわち(正月=しょうがつ、しょうがち、しやうぐわち)、御年頭に出府のヲして(領主の江戸屋敷に新年の挨拶をして)、けゑりがけにふと晩とまつてから、たげへに根性ぼね(骨)のヲぶちまけるよふに成るたアも(心底割って惚れあった)、前世のゑんにんぞく(因縁ずく?)だんべへよ
<折>なんでも、わつちやア、ぬしの所へいきゐすによ(どんなことがあっても、私はあなたといっしょになりますよ)、又いなかで性悪をしなんすなよ
<孫>でへせんもん(大誓文=起請文)、お身さまに(そなた、あなた様に)あにを(豈=決して)見けへべへ(見返ない、裏切らないの意だろう)
<折>なんぼ、ぬしがそふいひなんしても、先から(先方の女から)しかけられなんしたら、只ハ置なんすめへ
<孫>それに付(つい)て咄(はな)しがあるよ、去々年(おつとし)うらが国の生土(おぶすな=産土=うぶすな。土地の神様、氏神様、鎮守様、産土様)の祭りが有て、かぶきのヲした時に、うらも役者に成(なつ)てな、かやの勘平(忠臣蔵の早野勘平)のヲしたら、あにがはあ、江戸役者のよふだあとつて、ぢよなめいた(なまめかしい雰囲気)アほどに、隣村の庄屋アどんのおまんじよう(嬢=娘の名の下に付ける敬意語。名・おまん+嬢)が、がら(まったく)うつ(まるまる)ぼれて(惚れて)んの、おめへまいらせそるべく候(女性の手紙の決まり文句)の、惚証文(ほれぜうもん=恋文)のよこしたア事よ。それからあ、おき名(浮名)が立て、村中取ておつけへしたアよ
<折>それ見なんし
<孫>イゝニヤサ、それもはあ、今じやア、おつぱなれたア(離れた)から、あぜ、りん(悋)気する事ハおざんねへ
<折>ほんにかへ、真実わつちをかわいゝと思ひなんすなら、さつきの事を忘れなんすなへ
<孫>アニ、わすれべへ。かたびらふたあつ(帷子=単衣物)とふとへ物(?)だの、モウ、あに(何)もいらねへか
<折>どふも、そんなに、ぬしに斗(ばかり)ハ、いひにくふおぜんす
<孫>アゼ、そんなにきやく心(隔心)だア、あんでもいひなさろ
<折>そんならいひすよ、アノンネ、小遣にしいすからね
<孫>金か
<折>あい
<孫>いくらべへ入(いる)な
<折>弐両ばかりおくんなんし
<孫>あしたやるべへよ
<折>遅くつてもよふおぜんす、いつそわつちやア、気の毒でおぜんすけれども、外(ほか)に客衆がおぜんせんから
<孫>アニサ、お身さまがいふ事ハはあ、おでへかんさま(お代官様)のお触だア、とおもふもの
<折>ほんにかへ、いつそ嬉しうおぜんすよ
<孫>嬉しかア、こつちへ寄なさろ
<折>待(まち)なんし、ゆかたが引かゝつていひす
「じょなめく」をはじめに方言っぽい語が多いが、広辞苑や古語辞典をひけば、意外や意外ちゃんと載っている言葉が多かった。文字筆写は「くずし字辞典」で、新字体に直してからは「広辞苑」「古語辞典」。辞書ひき遊びでも御座います。
物語は隣座敷でも〝濡れ場〟へ。金公の相方・三沢も手水から帰って来て〝濡れ場〟でしょう。あちこちの座敷でウハウハ。そこで模写絵は故意かうっかりで〝濡れ場〟を見て、アンレマァと驚いている男衆。参考にしたのは歌麿の〝和印〟から。物語は二階の谷粋と綱子のカップルへ移ります。
居続け田舎客と女郎の~(24) [甲駅新話]
<田舎客孫右エ門>まだ三晩げばかりもいちづけ(居続け)のヲ、すべへさ(「する」の田舎言葉)
<折>そんなに居なんして、首尾(事のなりゆき)が悪くハごぜんせんか
<孫>アニサ、今度もうら(「おら」の転。俺、おら)は、お地頭さま(ぢとう。小領主や代官か))の御用事で出たアに依て、「あぜ(何=なぜ、どうして)町宿(一般の町人宿)へさがらずと、おやしきにとうりょう(逗留)しろ」とつて、せち(「切=せつ、ひたすら、しきりに)におとゞめなさつたアけれども、お屋敷にとまつたア時にやア、御門(門限)がげへに(校注:とても)やかましくつて、出べへにも入(いる)べへにも、やれ切手(通行許可証)だあ、事の引手だあのとつて、おつくうだアから、君に逢事(あふこと)がならねへと思案のして、「あんでも(校注:なんでも)町宿へさがらねへじやア、御用事が弁じ申さねふ(用事が済まない)」と、ちくのヲ(常陸・下野の方言で嘘)ぶん抜いて(嘘を言い放って)、町宿さあに居るもんだアから、アニ(なあに)はあ、三晩げや四晩げ、いちづけのヲしたアとつて、あぜふすべへ
<折>夫でも、ひよつとおやしきの御用が有たらどうしなんす
