まずは初会の盃事(15) [甲駅新話]
<半>はゞかりながら、あなたへ上げませう
<金>谷粋さん
<谷>マア、呑ねへ
<金>~半兵へが耳へ口をよせて~ あさぎへ
<半>はゐ
<三>ちつとあげ申しんしよふ
<金>まづまづ
~<三>のミてさかづき(呑みて盃)を臺へのせる。<半>心得て谷粋が前へ~
<谷>おさわりもふしやせうか
<三>マア、お取りあげなんし ~<谷>のミておく。<半>又こころへて、綱木が前へ~
<綱>~さかづき取りあげ、のミて~ かかさんあげんしよふ
若い衆「半兵衛」が、客「金公」へ盃を渡す。「金公」が呑んで、相手に決まった「三沢」へ。「三沢」は次に「谷粋」へ盃を渡す。「谷粋」が呑んで、相手の「綱木」へ。「綱木」が呑んで、最後に茶屋のおかみさんが呑んで初会の儀式が終わるそうな。
<後>チット おゝさへもふしやせう
<綱>マア、呑なんし
<後>アイ、左様なら
<半>サァ、 出しなせへ
<後>つきなさんな
<半>なぜへ
<後>まだ、お約束のお客がごぜんす
<三>夫でも一ッや二ツハよふおぜんせう
<後>あゐ ~とうけてのミ、ひかへて居る
<半>ソンナラ、おばさん、お頼申やす
<後>ナゼ、呑でいきなせへな
<半>イイエ、後にいただきやせう。今夜ハ下がいそがしうごぜんす
<後>清介どんハへ
<半>風を引て寝て居やす
<後>ホンニ、夫じやア、鬧(いそが)しかろう
<半>ハイ、左様なら。どなたも緩りとあがりまし。おばさん、よろしくお願申やす ~此間にすゐ物、鉢、肴の出る~
<後>サァ、お吸なさりまし モシ、谷粋さん、お久しぶりでちつと憚申ませう
<谷>そんならおれも、久しぶりでおせへよふ
<後>是ハ悪い事を申ましたつけんの ホホホホ
<金>おさかなをしようか ~と硯ぶたを引よせて~ 何がよかろう、是かの
<谷>ナニサ、後家が玉子を喰て(精力を付けて)どうするもんだ
<後>谷粋さん、又わる口をおつせんすよ
<金>そんならくわいかの
<後>左様なら、ソノびわを下さりまし
<金>おつナ 希(のぞみ)だの
<後>ハイ
<谷>びわといふ物ハめんよふ女の好(すく)ものだの。おらもびわになりてへ物だ
<綱>~谷粋を方をじろりと見て口の内にて~ すかねへ
<三>サア、おかさん、のミなんし、つぎんせう
<後>イイエ 爰(ここ)へ下さりまし。三沢さんのお酌にはこりました
<三>ホンニ、此ぢうはよくのみなんしたの
「桃栗三年柿八年枇杷は早くて十三年」の「枇杷」が盃事(さかずきごと)の話題になっている。今のような大玉枇杷が日本で本格栽培されたのは宝暦元年(1751)頃に千葉・富浦でとか。『甲驛新話』刊は安永四年(1775)だから、出回ってまだ珍しかったか。『馬琴日記』には、神田明神下同朋町時代に庭で育てた葡萄の実を商人に売って家計の足しにしていた。生真面目・馬琴が育てた葡萄が、遊里の「台の物」になっていたと想像すると可笑しかった。
「此ぢう」はよく出てくるので調べた。「ぢう=中」で「此の頃」。ここでは「この間、先日」だろう。「爰=ここ」もよく出てくる旧字。覚えましょう。「つぎんせう」は「注ぐ」の丁寧語の音変化で「注ぎん」+「せう=しょう」で「注ぎましょう」。遊里の「ありんす」言葉系か。「ん」変化は「ごぜんす」「おぜんせう」「せんすよ」「なんし」とやたら出てくる。江戸弁+ありんす言葉の満載。
絵は浮世絵に描かれた「硯ぶた(蓋)」に盛られた「台の物」。、概ねこんな感じで酒・肴が運び込まれたのだろう。<綱>が谷粋の方をじろりと見て口の内にて「好かねへ」と言う。今後の展開を予感させる一言です。メモ「廃駅は大八の喧嘩両成敗」(14) [甲駅新話]
『江戸名所図会』の「四谷 内藤新宿」(絵・長谷川雪旦/文・斉藤月岑)にこう記されている。~元禄の頃、此地の土人、官府に訴へて新たに駅舎を取立る。故に新宿の名有り。然りといへ共、故有りて享保の始、廃亡せしが、又明和九年壬辰再ひ公許を得て駅舎を再興し、今また繁昌の地となれり。
野村敏雄著『新宿っ子夜話』に、内藤新宿が廃駅となった原因の一つとされる旗本子弟・内藤大八の事件が『鯨の大八』題名で記されていた。著者も参考にした岡本綺堂・戯曲『新宿夜話』は著作権切れでデータ公開されてい、これも拝読したが、芝居効果的省略が多く、ここは野村著の概要を記しておく。『甲駅新話』登場の旅籠屋名も登場で興味深い。
四谷大番町の旗本四百石・内藤新五左衛門の弟・大八は、部屋住みの二十代で夜ごと内藤新宿で喧嘩を売ったりの厄介者。時は内藤新宿の開設二十年後の享保三年(1718)。まず大八事件の前に、「上総屋」で遊女と客が心中し、厳しい吟味があるも、遊女が正規の食売女二名外の女だったことが見過ごされた。
大八がここにつけ込んで「上総屋」をゆすり、金をせしめた。「上総屋」は三田村鳶魚編『未刊随筆百話』に、三光院稲荷(現・花園神社)の祭りで、甲州街道を跨いだ向かいの「橋本屋」まで橋燈籠を掛け渡すなどした大見世と記されている。また同著には『江戸名所図会』に描かれた絵に「和国屋」名あり。あの格子が遊女見立ての張見世(絵は営業を終えた年末で開け放立てれいる)だとわかる。
話を戻す。大八は「上総屋」でせしめた金を懐に、馴染遊女・千鳥のいる「「信濃屋」へ行った。大八は千鳥が他の座敷に出ているのが気に入らず怒鳴り出した。日頃の彼の狼藉に我慢の「信濃屋」奉公人らの堪忍袋の緒が切れた。幸い、腰の物(刀)も預けられている。彼らに袋叩きにされて素っ裸で屋敷に戻った大八に、兄の怒りが爆発した。「武士が町方に打擲(ちょうちゃく)され、丸腰で帰って来るとは旗本の恥、内藤家の恥。腹を切れ」。
兄は弟・大八の首を大目付に差し出し「それがしの知行を召上げ、内藤新宿も潰し下され」と喧嘩両成敗を訴えた。同年十月に廃駅決定。内藤新五左衛門の家も潰され、旅籠屋は二階座敷の取り壊しと転業を強いられた。内藤新宿の復活は、実に五十年後だった。
岡本綺堂『新宿夜話』では、大八の馴染は「信濃屋のお蝶」。大八が袋叩きされて倒れていたのは旅籠前で、そこに兄が通りかかった。大八は兄に助けを求めるも、中間が抱えても立てず。兄がキレて、屋敷に戻れぬなら、ここで腹を切れ、兄が介錯してやる ~となっている。また同舞台一幕は、それからン十年後。老僧になった新五左衛門が内藤新宿に戻ってきて、安旅籠の床几に腰を下ろす場から始まっている。老僧が亭主に潰された内藤家のその後を問えば「お武家の屋敷に草は生えても、色町に草は生えません。今はこの賑わいです」。
老僧はこの安旅籠に泊まろうとしたが、夜になると各旅籠屋二階がドンチャン騒ぎの大賑わいで「これでは眠れん」と宿を出て夜道を歩き出すシーンで幕になっている。同芝居は明治二年初演で、各小屋で上演されている。なお『鯨の大八』最後は、「上総屋」は幕末に品川宿に移転し、「信濃屋」は屋号を変えて明治まで繁盛した、で結ばれていた。どこまでが事実で、どこからフィクションかは定かではない。『未刊随筆百話』も読んだので後述する。
見立てた遊女とまずは~(13) [甲駅新話]
<谷>アノ、藤色との
<後>今、かんざしでつむり(頭)を掻て居なさるのかへ
<谷>イイニヤサ。こつちから三番目のさ
<後>アイ、そしてへ
<谷>アノ、団(うちわ)を持て居るあさぎだ
<後>アイ、是、半兵へどん。三沢さんと綱木さんだよ
<半>ハイ、よふ御座ります。サァ、お上りなさりまし
~と、先へ立(たつ)て二かゐ(階)へ。<谷・金>もつづゐて、<後>てうちんけし(提灯消し)同じくあがる~
<半>~表ざしきのせうし(障子)をあけ、あんどうもとぼし(行灯も灯し)~
さあ、是へおはゐりなさりまし。子供、お茶を持て来いよ
~といひながら、いそがしそふに下りて行~
<金>良へ内だね
<後>去年の夏か、普請をいたしました
<谷>普請の内ㇵとなりに居たつけの
<後>アイ、左様で御座ります
<子供はるの> ~茶を三ツぼん(盆)にのせて持来り~ あい、お茶ァ、おあんなんし
<後>置ていきや。ドウタ、眠そふな皃(原文で白に脚がハ)だの
<はるの>寝ておりゐした
<谷>押付(おっつけ)見せへ出よふが、そのよふに眠がつちやァ客衆がいやがるぜへ
<はる>知つたかへ
<後>ホンニ、あなたへ水あげをお頼申しや
<はる>おがミゐす(拝みます=冗談は勘弁して)。おめへまで、おんなじよふになぶんなんす。にくいぞ(からかってなさって憎いぞ)
<半>~女郎のたばこぼん、きやくたばこぼん(客煙草盆)も持来る~ 又、何をさわぐ
<谷>イイニヤサ、ミづあげの約束よ
<半>ナニサ、水あげハ、わたくしがとふにいたして置ました
<はる>又、半兵へどん、よさつせへ。すかねへぞよ ~と半兵へがせなか(背中)をたゝゐてにげる~
<半>逃たとつて、にがす物か ~とつづゐて下へ行~
<金>女郎の名ハ、どうどうだつけの
<後>藤色が綱木さん、あさぎが三沢さんで御座ります
<谷>ぬしの注文の二人ハ、あの内じやァねへか
<後>アイ、三沢さんハわたくしの申たので御座ります
<谷>金公、きまりだぜへ
<金>なんなら取替やせうか
<谷>ゆふもんのふんどしだぞ(憂悶の褌?語呂合わせで龍紋・竜紋=絹の平織物で帯、袴、羽織などに用いる~のふんどし?よくわかりません)
<半>~てうし(銚子)、硯ぶた持出、あんどうのおき所を直し、ろうかへむかひ~ さあ、お出なせんし
<綱木・二沢> ~二人来り、口を揃へ~ どなたも、よふお出なんし
<三>おかさん、どふしなんした
<後>はゐ
<綱>ナゼ、おもとさんを連て来なんせん
<後>モウ、ふせりました
模写絵は、芝全交作・北尾重政画『遊妓寔玉角文字(ぢょろうのまことたまごのかくもぢ)』(女郎の誠心、玉子の角文字)より。勝手に着色。同書は漢文(角文字)で儒教本を装って「女郎の誠心」を「遊妓寔」と書き、「女郎の誠と玉子の四角(この世にない)、あれば晦日に月が出る」なる唄に合わせた戯れ本。北尾重政は京伝(北尾政演)の師。芝全作は京伝と同時代の黄表紙作家。
旅籠屋(妓楼)で〝見立て〟(12) [甲駅新話]
<後>まいるハ、わたくしがまい(参)ります ~<谷・金>二人とも帯を〆直しなどして身こしらへする内に<後>もゆかたを出してきがへ、こしの物(脇差)、すげ笠も戸たなへ仕廻(しまい)、錠をぴんとおろして(これらは茶屋で預かる事になっているのだろう)~
<後>五郎どん、たのむよ。馬幸さんがござつたら待せもふしておかつせへ。直に帰るから
<五郎>亀本への返事を一寸(「かゝ」の字が欠けているらしい)さん出しておくんなんしな ~と出してわたす。<谷・金>たがゐに何か耳そうだんして<金>ふところより弐分(一両の半分)出してわたす~
<谷>~取て紙にのせ~ かゝさん、サァ
<後>はい。~といたゞき紙にひねり~ お預り申ます ~前きんちやくへ入て、帯にはさむ~
<金>サア、めへりやせう ~<五郎>庭(土間)へおり、はき物直す <後>同じくおりて、てうちん(提灯)さげ~ さあ、お出なさりまし
<五郎>左様なら、御きげんよふ
<後>五郎どん、門の明りがまだつかねへによ
<金>とんだくらい晩だね
<谷>その筈さ、コウト、四ツ八分(校注に博打用語でお先真っ暗の意とあり)の月だもの
<後>モシ、いよいよ紀の国かね
<谷>しれし・しれし
<後>お見立なさりますかへ
<谷>金公どふ志ようの
<金>どふでもよふごぜんす。かゝさんどふするがよかろう
<後>ナンナラ、ゑへ女郎衆を出し申ませふか。 夫(それ)ともお見立なさらバお見立なさりまし
<谷>ソノゑへといふのハ、としまか新ぞうか
<後>二人とも中としま(22、23歳)衆で、とんだ気どりのゑへ女郎衆でごぜんす
<金>そんなら、夫(それ)に志よふかの
<谷>志かし、呼出し遊びハするなと指南集にもあるぜへ。ソシテ手には(てにをは=つじづま)の悪い物だよ
<後>そんならお見立になさりまし
<谷>~いきな声して~ 見立られたが嬉しさに ~紀の国屋にいたる~
<若イもの半兵へ> お出なさりまし
<後>半兵へどん、お見立てだよ
<半兵へ>あい ~と、かげみせの方へ行て~ お見立がごぜんすよ
~<谷・金>二人ハ張ミせに居る女郎をしり目に見ながら上ル<後>も、はき物とつてあがる~
<谷>~声をひそめ~ どふだ金公、見たか
<金>耳を出しな
<谷>ウウ・ウウ
内藤新宿の女郎と遊ぶシステムが詳しく記されている。その意では同書も『指南書・案内書』のひとつと言えなくもない。あたしは内藤新宿の洒落本類は、内藤新宿再開時に町の上納方を仰せつかった平秩東作(狂歌名。馬宿・煙草屋の通称・稲毛屋金右衛門。本名立松懐之)の企てだったように思えてならない。
平秩東作は、平賀源内と友人で、この時代の狂歌・戯作界の長老的存在。彼が企てた「内藤新宿プロモーション」に、弟分らが加担したのではなかろうか。靖国通りは成女学園隣の「善慶寺」に眠っている平秩東作のお墓に、この辺の事情をぜひ訊いてみたい。