<孫>そのよふなア、ぐん(段取り)もして置たアよ
<折>どうしてへ
<孫>定(じょう)づけへの与太郎を宿さあに置たアから、御用事があれバ、ふとつぱしり注進のヲする申かわしだアよ。もしハア、ちんじちうやう(珍事中夭=思いがけない災難)で、間にあわねへとつても、御家老さまでもあんでも、ひでんの入るもなァねへ(不明だが、苦情の入るものはねぇ、のような意だろう)。あぜといつて見なさろ、こらいつちやア、どふかはあ、みそをあげる(味噌を上げる=自慢する。手前味噌を並べる)よふだあけれども、うらが曾祖父(ひゐじい)の代から、でけへ御用金の出して置もんだから、あにハア、寝せべへとおこすべへと、うらが心儘(こころまゝ)だあよ
<折>ヘエ、そんなら田舎でも、さぞ、ミんながこわがりいせうね
<孫>そりやア、はあ申にくいこんだが、新田のヲ、孫右衛門といつちやア、誰しらねへ者もねへ。分限(金持ち)のヲ内でも、一といつて二たアさがらねへよ
<折>わつちやアね、ぬしが此月はじめに来なんす筈で、来なんせんから、いつそ案じいしたよ
<孫>アニ、ちく(下野の方言で、嘘)だんべへ
<杉>そんなら、誰にでも聞て見なんし。法印(山伏)さんを頼(たのん)で八卦を置たり、待人(まちびと=逢えるようにとのおまじない)をしたりしゐしたものを
<孫>いかさまハア、縁ぞく(縁が結ぶ、とでもいう言い回しか)といふもなア、あじなあもんだよ
前回記した通り〝和印〟は出版されるようになったが、江戸時代の書籍は学者、好事家、大学などに秘蔵され、一般の人が見るのは叶わなかった。それが、なんということでしょうか。昨年末あたりから各大学などが蔵書する古典書籍類を次々にデータ公開するようになってきたじゃありませんか。この『甲驛新話』もしかり。今まで古典文学全集の新字体で読む他になかったのが、早稲田大学図書館のデータ公開で初めて原本(版)を読むことが出来ました。この積極公開に至る経緯はわかりませんが、なんと素晴らしいことでしょうか。感謝・感激・大絶賛です。このブログ『甲驛新話』は、公開データを祝しての歓びの表明でもあります。
〝一般公開〟の反対が隠蔽、隠匿、秘蔵、秘密でしょう。昨今の行政は、なぜか時代に逆行して隠蔽方向です。「特定秘密の保護に関する法律」で国民の知る権利を奪い、先日は内閣決議で「集団的自衛権」とか。こちらは憲法の勝手解釈。今の内閣陣の顔を見ますと、とても信用できる顔ではありません。狸か狐か。そう思えるのも無理はなく安倍晋三の選挙区は山口県で、副総理・麻生太郎は福岡県。あたしには縁遠い存在。知らない人なんですね。そんな彼らによる勝手解釈の「内閣決議」で、日本が変わって行くのは、なんとも怖く、嫌な感じです。個人情報保護法だって逆に名簿流出が止まりません。どこでどう調べるのか、セールス電話の多いことよ。まずは江戸書籍のデータ公開活発化に大絶賛・大感謝です。
あじな仕打ちに会話も途切れ(23) [甲駅新話]
<金>六さ
<三>とんだ若いね。わつちが年をあてて見なんし
<金>コウト、二度目の厄年(数え三十三歳)が過たろう
<三>ばからしい。よしておくんなし。又くすぐりいすよ
<金>アゝ、そんならほんにいおふ。二十三か四だろう
<三>よく見なんした。二でおぜんす。女といふものはふける物だねへ。谷粋さんとやらハへ
<金>いくつだか知るらねへ
<三>オヤ、連衆(つれしゅう)の年を知りなんせんかへ
<金>ナニサ、そんなに心やすかあねへ。一座ハ今夜が初だもの
<三>ほんにかへ。いつそよく口をきゝなんすね
<金>こうまん(高慢)ばかりいふよ
<三>新やしき(大名屋敷を後に武家屋敷にした地)かへ
<金>ウゝ
<三>ぬしやア、何所だへ
<金>わつちも新やしきさ
<三>嘘をつきなんし。今度からひとりで来なんしよ、という事もねへさ、おさげすミも知らねへで(さげす「蔑」まれているとも知らないで~と卑下している)
<谷>来ねへでどうするもんだな。しかし十日ほども前から仕廻(しめへ)を付ずハ、いつでもさしだろう。(今風に言えば、十日間ほど前から指名をしておかなければ差し=他の客と差しあうことになろのだろう)
<三>又、てうし(調ず=整える、調理する、懲らしめる、いじめる。ここではいじめる)なんすか
~と今度ハおき上り、金公がうへえ乗かゝり、こそぐる。是よりあじなしうちに成り、はなしもとぎれ、しばらく有て~
<金>アゝ、あつく成た
<三>うちわを上んせうか
<金>ウゝ、かしな
<三>手水に往て来いすよ
<金>そんならどふぞ。茶を一盃持て来てくんな
<三>ソレ、見なんし。人の呑なんせんかといふ時ハ呑もしなんせんで
~といひながら、かやを出て、びようぶ引あけ、ろうかをばたばた。あとハ金公一人成。世間も物おとしづまりて、となりの咄、手にとるごとく~
『甲驛新話』は艶っぽい場になったが、隣座敷の会話へ移る。妓楼(旅籠屋)とて、隣座敷とは襖一枚。耳を澄ませば秘め事も筒抜けか。これは庶民の長屋とて同じ。暮らしぶりも秘め事も明け透け。晒し晒されて、大らかに笑って生きる他はない。
江戸文化に関心を持てば浮世絵は欠かせぬ。浮世絵なら〝和印〟も無視できぬ。そこに〝覗き・盗み聞き〟は当然として描かれている。まぁ大らかなことよ。しかし、ここにお上の手が入るとねじ曲がる。
堅物・松平定信「寛政の改革」は衣食住に限らず、出版統制にまで及んだ。隠密を市中に放ち、隠密を見張る隠密も放ったとか。こうなると大らかさは地下に潜り、隠蔽され、陰湿になり、息苦しくなってくる。暮らしから笑いも消える。蔦重は財産半減、山東京伝や喜多川歌麿は手鎖の刑。恋川春町は自害に追い込まれた(内藤新宿の投げ込み寺=成覚寺に彼の朽ちかけた墓あり)。
ついでに言えば、後の「天保の改革」では芝居小屋移転や七代目市川団十郎の江戸追放。戯作者では為永春水(手鎖50日)や柳亭種彦(執筆禁止)などが処罰されている。
お上は怖い。嫌いだ。明治になると庶民が知らんうちに「ミカドの民」となって「大日本帝国憲法」で、戦争に突っ込んで行った。隠密に代って憲兵・特高・秘密警察・公安が暗躍し、日本の大らかさは遥か遠い過去のものになった。
「表現豊かな春画の秘部を、黒く塗りつぶした野蛮な時代がようやく終わりを告げたことを、喜ばずにはいられません。日本の近世・近代のセクシュアリティの研究は、これでようやく本格化するでしょう」 上野千鶴子(東大文学部教授)
これは河出書房新社刊、林美一+リチャード・レイン共同監修『定本 浮世絵春画名品集成』の推薦腰巻の一部。1990代末に24巻刊。一巻1600円~2800円ほどで、今は「古本市」で500~800円ほど。あたしは先日の池袋の古本市で五冊購った。
かくして〝和印〟は刊行に至ったが、日本はねじ曲がり、深く病み、もうあの頃の大らかだった時代には永遠に戻らぬ。失ったものは計り知れない。上になったり下になったり(22) [甲駅新話]
<谷>どふもかゝあがやかましいよ
<綱>エゝ、あつかましいのふ
<三>そんなら、お出なすか。お休なんし
<綱>ハイ、あなた、おやすみなんし
<金>あゐ。御きげんよふ
<綱>三沢さん
<三>アイ、もふめへりやすめへ
<金>谷粋さん明日、ホンニ寝忘れたら、どふぞ起しておくんせんし
<谷>サア、おさらば・おさらば
<三>モシモシ、たばこ入が有いすよ
<谷>オット、ありが・ありが ~<谷・綱> 二かゐへ。<谷・三>ハかやに入る。
<三>手をたゝく <はる>来ル~
<三>はるのか、是、エゝ子だからの、よふく火をいけての(蚊帳の季節に火をいける?=炭に灰をかぶせて=煙草の火だねか)。そして茶も一ツ持て来てくりや
<はる>あい
<金>跡のほうをよく押付なせへ、蚊がへへろうよ
<三>じよさいハおぜんせん(如才=手ぬかり、はありません)。よふくしいゐした
<金>今夜もあついのふ
<三>それでも、いつち爰の座敷が涼しうおぜんすよ
~<はる>火入、茶持来ル~
<三>ヲ、よくした・よくした
<はる>ぬるうごぜんす
<三>ヲイ、よしとし。往て寝や
<はる>アイ、お休なんし
<三>茶を呑なんせんか
<金>いやいや
<三>たばこハへ
<金>たばこもいや
<三>オヤ、きついあゐそ(愛想)づかしさ。そんならおらも呑めへ ~とうちわ取て遣ひながら金公が方へ風の行よふにする~
<金> アゝ、ゑへ風だ
<三>是ばつかりお気に入いしたの
<金>まだ気に入た事が有のさ
<三>なんだへ
<金>なんでもさ
<三>サア、いひなんし
<金>外でもねへ、美しい所が気に入た
<三>ナゼ、そんな事をいひなんす ~と、こそぐる~
<金>アゝ、御免だ・御免だ。どふもそれでもうつくしい物を
<三>まだいひなんすか
<金>アゝ、あやまつた・あやまつた
<三>そんならだまつて寝なんすか
<金>寝るとも・寝るとも