模写した絵は、朱楽管江(あけらかんこう)による『売花新驛』の桃江画より。朱楽管江も平秩東作の弟分(大田南畝、唐衣橘洲と共に狂歌三大家のひとり)で、牛込二十騎町に住む御先手組与力。ちなみに妻は狂歌名「節松嫁々(ふしまつのかゝ)」。先手組与力とは言え、狂歌や戯作に入れあげていたのだから、大した仕事はしていなかったのかも。『売花新驛』は『甲驛新話』より二年後の安永六年(1777)刊で、同書巻末に『甲驛新話』の広告あり。
カラスの子巣落としされて巣立ちかな [私の探鳥記]
アッと驚いた。多分、買い物にでも行っている間だったのだろう。カラス営巣の欅が丸裸(巣落とし)にされていた。営巣中写真は、4月26日のブログにアップ済。木々の繁りに準じた巣作りがあまりに巧妙で、今年は繁殖に成功するかも、と記していた。
以来、木々が茂り、その後のカラスの様子はわからぬも、茂みの中に入るカラスの姿やうるさい鳴き声は聞こえていた。
あたしは「所轄〝所〟にチクらぬ」と言ったが、やはり近所の住人はカラスの巣に気付いて通報したのだろう。だが、時すでに遅し。丸裸の欅を見れば、親カラスらしきが飛んで来た。子らはどうしたのだろう。今度は二羽が寄り添うように丸裸の木に止まった。よく見ればクチバシ脇がやや赤い幼鳥なり。まぁ、二羽の子がここまで大きく育っていたんだ。
「巣落とし」は抱卵中か育雛中に行って繁殖を阻止するものだが、今年は余りに巧妙な巣作りだったゆえに、親カラスと子カラス四羽の茂みへの出入りに至って、初めて巣が気づかれた。これでは「巣落とし」が、強制的に「巣立ち」を促したようなもの。突然に巣を失った親と子の四羽のカラスの鳴き声のうるさいこと。
東京人の出生率は1.12(2010年)だが、自宅眼下のカラスは2.0を確保した。四羽のカラスが「人間に勝ったゾゥ~」と勝どきをあげているように鳴いている。
11:メモ「堀之内・妙法寺」 [甲駅新話]
冒頭で「金公:堀之内に籠ったとも言われやすめへ」とあり、(9:)でも「それでもお連立(つれだち)なすつて堀之内へお出なさつたじやァござりませんか」なる台詞があった。これは杉並区堀之内・妙法寺のことで、そこへ〝厄落としに行く〟が内藤新宿で遊ぶ言い訳(誤魔化し)だったそうな。「浅草の観音様にお詣り」と言って吉原で遊ぶのと同じ。
恥ずかしながら、この歳まで「堀之内」知らずで、さっそく自転車を駆ってみた。実況見分ったこと。実は最近まで「目黒不動尊」も知らなかった。『江戸名所図会』を見て初めて訪ねてみれば、江戸時代に描かれたとほぼ同じ景観が遺っていて、ちょっと感動したんです。若い時分に目黒「大鳥神社」隣の某財団(ポプコンや世界歌謡祭からデビューの方々)の仕事をしていた頃に日々通っていたも、迂闊にもその近くに「目黒不動尊」があるのに気付かず。
かくして、内藤新宿から青梅街道を西に走って「堀之内」を訪ねた。広重『絵本江戸土産』第三篇に描かれた絵、同じく広重『江戸名勝図会』の「堀之内妙法寺」(祖師堂から仁王門を望む絵)、長谷川月岑の『江戸名所図会』四巻の絵、また粗忽者が御祖師様へお詣りに行く志ん朝落語『堀之内』などを頭に浮かべながらのペダルのこぎこぎ。
昔は新宿・十二荘も行楽(歓楽)地だったはずで、そこを右に見て進む。やがて鍋屋横丁。落語では、ここまでくれば太鼓をドンブク叩きつつお題目を唱える堀之内へ行く集団に出逢えることになっているが、今はそんなこたぁ~ない。山手通りを越えて東高円寺、蚕糸の森公園へ。ここに「青梅街道」の説明看板あり。その概要は~
慶長十年に江戸城修築の城壁用に現・青梅市産出の石灰を運ぶ道として開かれた。江戸中期以降は江戸の発展に伴って物流、秩父巡礼、甲州への脇往還(裏街道)として発達。明治に入って乗合馬車、大正十年に淀橋~荻窪間に西武鉄道が開通。
そして環七を超えると、やっと堀之内だった。内藤新宿から5.5㎞。ここも「目黒不動尊」と同じく「絵本江戸土産」(左)に描かれた景観がほぼそのまま遺された貴重かつ有難いお寺でした。山門を入ると鐘楼、大きな祖師堂から本堂、日朝堂。江戸時代後半の十月・御会式には、善男善女や文人墨客で境内は足の踏み場もないほどの賑わいで、浅草観音と並び称されたとか。
江戸下町から歩いて堀之内へ。厄払いして再び江戸の入口・内藤新宿に戻ってくれば、もう足はクタクタ。「ハっつあん、どこぞの旅籠屋でちょっと休んで行こうよ」なるセリフが自然に出る、そんな距離でした。
10:女郎の手紙は茶屋が配達 [甲駅新話]
<後>アイ、暮てからが、よふ御座ります
<谷>モウ床(床屋)ハ仕廻(しまつ)たかの
<後>もふ仕廻(しまひ)ましたろう
<金>ナアニ、まだ結(いひ)なさらずと、よふごぜんすぜへ
<谷>見ともなくはねへか
<後>ナニサ、きんきんで御座ります。又たとへお髪(ぐし)ハ悪しともさ、~と谷粋を尻目二かけて、あやなす~ (きんきん=当時の流行語で、立派の意と校注あり。すると恋川春町『金々先生栄花夢』は〝立派な先生〟なる意と理解できる。これは「古語辞典」になし。「江戸の流行語辞典」なんてのがあるかしら)
<谷>又、かゝさん、上手も久しい(近世語=きまり文句だ。珍しくもない)ものさ。道理で、とつさんが若死だ。~いろいろむだをはなして居る内に~
<坂見屋ノ若イ者五郎八>~屋敷よりかへり~ 是ハどなたもよふお出なせんした
<金>あい
<谷>どふだ色男、久しいの、橋本己来だろう
<五郎>ホンニ、何と思召(おぼしめし=「思う」の尊敬語)てお出なせんした。花あふぎ(扇)へばかりお出なんすね
<谷>~花おふぎへいつた事ハなけれども、金公への見へに、どふいつた事のあるよふな皃(かお)をして~ 嘘ばつかり
<五郎>ナニサ、ぞんじておりやす
<谷>ヘエ、悪い所を見られた
<後>ひもじかろう。マア、めしをくわつせへ
<五郎>イイエ、おやしきで給(「たまわる」だが、ルビは「たべ」)てめへりやした
<後>ドウダ、よこしたか(五郎はお屋敷に売掛金集金に行った。それがもらえたか)
<五郎>アイ、三分(校注に約1万5千円とあり)取てめへりやした。跡ハぬしが明後日持て来なさる筈でごぜんす
<後>久しい物さ(珍しくないことさ)。ソシテ、何ハ、文どもハミんな届ひたか(女郎が客に出す文は、茶屋が届けて返事を貰ってくるのが普通、と校注にあり)
<五郎>アイ、ミんな御返事を持てめへりやした。縁志さんハお留守でごぜんす
<後>外のハゑへが、亀本から二三度返事を聞に来たから、ちつと休んだら一寸と出して来さつせへ