<三>ぬしやア、年ハいくつへ
<金>あてて見な
<三>あてんしようか。二か三でおぜんせう
<金>三十か
<三>ナニサ、二十のうへがさ
<金>こりやア、ありがてへ。酒でもかをふ
以上の文を読んでいると「言文一致」は、江戸後期・近世文学で、すでに確立していたのではあるまいかと思われる。ちなみに「言文一致」を辞書でひけば、こんな説明になる。
~日常用いられる話し言葉によって文章を書くこと。また、特に明治期を中心として行われた文体改革運動をいう。明治初期より、その運動ならびに実践が行われ、二葉亭四迷・山田美妙・尾崎紅葉らが小説に試み、明治40年代以降、小説の文体として確立した。その後、次第に普及して、今日の口語文にいたっている。
ちなみに二葉亭四迷は『小説神髄』『当世書生気質』の坪内逍遥アドバイスで、三遊亭圓朝の落語口演速記を参考にした、は有名なエピソード。改めて言うまでもなく、この『甲驛新話』は全編会話文で構成。しかも郊外から内藤新宿に馬をひいてくる馬子らの方言丸出しの会話、加えて次に出てくる隣座敷から聞こえる田舎客孫右衛門と遊女・折江の会話の妙。
すでにこの時代の戯作で「言文一致」はとうに完成されていたと言えそう。坪内逍遥も江戸戯作好きだったとか。「文言一致」の説明は、江戸後期の黄表紙や洒落本の時代にすでに確立されており~と記すべきじゃなかろうか。メモ:鳶魚『岡場遊郭考』の新宿(21) [甲駅新話]
三田村鳶魚(えんぎょ)『岡場遊郭考』に、内藤新宿の記述あり。同随筆は同氏編で昭和二年より三年間にわたって刊行された『未刊随筆百種』の二十三冊に収録。昭和五十一年に中央公論社より『鳶魚全集』が出た際に、同社より姉妹出版の形で全十二巻の形で再刊。お目当ての『岡場遊郭考』は第一巻に収録。さっそく図書館でひもといたが、内藤新宿の記述はわずか六頁だった。その一部を紹介。
まず『世俗奇語』に云~とあり、こう引用されていた。~此地、甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和安永の頃ハ殊之外盛んなり、陰見世には美服を著し、紅粉の粧ひ、恰も吉原におとらぬ春花を置たり、見世は三人ツゝはる事なり。
次の『江戸図解集覧』に云とあり。~今按(したべ)るに、旅籠屋政田屋・和国屋・国田屋・山田屋・高砂屋など玉揃といふべし、山崎屋は越後国の玉多し、料理よろし、政田屋は美玉にてきやんなり、岡田屋は座敷奇麗なれば、人のたとへに政田屋の玉ならべ、山崎屋の料理にて、岡田屋の座敷にて遊ばんといへり。吉原よりも女郎来る事あり、茶屋は山科屋を第一とす、当時南北の国より賑ふ所なり、安永の始に三光稲荷祭りの際、上総屋(今品川へうつる)の前より橋本屋迄往来を袴せ、橋燈籠を懸たり、近頃度々此祭りに怪我ありて、今はかくの如き事なし。又北横丁に双蝶菴又八(当時市ヶ谷自性院前にあり)といふ者あり、新宿の判人にて、女郎のとや内、双蝶菴にて養生す。(写真下は三光稲荷、現・花園神社の祭り風景)
『江戸名所図会』の「四谷 内藤新宿」の絵の余白に「節季候の来てハ風雅を師走かな」の芭蕉句が書かれ、年末ゆに見世仕舞いしたのだろう、格子が開け放たれた見世前に、節季候(せきぞろ=年末に店先で踊り囃しでお金を乞う)が来て、見世前を通る様々な人が描かれている。その見世脇の用水桶に「和国屋」の文字。さて、どんな店かとずっと気になっていたが、推測していた通り旅籠屋(女郎屋)だと判明した。
「三光稲荷」は現・花園神社。「とや」は梅毒。「判人」は遊女の身売り保証人になる人、女衒(ぜげん)。この文より遊郭には当然ながら性病(特に梅毒)の危険があったことが伺える。野村敏雄著『新宿っ子夜話』の「ハナの散るらん」なる章あり。
嘉永元年(1848)に廓内で二、三百両も使って大名行列をした(それほど儲かっていた)勢州楼に、明治中頃に越後出身の十八歳「玉河」というお女郎がいた。彼女が明治二十九年の新宿大火前に「秋葉(神社)さま(左写真。現・地下鉄の新宿御苑前駅出入り階段口の横)の屋根に白い鳥が飛ぶのを見た。白い鳥が飛ぶと大火事がある」と予言。下町(現・一丁目)一帯、街道の両側二百四十三戸が全焼した。その「玉河」さんが、後に「とやについた」。「とや=鳥小屋=冬毛に換わるために羽毛が抜けるので鷹を鳥小屋に入れる=遊女が梅毒で髪が抜け、養生のために仕事を休む=鳥屋につく=鳥屋籠り」。そして、ハナが落ちた後の悲惨な人生が描かれていた。
『岡場遊郭考』に戻る。次は寛政二年の「明寛秘録」よりとして ~吉原と同じく繁盛したので吟味があった。部屋持女、黒塗之箪笥、食売女のちりめんにお叱りがあり、以後、衣服は木綿、女は三人までの御達しが文が転載されて、二十三の旅籠屋名が列挙。旅籠屋名入り地図も掲載。最盛期は茶屋、大見世の総数八十軒余とも記されていた。(写真上は新宿歴史博物館の内藤新宿の街並み模型)
しっぽりと蚊帳の中へ(20) [甲駅新話]
<三>そりやア、ほんにぞんじゐせんで、おかまゐも申しいせん。サア、下へお出なんし ~と金公が手をとる~
<金>今にいきやす
<谷>畜類め、つれていきたがるの
<三>ぬしのおじやまに成ゐせふかとおもつてさ
<谷>いらぬお心遣ひさ。まだ、かんじんの相手が来ねへもの
<三>今にお出でなんすのさ。
<金>おめへも下へお出なせんし
<谷>そんなら往て見よふか
<三>~金公が帷子、羽折を持て~ 何かをわすれずに持ていきなんし
<金>こうと、よしよし、さあさあ ~三人ともおりる~
<金>何所だ・何所だ
<三>爰でおぜんすよ
<谷>是ハ、エゝおすめへだ。しかし、へつつゐがねへの
<三>おがミいす。よしなんし
<谷>へつつゐの代に、きりきりす籠が二ツあるが、中には何も居ねへの
<三>此ぢう客衆に貰ゐしたが、つい逃ゐした
<金>どうして
<三>ナニサ、はるのが草を取けへてやるとつて、二ツながら逃しゐした。いつそ悔しくつて、わつちやア、泣いしたよ。ホホホ、ホホホ
<谷>エゝサ、その代り、おめへが又はやく受出されるハな ~<三>きせるを取て、谷粋をたゝく~
<谷>アイタ・アイタ
<綱>~来り、あんどうのかげへすわり、かんざしにて、あんどうををむせうにつゝき(行灯を無性に突っつき) ~じれつてへぞよ~
<金>何じれつてへエ
<綱>なんでもさ
<谷>色事か、ただし盆の仕廻(盆は決算期で、そのやりくり)か。ぼんの工面なら案じなさんな。おれがうけ込ハ。
<綱>それハモウ、おかたじけなふおぜんす。 お礼から先へもふしんす
<谷>是ハお礼で、いたミ入やす。
<綱>ホンニ、おめへも、ゑへかげんにしやべりなんし。ひとりで口をきゝなんすね
<谷>今まで、おめへが来ねへから、二人めへの口をきいて居たのさ
<綱>それハ御苦労さ。ホンニ、三沢さん、お前の何さんハ、富さんに似て居なんすね
<三>アイ、しづかな所なんざあ、いつそよく似て居いすよ
<谷>似た者ハ烏瓜と睾丸(きんたま)の梅漬だ
<綱>まだ、むだア、いんなすよ。サア、往ておよりゐし。ぬし達の邪魔になりいす。サァ、お出なんし
<谷>是ハ大の不首尾だ。御意にまかせて、サア、めへりやせう
「畜類め=仲のよい男女をやきもち半分にけなす語」。他に「自分の心を惑わす女性についていう語、こいつめ」 別の辞書には「江戸後期の流行語。物事が思い通りに運びそうな時などに発する語。しめしめ」とある。つまり状況次第で意が変わる。国語学者はもっと広義の意で捉えるべきだろう。あたしなら「こんちくちょう、ざまぁみろに準ずる言葉」と解釈する。
「へつつゐがねへ=竈がねぇ」は、新所帯じゃねぇとからかっている。キリギリスが籠から逃げて悲しがる女郎に、その功徳で「おめへが早く受出される」と言う谷粋。叶わぬ現実があるだけにキツい冗談になる。そんな谷粋に相方の綱木がしだいにキレてゆく。
蚊帳とキリギリスが出てくるので、美女が蚊帳を吊るシーンを描いた歌麿「婦人泊り客之図」を模写。昔の夏の夜に蚊帳は必需品だった。クーラー普及で蚊帳は忘れられた。いや、あたしは立派な蚊帳持ちなんです。
伊豆大島にロッジを建て、週末遊びを四、五年を続けた頃のこと。いざダイビングへと玄関でウエットシューズへ足を突っ込んで激痛。靴ん中から赤黒い大ムカデが這い出した。激痛に悶え、島の友に助けの電話。彼がうれしそうな顔をして「マムシ入り焼酎」持参。〝毒には毒で制す〟と足の指にソレを塗ってくれた。秋には部屋ん中で虫が鳴く。蜘蛛をはじめ見たこともない虫も出没する。蛇もいる。都会生まれ育ちには、余りに厳しい小動物らとの遭遇。
そんなワケで六、七万円はした底付きの立派な蚊帳を購った。これで初めて島の夜も裸で寝ても安眠と相成候。遊女の色っぽい蚊帳吊りの絵から、つまらん話をしてしまった。
床入りの部屋へ(19) [甲駅新話]