<五郎>アレハ、どれだつけね
<後>ソレ、丸の内(校注:江戸城の内郭)のさ
<五郎>ヘエ、平(ひら)さんかへ。又無心だろう
<後>油ハ買て来さしたつか
<五郎>アイ、かうじ町(麹町)の仲蔵でかひやした。サア
<後>アイ、よしよし
<もと>なんだ。見せな
<後>ばかめ、油だハ喰ふ物じやァねへ
<もと>かゝさん、ねん寝志よふ
<谷>もふ寝るのか。床いそぎ(子供に遊郭言葉を使っている)だの
<金>サア、構ハずと寝せな・寝せな
<後>ハイ、左様なら(そうならば)、おゆるしなさりまし ~まくらかやを出し、娘をねせ付る 志ばらく有て~ <後>御ろうじまし(御覧じまし:「御覧ず」の音変化。「見る」の尊敬語、見て下さい)。モウ、ふせりました。
<谷>おとなしいねへ
<後>あがき草臥て、夜ハよふふせります ~日もくれ、あんどうともす~
<谷>モウいかふかの
<金>あい
<後>五郎どん、つけて下せへ
模写は(8)と同じく、山手馬鹿人『粋町甲閨』の勝川春章の挿絵一部より。坂見屋の若い者・五郎八のつもりで模写した。
9:さて、どの旅籠(女郎屋)へ [甲駅新話]
<後>ハイ。是は有難ふござります。いたゞきや・いたゞきや。エェ、仕合な ~此内に酒のかん出来。肴もとなりより持来り、則(すなはち)出す~
<後>サァ、お一ツ上がりまし
<谷>マァ、はじめなせへ
<後>ハイ、左様なら(さようなら=別れの挨拶、この場合は接続詞で:それなら)、お燗を見て上ませふ。ヘェあなた
<金>はゐ
<後>憚ながら(はばかり:恐縮ですが)
<谷>金公、お先へ
<金>はゐ
<後>お肴をお取なさりまし
<谷>あい。サァ金公さそふ
<金>ちつとあげやせうか
<谷>まづさ
<後>サァ、お上がりなさりまし
<金>爰(こゝ)へくんな
<後>さあさあ、お出しなさりまし
<金>是は憚り、つぎ(注)なさんなよ
<後>ナゼ上りませんかへ
<谷>宗旨ちげへさ(甘党だろう)
<後>それでも、お連立(つれだち)なすつて堀の内へお出なさつたじやァござりませんか
<谷>是ㇵ一言もねへわい
<三人>ハハハ ホホホ
<後>さあ、いたゞきませう
<谷>そんなら、サァ
<後>是ㇵもふ、結句(けつく:結局、むしろ)おむづか志う御座りませふ ~此間暫く盃事あり~
<後>こよひは何所へお出なさります
<谷>俺ア何所へでも往く気だが、ぬしがまだきまらねへよ
<後>なぜで御座ります
<金>どふも内がやかましうごぜんす
<後>それでも、どうせ今からお帰りはなさりますめへ、お宿(お宅)はへ
<金>下町(さて、どの辺でしょうか)でごぜんす。ホンニ何時だね ~と椽(たるき:垂木=小屋根組の下支えの木)へ出てそらを見る
<後>モウ、おつつけ暮ます
<谷>サァ、もふ、どふで埒はあかねへ。お覚悟・お覚悟
<後>何とおつしやつても、モウお返し申事では御座りません。ソシテもふお遅ふ御座ります。
<金>~十町(歌舞伎役者の名)が声色にて~ モウぜひに及ばぬ
<谷>どふでもかゝかさんのすゝめは利目(ききめ)があるわい。きまり・きまり。トキニ何所にしようの
<金>カノ上総屋はどふだね
<谷>普請ばつかりで、玉(女郎)が能(よく)ねへ。
<後>橋本はへ
<谷>まつぴら御免だ
<後>ナゼエ、あれほど美しゐものを
<谷>是は御挨拶痛入(いたみいり=恐縮する)ました
<後>ハハハ・ハハハ 何所がよふ御座りませふ。山城かね
<谷>是も同じくだ
<後>成ほど谷粋さんは性悪(あちこちと女郎を変えて遊ぶ人)だぞ ~暫し考へて~ ホンニ紀の国がよふ御座りませふ。
<谷>あすこは良へ、サァ紀州に落札(おちふだ)落札
<金>良へのが、あるかの
<後>女郎衆は揃て、よふ御座ります
<金>そんなら夫夫(それそれ)
「橋本屋」は、『鈴木主水しら糸くどき』で有名。天保~嘉永期に歌舞伎になったり、口説節、やんれ節、盆踊り歌として全国に普及。その冒頭は ~花のお江戸のそのかたわらに、さしもめずらし人情くどき。ところは四谷の新宿町よ。紺ののれんに桔梗の紋は、音に聞こえし「橋本屋」とて、あまた女郎衆のあるそのなかに、お職女郎衆の白糸こそは、年は十九で当世姿。立てば芍薬、座れば牡丹。我も我もと名指しで上がる(それぞれで詞が多少違う)。
その白糸に入れあげたのが、女房と二人の子持ちながら四谷塩屋(または青山)の剣術道場の倅・鈴木主水。女房お安は思い余って「橋本屋」白糸に訴え、白糸も了解だが、主水は聞く耳を持たず。お安は自害し、これを知った白糸も自害。これを知った主水も後追い自害の三人心中。昭和26年には久生十蘭が『鈴木主水』を書いて直木賞受賞。
「白糸塚」は、大宗寺裏の靖国通りに面した成覚寺にある。同寺は内藤新宿の遊女(子供)投げ込み寺で、そのシンボルとして「子供合埋碑」がある。その左の繁った枝垂れ梅を左右に分けると、奥にひっそりと隠れ置かれている。同塚は、嘉永五年に市村座で当時の千両役者・沢村長十郎が主水を、白糸を坂東志うかが演じて大当たり。志うかが造立。志うかの句「すえの世も結ぶえにしや糸柳」が刻まれている。この話はフィクションらしいが、武士と遊女の心中はままあり。
★ワードとブログに関するメモ:会話毎に行替えの現・会話文体裁にすべくワード作成文をブログへコピーしているが、ブログ上で一字でも校正しようとすれば体裁がグチャグチャに崩れてしまう。つまりアップ後の直しが利かぬ。この場合はブログ文をワード機能頁にコピー戻し、ブログを全文削除して最初からやり直すことになる。こんな不便がまかり通っているんですね。
虎ノ門ヒルズへの途に山王祭 [新宿発ポタリング]
「おまいさん、黄表紙や洒落本ばかりに熱中していると〝今〟を見失うよぅ」と言われて、「虎ノ門ヒルズ」とやらを見に自転車を駆った。その途中、四谷見付で「山王祭の日枝神社・神幸祭」行列に出逢った。
江戸三大祭り(神田祭り、深川祭り)の一つで、現在は神田祭りと交互隔年開催。王朝装束姿の行列が総勢五百人、その列三千㍍とか。御鳳輦(ごほうれん:鳳凰の飾りのある神輿)ニ基、宮神輿一基、山車三基など。このブログでは「日本橋川シリーズ・湊橋」で「江戸名所図会」に描かれた山王祭大行列をアップ済。当時の盛り上がりを伺えたが、今は規模も熱気も及ばぬ。山車をひくオバ様に「順路」を訊けば「おらぁわっからねぇ。あたしゃ埼玉の在だ。休憩が国立劇場と聞いたが何処だっぺぇ」。