<後>イイエサ、まだお約束のお客が有(ある)はづで御座ります。そしてまだ、亀本へもよります。あすの朝ハ何時(なんどき)へ(茶屋が旅籠屋・妓楼へ迎えに行くのだろう)
<谷>おらアいつでもゑへ。金洲、何時
<金>七ツ半(五時頃)さ
<後>ハイ、さよいふなら、御きげんよふ
<二人>おさらハ・おさらハ
<金>アニ、かゝあもよく呑やすね
<谷>ウゝ、ぜんてへ(全体:名詞=すべての部分。副詞:もともと、もとより。江戸弁で大工=でえく。「た」を「て」変化が多い)勤(女郎勤め)をした女だ。どうだ、気があるか
<金>どふも色が黒いね
<谷>大木戸のわら屋(同じく茶屋だろうか)のかゝあハ見なすつたか
<金>いゝへ
<谷>今度見なせへ。とんだうつくしいよ
<金>今度のとハ(見立てた女とは)、どふだね
<谷>ホンニ、おれがやつも、うつくしさあ美しいが、ちつとけんてへ(倦怠=けんてへ?校注では傲慢なこと)ぶるよふだの。ぬしのハおとなしそうだ
<金>成るほど、綱木とやらハわつち共が歯には合やせん
<谷>あゝゆふやつを買こなすと、おもしれへもんだよ
<半兵へ>チトあちらへお出なさりまし
<谷>床といふ所か。サア、何所だ何所だ
<半>廊下ざしき(廊下に面した座敷?)で御座ります
<金>一所(ひとところ)か
<半>イイエ、おまへハ下で御座ります
<金>それハわるいの
<半>イエ、その代り涼しいよい所で御座ります。先是(まずこれ)にお出なさりまし ~すずりぶた、てうし(銚子)、たばこぼんなどはこぶ~
<はるの>~ゆかた持来り~ お召なんし
<谷>そけへおきや。コレ、よく水を呉ねへの
<はる>今にあげいすよ。コウ、半兵へどん、下でよばつしやるよ
<半>それでは、からだは二ツハねへものヲ ~といゝな下へ<はる>もつゞいて行~
<谷>サア、着けへよふ。しわになつちやアいてへ
<金>どれがそだね
<谷>どれでもゑへハナ。むきミしぼり(むき身絞り=貝のむき身のような模様の絞り染)にしや。おれが仲蔵嶋(なかざうじま=歌舞伎の中村仲蔵が好んだ縞模様)にしよふ。コレ、見や、此袖のちいさサ。そしてでへぶ(大分)汗くせへ ~ふたりともゆかたに着かへる~
<金>ドレ、おめへのきせるをお見せなんし。ゑへなり(容子)だね
<谷>ナント、よかろう。そしてとんだ目(目方の目=重い)があるよ。さくら張(真鍮製)をニ本一所にした上に、角蔦(吉原の妓楼)の女郎にかんざしを貰て足たものヲ
<金>ホンニ、よつぽどごぜんせう
<谷>いつでも二ぶづつの(二分金相当づつ)の早玉(?)さ
<三>~廊下にて~ 綱木さん・綱木さん
<綱>~奥ざしきの方にて~ アイ今いきいすよ
<三>オヤ、ぬしたちやア、いつも間に爰へ来なんした
<谷>先おとてへから来ておりやす
吉原、遊郭関係書は幾冊もあろうが、読む気の湧かぬままで、廓遊びの洒落本理解にままならぬところがあり。物語はいよいよ床入りで、男は浴衣、女郎は長襦袢に着替えます。
若い時分に、縁あって二つの着付け教室(学園)の教科書(各四冊)を作ったことがあるが、着付けの解説が主で、長襦袢の歴史には触れなかったのだろう。このたび「長襦袢」調べをすれば、アラビア語「ジュッパ」がポルトガル語化して「ジバゥン」。これを当て字で「襦袢」になったとか。ウヘッと驚いた。
「ジバゥン」なる言葉がいかなる経緯で日本に入り、それが当て字「襦袢」になった経緯も面白そう。それはさておき、江戸前期までは半襦袢で、後期あたりから遊女らが部屋着として用いたのが長襦袢。それが今の長襦袢になったらしい。遊女らが着物文化を育んだとも言えそうです。
母が茶道、華道のおっしょさんで、子供時分から着物には馴染んで来た。だが、よく言われる「袖口、裾から覗く襦袢の色気」なる意識は皆無。子供だったせいか。二十代後半に着付け教科書を作り、中年になって演歌歌手の密着仕事などもしたが、それら時期にも「長襦袢の色気」には無縁。そして今、隠居になって改めて浮世絵を見るってぇと、華やかな長襦袢のさまざまが鑑賞できて、改めて「いいなぁ」と思う次第です。老いぼれてからでは「後のまつり」でございます。
模写絵は、二階の床の様子でも盗み聞きしたのか、女が「オホホッ」と忍び笑いする姿を描いた芝全交・作、北尾重政・絵『遊技寔卵角文字』より。
長襦袢と浴衣に着替えて(18) [甲駅新話]
<谷>こりやア、 おらも止ねへけりやアならねへわい
<綱>ぬしのこつちやア、おぜんせん