当時の熱気はないも、江戸時代から続く伝統は失いたくない。行列は京橋~日本橋・日枝神社~銀座四丁目~霞が関~午後五時に日枝神社に御環とか。当日は午後に凄い雷・雨が襲った。行列は無事に日枝神社に戻れたのだろうか。
行列を見送って赤坂見付から溜池、虎ノ門へ。「ヒルズ」周辺は街の景観が一変していた。「築地虎ノ門トンネル」が三月末に開通。「ヒルズ」が六月十一日にオープン。「ヒルズ」手前の交差点角に「ポニーキャニオン」の社屋。ウムッ、同社は「桜田通り」に面していたはずだが、移転したのかしら。だが社屋の形に見覚えあり。この辺は未だ「Google地図」未更新で、帰宅後にあちこちのネット検索で、ようやく従来社屋脇に「新虎通り」が出来たとわかった。東京は無沙汰の地があれば、かくも変貌で驚かされる。
ちなみに同社は浜松町・貿易センタービル、市ヶ谷・一口坂ビル、百㍍ほど離れた九段NPビル時代を通して、社外スタッフ的関わりで大いに稼がせていただいた。八丁堀に移転した頃から凋落し、現・虎ノ門の社屋移転後も顔を出したが、かつての元気はない。
「ヒルズ」から「浜離宮」までが〝マッカーサー道路〟か。都知事はパリのシャンゼリゼ通りのようにしたいと言ったとか。「浜離宮」手前が「電通」「汐留シオサイト」「日本テレビ」。まったく新しい街が形成されていた。そんな新たな街の一画に江戸時代から続く「日陰町通り」あり。はたして生き残れましょうか。
あたしが現役当時は「電通」は築地で、「日テレ」は市ヶ谷で、「フジテレビ」は歩いて行ける河田町にあった。いろいろと考えさせられた約二時間の自転車散歩。
8:まずは茶屋・坂見屋にあがる [甲駅新話]
<谷>かゝさん、どふしなすつた ~坂見屋ハ後家持の茶屋なり。谷粋ハあまり物にもならぬ客ゆへ、さのみ(それほど、さほど)とりはやし(取り囃し=にぎやかにする)もせず。たゐがい(大概=ほどほど)のあしらいに見へる~
<坂見屋の後家 カミハキラズ>これハ谷粋さん、どふなさりました。ねつから(根から=いっこうに)お見へなさりませんね。あなた、よふお出なさりました。サァおあがりなさりまし
<金>アイゆるしなせんし。谷粋さん、足をあらいてへ物だね
<後家>あい。~立(たた)んとする所を~
<谷>どれどれ、おれが ~としこなしぶり(うまくやりこなす風で、通ぶって)に、たらひを出して水をくミこむ~
<後>ちつとお待なさりまし。一寸とわかして上ませう
<金>ナアニ、水がよふごぜんす
<後>それでもおつめ(冷め)とふ御座りませふ ~といゝながら、どうこ(銅壺=へっついや長火鉢脇に作られた銅の湯沸し)のふたを取り、ゆびを入て~ 是も同じ事だ。
<谷>ナニ、よしさよしさ
<金>手ぬぐひをあげふか
<谷>ウゥ、かしなせへ。おれがのハ汗手ぬぐひで役にたゝねへ ~二人とも足をあらひあがる内に、盃だい(盃台・さかずきだい)など用意して、二人が前へ直し置(おき)、となりの女房らしきをよびよせ、ミゝへ口をあて、何やらさゝやく~
<谷>かゝさん、かめへなさんなよ
<後>アイ、けふ(今日)ハあやにく五郎をおやしきへ遣(つかわ)しました
<金>御亭主ハへ
<谷>ナニサ、まんこう御前(後家)だよ ホンニ、なぜ(旦那を)入なさらん
<後>どふも気に入た男が御座りません。ハハハハ
<坂見屋の娘もと>~外よりかけ来り~ かゝさんや、かゝさんや
<後>ナンダ お客があるぞ。おじぎをしろ
<谷>むすめ、どうした。大きく成たの
<後>イイエ、もふどうも形(なり)ばつかりて、いたづらにはこまります
<もと>~谷粋が持来りし風車を見付て~ かゝさん、あれがほしい
<後>ナニサ、あれはおみやげになさるのだ
<金>~風車を取て~ 此事か
<谷>サア、やろおう、やろう
<後>ナニおよしなさりまし。直に悪くいたします
<谷>悪くしてもよしさ、サァサァ
内藤新宿の旅籠屋と茶屋の関係が描かれていて興味深い。また旅籠屋とは言え「見立て」(張見世に座る女郎を、客が見定めて相手を決める)のシステムを有していて、まぁ「旅籠屋=妓楼」と言ってもいいだろうか。「まんこう御前」に興味の方は、ご自分でネット検索をどうぞ。「風車」は、堀之内(妙法寺)土産。新宿で遊ぶのを「堀之内詣り」を言い訳にしたらしく、その証拠にと土産の風車をわざわざ買ってきている。懐にはきっと張御符も入っていよう。
絵は『甲驛新話』の続編として4年後刊の、山手馬鹿人(大田南畝)作の『粋町甲閨(すいちょうこうけい)』の勝川春章の絵の一部を模写アレンジした。
なお会話文ながら原文は棒組表記で読み下し難いので、前回より現・会話文の体裁(会話毎に行替え)にしてみた。しかしこの体裁は、当ブログでは不可能(改行すると一行アキになる)なので、ワードで打ち込んだ文を、ブログへ「コピー・ペースト」。だがブログとワードの相性が悪いのだろう、時に行替えなどが乱れたり、思うようにならぬが多々。だましだましでやってみる。
7:普請が続いた内藤新宿 [甲駅新話]
全会話文だが〝棒うち〟表記。ここからは現・会話文の行替え体裁で書き直し、文中に調べた注(主に古語辞典)や漢字表記を( )内に挿入。
<金>さあ是からハ日かげもの(日陰者=公然と世間に出られない者)だ。~と、あせ手ぬぐひ(汗手拭)を出して笠ひもへはさみ、鼻から口をおゝひかくし人目を志のぶといふ身をする。
<金>なぜそふなせんす。(んす=ますの転。武士なのに遊里特有言葉を遣っている)
<谷>そこいらぢうの女郎共がミんな知て居(いる)から、見付るとやかましくつてならねへ。アノ今のやつが見つけやアしなんだか。(谷粋、相当の遊び人ですね)
<金>イイエあれハ何屋へ。(へ:疑問詞)
<谷>いづみやさ。
<金>わたし共が友達が、和泉屋へ往(いつ)たといひやしたつけ。
<谷>それは小いづミだろう。和泉屋も大見せと小ミせと二軒あるよ。
<金>大見せと小みせハどふして知れやすねへ。
<谷>めゑら戸(めいら戸=舞良戸:引き違い戸のように多くの細い横桟が入った板戸)が大ミせ、から紙が小見せさ。
<金>何所がへ。
<谷>見せの後ロがさ。
<金>ひと志きりさびれたと聞やしたが、そふもごぜんせんね。
<谷>ナニサぜんてへ(全編が会話文で〝江戸弁〟の宝庫です)初中(初めごろ)がさびれはしねへけれども、初而(しょて=最初)は普請が悪かつたから、どの内も大かた普請を仕直して引越引越して、その跡が明店(あきだな)で有た物だから、知らねへやつらが見て、悪く評判をしたのさ。ホンニ上総屋の普請を見なすつたか
<金>ナニサついぞこつちの方へㇵめへりやせん
<谷>聞ねへ。階子(はしご、梯子)が黒ぬりだあナ
<金>とんだ事たね。何処かた出た内でごぜえんすへ
<谷>氷川から来たよ
<金>どれがそだね
<谷>ソレそこの左のさ
<金>ホンニ良へ二階だね。ソシテあの寺は何ンといひやす。大きな物でごぜんすねへ。
<谷>あれが大宗寺さ。庭が又とんだ大そうじだよ。
<金>泉水(せんすゐ)でもあるかね
<谷>泉水もあるが畑もある。おそろしく廣いよ
<金>見られやすかへ
<谷>随分見られるとも。二分いたむ(払うと)と、女郎をつれて行かれるハ(当時の1両は128,000円。1両=4分で2分だと62,000円? 校注では1万円とある)
<金>それはおつ(乙:趣があること)だな
<谷>せん(先、以前)どもつれて往(いつ)て、笋(たけのこ)を盗んだり何かして、とんだおもしろかつたよ。マア何ンにしろ一盃(いつぺへ)のんで往ふじやアねへか ~と坂見屋といふ茶屋へはいり
★大宗寺のメモ:大宗寺は家康の家臣・内藤家(元禄四年に信州高遠藩主。現・新宿御苑一帯が下屋敷)の菩提寺。江戸六地蔵、閻魔像、脱衣婆(おばば)像、三日月不動明王などがあって、縁日は大賑わいだった。二代清成はキリシタンだったらしく切支丹灯篭などもある。二丁目の「新宿公園」も同寺庭園一部で池があった。同池が雑司ヶ谷まで流れるカニ川の水源。若い頃の「新宿公園」は、まだ池があったように覚えている。
息災か窓越しに逢ふカワラヒワ [私の探鳥記]
過日、テレビに加山雄三の番組が流れてい、あたしは「おめぇ、あの頃に通っていた江の島マリーナの、トキワ丸の隣に光進丸があってさぁ」と話し出したら、「おまいさん、静かに。ヴォリュームを下げて。ホラ、何かが鳴いているよぅ」。耳を澄ませば「キュロキュロキュロ~」。ビル街の新宿・大久保ながら耳慣れたスズメ、ツバメ、ヒヨドリ、メジロ、シジュウガラ、ムクドリ、オナガでもない鳥の鳴き声。
ベランダに出た。鳴き声はマンション向かいの街路樹・ハリエンジュ辺りから。眼を凝らすと、風に揺れる茂みの中に茶色の点がひとつ。双眼鏡で覗く。文鳥のような太い嘴、茶色の胸の鳥がこっちを見ていた。
望遠レンズで高速連写。シャッター音が届いたか、被写体がパッと飛び去った。それでも四枚撮れてい、その一枚に黄色の翼を広げた飛翔カットあり。「カワラヒワ」だ。
撮れた写真をパソコン・モニターで観つつ「おや、以前にも同じ絵を見たことがあったなぁ」と思った。自分のブログ内を検索すれば、写真はないも「ハリエンジュの若芽を啄むカワラヒワ」の記述が幾度かあった。どうやら幾年も同じ時期・同じ場所にカワラヒワが来ているらしい。我が家の窓越しに見る野鳥定番仲間にカワラヒワを加えることにした。
6:メモ「内藤新宿の歴史」 [甲駅新話]
ここで『甲驛新話』を中断し、内藤新宿の歴史を簡単に復習。徳川家康が江戸幕府を開き、五街道を定め、その一つが甲州街道。半蔵門から調布、八王子、甲府への道。日本橋から高井戸まで休憩所がなく、五人の浅草商人が「内藤新宿」開設を願い出た。時は江戸開府から約百年後の元禄十年(1697)。金五六〇〇両上納を約束した裏には〝大儲けの企み〟もあってのことだろう。幕府は内藤家中屋敷一部と旗本屋敷などを取り上げ、その名も「内藤新宿」を開設。
浅草商人の代表が高松喜兵衛(後に喜八)で、上総の出身。高松家が内藤新宿の名主役を代々務め、「上総屋」は彼の経営だろう。旅籠屋は一軒に二名までの「食売女」を許可。むろん隠れて多くの遊女を抱えて大繁盛。吉原を脅かすほど乱れ、徳川吉宗の代の享保三年(1718)に廃宿。この時の旅籠屋は五十二軒だったとか。
内藤新宿が復活したのは五十数年後の明和九年(1772)。食売女は百五十人までが許可。上納の残金や冥加金も決定。同年十一月に改元で安永元年。この再開時の町方上納方を仰せつかったのが馬宿・煙草屋を営む稲毛屋金右衛門。この人が誰あろう、あの狂歌の、いや平賀源内と友人で、蝦夷まで旅した 平秩東作(へづうとうさく)。
本名、立松金右衛門。大田南畝を平賀源内に紹介してデビューさせた恩人。南畝はじめの狂歌三大家(朱楽管江、唐衣橘洲)は牛込加賀屋敷に住む内山椿軒の門下で、平秩は彼らの先輩格。平秩東作に関しては、マイカテゴリーの<大田南畝関連>ですでに紹介済。牛込・善慶寺の墓も訪ねている。彼については森銑三著作集・第一巻「平秩東作の生涯」に詳しい。
さて、この『甲驛新話』は安永四年(1775)刊ゆえ再興三年後。本文中に普請が話題になるのもうなずける。再興時に食売女百五十人までと規制されたが、裏(実情)は容易に想像できる。加えて江戸人口の増大化、物流に欠かせぬ宿場として品川宿、千住宿、板橋宿と共に江戸四宿となって大発展した。だが元禄十五年(1702)から元治元年(1864)までの百六十二年間の火事が実に二十六件。大儲けも容易でなかったと想像できる。
次に地理の復習。内藤新宿は天龍寺から大木戸門までの間。「江戸切絵図」の「内藤新宿新屋敷之図」をアップする。「玉川上水」の右端、水番所辺りが大木戸門(現・四谷四丁目交差点)。ここから西に向かって内藤新宿下町、内藤新宿仲町、内藤新宿上町と続く。上町脇に天龍寺。今も当時の「時の鐘」が遺されている。『甲驛新話』本文冒頭で「大木戸の塵ㇵ水売の雫にしめり、天龍寺の鐘は蜩の声にひゞく」とあって、簡潔に内藤新宿の範囲が説明されている。
下町と仲町の間に広大な境内を有する「大宗寺」がある。内藤家の菩提寺になっている。大宗寺正面が「問屋場」。ここは街道宿駅で駕籠や馬の継立てをする所。現・地下鉄「新宿御苑前」、御苑の「新宿門」辺り。また大宗寺の奥、靖国通りに面して「成覚寺」がある。ここは内藤新宿の遊女(飯盛女)の「投げ込み寺」。吉原が「閑浄寺」なら、新宿は「成覚寺」と言えよう。同寺には大田南畝らの仲間、恋川春町の墓もある。ご住職にもお話を伺ったので、別項で改めて紹介です。
そして上町・仲町・下町の南側は広大な「内藤駿河守頼寧(信濃高遠藩)下屋敷」(現・新宿御苑)で、内藤新宿の鎮守様は現・明治通り沿いの「花園神社」。写真は上から「江戸切絵図」。次が現・明治通り沿いに建つ天龍寺の山門と時の鐘。次が大宗寺。下が新宿御苑の大木戸門。左の建物横にある「大木戸門跡」石碑。