<谷>アゝ、ソレデ安堵した
<金>おめへ、お近付のため、あげんせう
<綱>アイ、あがらんそふだから、あげんすめへ
<谷>水いらずにおれがつごうか
<綱>よしなんし、給(たべ)んせん
<谷>それでもおめへ、今、此ぢうハ酔たといひなすつたじやアねへか
<綱>つきてによりいす ~是より、だんだ盃廻、時をうつす内に膳出る~
<はるの>どなたも、おめしをおあんなんし
<谷>めしには気なしだす
<後>お茶漬になすつてあがりまし
<半兵へ>何も御座りません。よふあがりまし。お気に入た物をおかへなさります。はるの、ソレ、お汁でもかへてあげろよ ~といひすてゝ行~
<三>サア、どなたもおあんなんし
<金>アイ、谷粋さん、どうでごぜんす
<谷>そんならつき合てちつと喰ふか。かゝさんハどふだ
<後>イイエ、いただきますまゐ
<三>ホンニ、給(た)べなんせんか
<後>アイ、いゝへ
<綱>わたし共が内のまんまもちつと喰てみなんし
<後>ナニ、お時冝でも、何でもござりません。御酒を給(たべ)ると、どうもいけません。ホンニ、金公さんハ、御酒ハあがらず、たんと上りまし。お汁ハへ
<金>アイ、ごぜんす ~暫く有てめしもすミ、膳さげる~
<谷>コレ、あつちへいつたらの、水を一盃持て来てくりや
<三>水のミ茶碗に汲たてを持て来て上りもふしや
<はる>あゐ
<後>ホンニ、おまへ方、召かへてお出なせんし
<綱>あゐ
<三>そんなら往てめへりやせふ ~<三・綱>着かへに下へ~
<後>わたくしも、お暇(いとま)にいたしませう
<谷>モウ、一ツ呑でいきなせへ
<後>いゝへ、もふ大(おゝき)に酔ました
<金>エゝハナ、もふ寝なさろう
今回は漢字のお勉強。よく出てくる「祢(ね)」は「禰宜(宮司)」の禰の異体字(俗字)。字義不詳で漢字熟語もなく、現在はほとんど使われていない。「しめすへん」ゆえ、当然ながら「弥生の弥」とは違う。次は「安堵の堵」。土を築いて外部を遮蔽した「かき」。かきね、へい。「安堵」はかきねの中で安全に暮らす。自分の家で安らかに暮らすの意。「者」に点がある。まぁ、「安堵」以外は使われぬ。そんな字のくずし字まで覚えるのは大変です。
「給=たま‐う、たも‐う、キュウ」だが、ここでは「(たべ)る」のルビ。これも覚えた方がいいか。「此ぢう」もよく出てくる。「ぢう=中」で「此中=この間、このごろ、先日」。「お時冝(じき)」とは。「冝」は「うかんむり」ではなく「わかんむり」。「冝」は「宜」の異体字か。時宜=適当な時期の状況。「時宜を得た発言」などと使うが、この「時冝(じき)」は、校注で「遠慮」。あたしの辞書には載っていないので、確かめようがない。「暇」は近世では「いとま」。
メモ「坤驛」は品川宿か新宿か?(17) [甲駅新話]
「甲驛新話」(9)(15)(16)で模写した三人の遊女絵を並べると、北尾政演(京伝)代表作の錦絵「当世美人色競 坤驛」(左)になる。小池藤五郎著『山東京伝』(昭和36年、吉川弘文館刊)の扉頁口絵に同絵の白黒写真が掲載されてい、<品川駅の傾城をえがいたもの。「当世美人色競」の中の一枚で、政演の版画技量の最高点を示すもの>のキャプションあり。本文にも「政演画錦絵中の傑作」の項があって三頁にわたって同絵について説明されている。
書かれた通りに理解していれば、新宿歴史博物館刊「特別展 内藤新宿」をひもとけば、同絵がカラー掲載で「内藤新宿の旅籠屋・橋本屋にいた食売女を描いたもの」のクレジット。さぁて、この京伝錦絵「坤驛」は果たして品川か? いや新宿か?。
同絵は「近代デジタルライブラリー」でも公開されてい、拡大して見れば「坤驛」にしっかりとカタカナで「ヨツヤ」のルビ。さらに「橋もとのゑ」が読み取れる。大田南畝の洒落本『甲驛新話』の〝甲驛〟は、甲州街道の宿駅のこと。加えて同本文中にも旅籠屋(女郎屋)の品定め会話に〝橋本〟が登場。また橋本屋は「鈴木門主水白糸口説」で全国的にも有名。「坤驛」のルビ(ヨツヤ)、「橋もとのゑ」より、この絵は誰が考えても、内藤新宿の橋本屋の遊女画と判断できる。
なのに、山東京伝研究の第一人者、故・小池藤五郎教授(1982年没。子息・小池正胤氏は黄表紙研究者)は「坤驛」を「品川宿」としたのだろうか。今度は別角度から「坤驛」を考えてみた。「坤」は「乾坤一擲」のコン。ひつじさる、つち、ひつじ。その意は①つち、地。②易の八卦の一つ。③女性のこと。熟語を構成する場合は女性の代名詞的役割をする文字。④ひつじさる。南西の方角。ちなみに山東京伝は『古契三娼(こけいのさんしょう)』で品川宿を〝南驛(シナガワ)〟のルビで記している。さて「坤驛」は江戸城からみて南西の驛の意で品川宿か。いや、これは③の〝女驛〟の意か。