(1)で『絵本江戸土産』の「四谷大木戸内藤新宿」(画・広重)を載せたので、ここでは長谷川雪旦・画の『江戸名所図会』をアップ。「五十にて四谷をみたり花の春」なる嵐雪句が書かれているが、時代小説家は、この絵からわかりやすくこう記している。~街道の大木戸は町の木戸とちがい、なにぶん人通りが多いので寛政四年に取り払われ、いまでは名ばかりのものとなっている。それでも街道の両脇から大人の背丈の倍ほどもある石垣が突き出して道幅をせばめ、その部分の通りは石畳となって番屋もそのままのこされ、出役(しゅつやく)のときに使う突棒や刺股や袖搦、それに松明までもが板壁にずらりと立てかけられているのが街道から格子戸ごしに見てとれ、府内に入る者へ無言の威圧感をあたえている。(喜安幸夫『大江戸番太郎事件帳(ニ)』。(以上を頭に入れて、再び『甲驛新話』に戻ります。
5:「堀之内」へと女郎屋へ [甲駅新話]
次は「金七 ナレドモシヤレテ金公」 もぐさ嶋(縞)、さらしのかたびら。白あさのゑりをかけたあミじゆばん。嶋ちりめんの帯を〆、かたびらの切レと見へて同じ嶋のひもを付たすげ笠に、茶がへし小紋のちりめんの羽折を一所にして手にさげ、但羽折のひもハかくれて見へづ、鼠色のたびをはき、もちろん丸こしなり。
「もぐさ嶋=艾縞」。茶と白で織り込んだ木綿の単衣だろう。その下は夏用の袖なし半襦袢で白半襟。帯は縞縮緬。菅笠に単衣と同じ生地の紐をつけ、脱いだ茶返し小紋の羽織と一緒に手にしている。羽織も紐は隠れて見えないが、鼠色の足袋を履き、丸腰姿ということだろう。『甲驛新話』の挿絵は勝川春章による二人の姿を描いた一枚のみ。簡単に終わったので、もう少し先に進んで、二人の会話冒頭へ。
<谷粋>金公、なんときつい馬じやあねへか。<金公>いつそもう、引切(「ひつきり)がごぜんせんねへ。思へㇵ道があんまり悪く成りやせんの。<谷>商べへ屋が出来てから石をいけへこと入れたから、ちつとㇵ直つたのさ。<金>それでもふる時ㇵおへやすめへ。わたし共が方なんざあ、ふれバふるほどよく成りやす。<谷>道ㇵそつちの事たよ。志かしふれバふるほどとㇵあんまり味噌だぞ。<金>ハゝハゝ。<谷>なんと金公、どけへぞ上らふか。<金>どふも内がつまりやせん。<谷>ナゼ、よかろうぜ。<金>堀の内にこもつたともいわれやすめへ。<谷>われが所へとまつたといやれな。張御符せへ持てけへれバ、おやじㇵあやなされるはア。<谷>イイエサ、おやじよりやア おふくろがやかましくつて成りやせん。 かれこれはなしの内に、ほどなく女郎屋のまへにさしかゝる。
「きつい」の意は諸々あるも、ここは文脈で「=はなはだしい、ひどい」だろう。「引切=ひつきり」のルビ付きだが、これは江戸弁特有の促音化。切れ目、区切り。「ひっきりなし=切れ目がない。絶え間なし」。「いけへ」の「いけ」は「いけしゃあしゃあ」の「いけ=接頭詞、侮蔑強調」と判断した。現代俗語なら「ゴッツイ」だろう。「おへやすねへ=どうしようもねぇ」。「味噌=手前味噌」。「内がつまりやせん」は、家の者が承知しないか。「商売=しょうべぇ」で、二人の会話には江戸弁(下町言葉)が多い。ここは志ん朝なんかに語ってもらいてぇとこだ。
「堀之内」が出て来た。当時は「堀之内へ詣でる」と言って新宿の女郎屋で遊んだそうな。吉原に遊びに行くには「浅草の観音様へお詣り」が誤魔化しの常套句。あたしは堀之内・妙法寺を知らぬゆえに、いい機会なので自転車で行ってみた。機会があればこれも記す。
4:半可通の谷粋衣裳 [甲駅新話]
さて、馬をひいた馬子らが去り、本編主人公が登場。まず二人の衣裳が入念紹介される。原本は小文字だが、ここは江戸文化に親しむ遊びゆえ、しっかりと筆写・解釈する。まずは谷粋(ヤスイ)の衣裳。
藍さびちゞミのかたびら。紅麻に白ぬめゑりのじゆばん。帯ハ黒びろうどに、あさぎ小伯を合せたちうや帯。呂の山まひ染に桐の三ッ紋付た羽折。ひもハ駿河打のほそ。色ハむらさきなれども、さめて藤色かとうたがふ。茶つかの少しよごれた脇さし一本おとし指にし、かまぼこ形のすげ笠に白キ麻のひもを付てかむり、笠の裏に小サキ風車二本さしたり。
「藍錆=やや赤みの藍色」。つまり青紫の縮みの「かたびら=単衣、夏物」。襦袢は、紅色に染められた麻地で白むめゑり(白絖襟=白絹のなめらかでつやのある襟)。帯は黒びろうどに浅黄色の昼夜帯。つまり黒と浅黄のリバーシブル帯。羽織は呂の山繭染に、桐の三ッ紋付(背中と両袖後ろ)。紐は紫だが褪めて藤色かと疑われる駿河打ちの細紐。脇差は茶色のつか(柄=握り)の少し汚れたものを一本落し差(柄が胸に近い崩れた差し方=臨戦態勢でない差し方。水平の差すのは、かんぬき差し)。すげ笠はかもぼこ形で、白の麻紐をつけてかぶり、笠裏に小さい風車(当時盛んだった堀之内=妙法寺詣りのお土産)を二本さしている。
大田南畝自身は最下級武士の御徒歩組だが、さて、この人物は何所のどんな身分の男だろうか。廓遊びなら落語でも長屋の熊さん八っつあんも登場だが、彼は遊び人風の衣裳に凝った中年男で、脇差まで帯びて、遊ぶ金の余裕と暇がある。まぁ、暇な独身中級武士(次男・三男坊)ってところだろうか。読み進むに従ってわかってこよう。
なお「半可通」は、粋に見せようと遊里などの事情通ぶって軽蔑される者。あたしも「くずし字」初心者なのに近世文学の「半可通」。どうしようもない「生半可な隠居」です。
3:馬糞の内藤新宿 [甲駅新話]
目録 大木戸(付り=つけたり 馬士=まごのはなし 友の出会) 茶屋の体 座舗のしやれ 床の内 隣座敷の様子 きぬぎぬのころ 畢
「目録」は脚本の「場」に相当か。「畢=おわる」。
甲驛新話 大木戸の塵ハ水売の雫にしめり、天龍寺の鐘は蜩の聲にひゞく。<クツワノオト>ちやらんちやらん <馬士二人歌>おゝれへとなア~いかぬウか、ソレそうだになア~ <アトノ馬士>かミ村のウ、江五右衛門がアよめ女ナア、産月だアといつけがどふだア。まだひり出さねへかなア。<サキノ馬士>大キナ声シテ あんだかハア、よんべも夜ふてへ疝積のウいてへとつて、おれらアも張番のしたが、がうら出そくねたアよ。何がはあ蚊にはお志めらえるし、たゞもいられねへから、おゝめ小めのウして、ひどヲ~いやつをニ本とられた事よ。<アト>四文銭でか <サキ>おゝよ <アト>そりやアはあ、たけへかん病のしたナア <又歌>おうらのウせゑどへなア しのびなあ、小ヲ桜の枝アおゝりになァ、サヘ~。