現在最も新しい山東京伝本が佐藤至子著『山東京伝』で、ここには天明三年刊の「青楼名君自筆集」(翌年に大田南畝の序、朱楽管江の跋で画帳仕立てになって「新美人合自筆鏡」の題で刊)についての言及はあるも、「当世美人色競」への言及は一切なし。ついでに言えば、浅草の京伝机塚の彫られた文(原文)を知りたかったが、同著にその記述はなし。さらには、この『甲驛新話』も大田南畝の作ではないかも~とハッキリせぬ。
江戸後期なれど、知りたいことは「わからない」のが実情なんですね。なんとも情けない。図書館に行けば「日本の近世文学」のコーナーは腰が抜けるほど僅少。近世文学の世界、またその学者らの世界、実情ってぇのは一体どうなっているんだろう、と首も傾げたくなってくるんです。
江戸弁、廓言葉、ギャグの戯れ(16) [甲駅新話]
<後>その代(かわり)に、モウ、漸(よふよふ。古語辞典:やうやう=次第に、かろうじて、やっと)かへりまして、あすの朝迄、何もしらずに一ト寝入(ひとねいり)にふせりましたから、ほうぼうのお客さん方に叱れました。夫(それ)にあくる日ハ一日頭痛がいたしますね。大きなめ(ひどい目)に合ました。覚てお出なせんし(「し=しゃい」の軽い命令語か)
<綱>ホンニ、あの時ハわつち(廓言葉:わたくし)もいつそ(廓言葉:とても)酔いしたよ
<三>そんなら、ちつと(少し)つ(注)ぎんしようから、出しなんし(廓言葉)
<綱>是ハ憚でござります オトオト、ハイ、谷粋さんおゝさへを給(たべ)ます(谷粋さんが押えた分をいただきます)
<谷>どうだ、丁どあるかね。味方見ぐるしい酌だぞ(味方同士の遠慮した酌だぞ)
<三>ナニサ、一盃(いっぱい)つ(注)ぎんした
<後>アイ、左様なら
<谷>もう一ッかの
<後>とんだ事をおつしやるぞ
<金>お前にやア、わつちが酌をしやせう
<谷>こつちハこつちどうしだの
<三>ひゐきをしなんすと聞いせんよ
<谷>チット、ありあり(有難う有難う)
<後>お肴をあげませう、何がお望へ
<谷>なんでもよしさ
<後>そんなら是をあがつて御ろうじまし。イッソ、よふござります
<谷>例のびわか。びわ突出しのその日よりだ
「突出し」は新造が初めて客を取り、一本立ちするお披露目の儀式。廓の中を歩く「道中突出し」は七日間行われ、費用は旦那持ちで二百~五百両とか。簡単に行うのが「見世張突出し」。この辺は廓事情をしらぬゆえ詳細わからず。まぁ、そんな言葉に「びわ突き出し」と言ったか。以下、延々と当時の言葉遊びが続く。
<金>ひよりひより、ひより(ひとり)二人三人
<谷>(「さんにん」に絡んで)むにんだノ。むにん・むにんと。むにん夏の虫とんで火に入
<金>にいる・にいる・にいる。にいるのつらへ水さ、ハハハ・ハハハ
<綱>とんだえへね
<谷>ナント、えへ口だろう。半口乗って無尽を買なせへう
<網>無尽とハ何の事かぞんじいせん
<谷>なむさん(失敗した時に言う〝しまった〟)、雪のあくる日だ
<綱>それも知りいせん
<谷>てれた(照る、てれる)といふ事さ、サァ、金洲さそう
<金>こりやア、ちつと上(あげ)やせう
<谷>夫がいやたから、ぬしにさしたのだァな。そんなら一寸とお頼申やす
<三>おあゐ(御間=盃のやりとりで、間に誰かが入ったりすること)かへ。お手元(酌の手を止める)ともうしんせうか
<谷>そりやァむごい、マアマア
<三>そんならおあかさん、つゐでおくんなし。アイ、おぜんす(盃が一杯になったでございます)
<谷>モシエ、あゐハ手本とやら。わたしも灰吹にのませ(呑むふりをして煙草盆に捨てる)やすぜへ
<三>ナニサ、ミんな給んした
<谷>何かハしらず、ありがてへ。かゝさん、おれにもつでくんな
<後>サァ、お出しなさりまし
<谷>オット、よし。さあ金公
<金>かゝさん、はばかりながら、アイト
<谷>金公ハどふぃもらぢ(埒やァあかねへ
<三>ナゼ、呑なんせんかへ
<後>アイ、ねつから上りません
江戸言葉、廓言葉、語呂合わせ、親爺ギャグで盛り上がる盃事の戯れ会話。まぁ、ここは感じがわかれば、それで良し。先にすすみましょう。