まず最初は情景描写から。内藤新宿は大木戸と天竜寺の間。大木戸の塵は水売りの雫でしめり、天竜寺の鐘が蜩の声に響いている。両端を記し、晩夏の遅い午後だと示している。さらに効果音で「轡の音」が入ってくる。新宿郊外(青梅街道なら中野より先、甲州街道なら下高井戸より先だろうか)からの馬士二人が馬子唄を唄いつつ登場。田舎言葉丸出しの会話が耳に入る。「田舎弁+くずし字」展開で、読むも難儀。要約すると、上村の江五右衛門の嫁が産月だが、まだ産まれないか。夜っぴいて腰が痛いというので、オラも張り付いていたが、まったく出そうにない。蚊にいじめられてじっとしてはいられねぇから、大目小目(博打)をしたが、銭さし二本負けたよ。(四文銭で一本四百銭。二本で約四千円を負けた)。そりゃ高い看病になったなぁ、まぁ、そんなことを話し合っている。
絵は、広重の『江戸百』の「四ッ谷内藤新宿」を模写した。馬のケツと馬糞をローアングルから描いたインパクトある構図。また歌川広景の馬が暴れている「江戸名所道外尽四十九・内藤志ん宿」も有名だろう。馬糞の多さに加え、玉川上水を江戸市中へ送る工事で、四谷辺りは絶えず工事中だった時期もあろう。
一方、甲州街道の内藤屋敷寄り玉川上水の桜を描いた広重『玉川堤の桜』、『江戸百』の「玉川堤乃花」は美しい景色。『絵本江戸土産』の「四ツ谷大木戸内藤新宿」には「宿美麗なる旅店多く軒をならべ」とある。内藤新宿は時代によってさまざまな顔を見せたのだろう。
2:239年前の新宿「序」 [甲駅新話]
約百字の漢文を飛ばして「序」から。すでに江戸の戯作は「古語辞典」をまめにひけば概ねわかると知ったので、今回も辞典首っ引きで始めてみます。
いたこ出嶋のまこも(真菰)にハあらで(有らで=なくて)、四谷新宿馬糞の中にあやめ(道理、分別の意もあり)もしらぬ一巻をひろひ得たり。朝帰りの朝な朝な、茶づる如くによミ流せば、力をもいれずして、あらかねの(「地」の枕詞)地廻りをうごかし、目の見えぬ按摩針の声きく如く。問屋場(とひやば:駕籠・馬の継立てをする所)をとはずして、四ツ手(四手駕籠。四本の竹で出来た安い駕籠)のはやきおそきをしり、大木戸をいでずして、倡家(やたい=娼屋)のあしきよきをしれバ、あさぎ染あいたらぬ情けも、てんぷらの味噌ごき中となるぬべし。たとひ時うつり客去り、むかひの桃灯(提灯)行かふとも、いさゐかまハず、いさらご(伊皿子)の品川と肩をならべて、駅路の鈴の音たえず、玉川の流れつきせずして、柳新葉のかゝるまで、この桜木(版木)の朽まじきこそ。 安永四ッのとし文月の頃 風鈴山人水茶屋に書す
冒頭の文言は当時、江戸で流行った「潮来節」の替え歌 ♪四ツ谷新宿馬糞のなかに、あやめ咲くとはしほらしや」からとか。(小池正胤『反骨者大田南畝と山東京伝』より)。「茶づる=茶漬けを食う」。「ジャズる」など今も使われる名詞の動詞化が、江戸時代から使われていたとは面白い。読んでいれば、地回りの姿が浮かび、座頭のふれ歩く声も聞こえてくるようだ、と記している。
「浅黄染、藍足らぬ情け、天麩羅の味噌ごき中となりべり」とは。浅黄色は田舎侍、野暮のこと。藍色が足りないのが浅黄色。その野暮の情けも、天麩羅に味噌をつけるようにしつっこく濃い仲になるにちがいない。(勝手解釈)。「柳新葉のかかるまで」も、由来ある言い回しだろう。「この桜木(版木)の朽(くつ)まじき(はずがない)にこそ(~でほしい」で結ばれている。えぇ、著者に今日の新宿の繁栄を見せてあげたい。
絵は、山東京伝(北尾政演)が描いた若き大田南畝を〝遊び模写〟したもの。
1:「風鈴山人」とは誰だ [甲駅新話]
山東京伝『江戸生艶気蒲焼』全文筆写と全絵模写を終えた。これは仮名中心だったゆえに、今度は漢字くずし字にトライです。さて、どの戯作を読みましょうか。ここは山東京伝を引き立てた大田南畝作と言われる『甲驛新話(こうえきしんわ)』が妥当だろう。
大田南畝については「マイカテゴリー」を設けているので、ここで経歴などは贅せず。同作は安永四年(1775)刊で、南畝ならば二十七歳の作。牛込仲御徒町(現・新宿中町)在住で、版元は市ヶ谷左内坂下の富田屋新兵衛・新甲館。あたしは大久保から牛込中町を右折し、左内坂に設けた事務所に通う時期があったので、なんとも親しみが湧く。
始める前にまず、早稲田大学図書館データベース『甲驛新話』原本を参考にしたことを記しておきます。なお、資料一覧は最後に掲載。さて、この洒落本の最初は百字ほどの漢文で「馬糞中咲菖蒲述」とあり。「序」は「風鈴山人水茶屋で書す」とある。その正体は誰だろうか。
大田南畝デビュー作『寝惚先生文集』の序文を書いたのは「風来山人(平賀源内)」で、これまた源内だろうか。同年の源内は荒川通船工事や秩父木炭の江戸積出し、エレキテル復元前年で奔走中。書いたのは大田南畝が通説。岩波書店「大田南畝全集」にも収められているし、「日本古典文学全集」にもそう記されてい、森銑三著作集『大田南畝作洒落本小記』もそう書かれている。
永井荷風作成の「大田南畝年譜」にも『甲驛新話』は「山手馬鹿人」とされている。これは続編『粋町甲閨(すいちょうこうけい)』著者が「山手馬鹿人」で、彼が『甲驛新話』を書いたと記しているため。その「山手馬鹿人」が大田南畝だとされていたが、最近になって疑問符がついたらしい。新宿歴史博物館刊の「『蜀山人』大田南畝と江戸のまち」(平成二十三年刊)では、『甲驛新話』の著者は南畝とは別人説で「年譜」から同作を外している。これはどうやら平成二十年の「日本近世文学会」発表の藤井史果『山手馬鹿人・大田南畝同一人説の再検討』によっているらしい。
まぁ、あたしは学者ではないゆえ、この件には立ち入らぬ。従来説の浜田義一郎箸によれば、大田南畝が自ら版下を書いたそうで、筆写するは若き南畝に近づく気分でやってみましょう。また著者正体が誰であろうと、今から二百三十九年も前の甲驛(内藤新宿)を描いた洒落本には興味ひかれます。幼児期に新宿御苑の池に落ちて大木戸門前の親戚の家に泣き込み、社会人第一歩が新宿御苑前の広告代理店で、初めてオフィスを構えたのが昔の新宿厚生年金会館の並びのビルの一室。さらに御苑前の広いロフトへ移転。新宿は我が街でもあります。
絵は『絵本江戸土産』(広重)の「四谷大木戸内藤新宿」。~四谷通りの末にして甲州街道の出口なり、この宿美麗なる旅店多く軒をならべ、その賑ひ品川南北の驛路に劣らず」。なお『甲驛新話』は勝川春章の絵が一点のみ。『江戸生艶気蒲焼』模写で芽生えた筆ペンでの絵心を中断せず、いろんな浮世絵の模写遊びも並行しつつやってみましょう。次回は「序」から。