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三囲の時代巡りを苔が知り(2) [新宿発ポタリング]

mimeguritorii5_1.jpg 大鳥居が柵で囲まれていたので、東南方向から新しい鳥居をくぐって境内に入った。まず其角の句碑、三越のライオン像に迎えられて本殿へ。その裏に手水舎と閉じられた鳥居。宮司さんの奥様だろうか、境内掃除の手を休めて説明して下さった。

「四、五年前に賽銭泥棒が頻発したんです。だから江戸時代から多くの浮世絵に描かれた大鳥居の門を閉じ、南側に新たな門を造ったんです。ですから新門から入ると、一番奥に手水舎がある変な具合になってしまった。昔のことですか。そう、私が子供時分はまだ周りがぐるっと池だったんですよぅ」

mimegurisinmon_1.jpg 境内の史跡案内板に明治、大正時代の絵と写真があって、奥様が子供時分はそれら風景と余り変わっていなかったらしい。京伝、歌麿、鳥居清長ら多くの浮世絵師が描いた景色は、いつから失い出したのだろうか。調べ好きの虫が騒ぐ。

 墨堤は昭和34年の伊勢湾台風被害後に直立堤防(カミソリ堤防)工事が始まって、昭和60年に完成。首都高6号向島線の工事は昭和46年に始まって、昭和57年に全線開通。だがカミソリ堤防の悪評高く、昭和55年から親水テラス整備が順次行われて、浅草辺りが現在の姿になったのは最近のことでは。まだコンクリートの白が眩しい。まぁ、ずっと重機が唸りっ放し。今は三囲神社より人々は東京スカイツリーに押し寄せている。あたしは東京生まれだが、まだ東京タワーにも上っていないので、スカイツリーは遠くから眺めるだけで終わりそう。

 そんな昔ばなしをしつつ、其角「雨乞いの句碑」を見た。田の中にあった「田中稲荷」が有名になったのは、其角の雨乞い句による。「遊ふた地(夕立)や田を見めぐりの神ならば」。そして本殿奥には苔むした多くの碑群あり。その中から、もう一つの其角句碑「山吹も柳の糸のはらミかな」。京伝と同時期の狂歌の朱楽管江(あけらかんこう)の辞世碑もあった。「執着の心や娑婆に残るらむよしのの桜さらしなの月」。

 江戸を懐かしんでいたら、散策のお年寄り一団が来て墨田区の行政批判や、スカイツリーの東武電車が〝買い出し電車〟時代の酷かったことなどで盛り上がってきたので、あたしは三囲神社を後に、大川を渡って台東区・浅草寺に向かった。山東京伝の机塚に再会し、人気のビッグメロンパンをかかぁの土産に買って帰った。

 写真上は、土手から鳥居上部が覗く江戸時代と変わらぬ構図のカット。だが背後は車道で、頭上は首都高。写真下は新しい鳥居と門。


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三囲の時代巡りを苔が知り(1) [新宿発ポタリング]

imanomimeguri_1.jpg 老いても身体が疼く。「自転車こぎこぎ」したいと大腿四頭筋が騒ぐ。ウム、何処へ行こう。そう『江戸生艶気蒲焼』のクライマックス、艶二郎と浮名が身ぐるみ剥がされて、素っ裸で三囲神社の大鳥居が覗く墨堤を歩く絵を思い出した。現・三囲神社を参詣しようと思い立った。

 まずネットの「自転車ルート検索」。大久保から早稲田~文京区役所~湯島~上野~浅草~三囲神社。⒒㎞、50分、220Kcal。言問橋に着き、橋から上流右側の三囲神社を見る。コンクリーehonmimeguriitibu_1.jpgトの親水テラス付き堤防。土手上に首都高6号向島線。その下に車道。土手側から鳥居上部を見る地に立った。鳥居を正面から見れば、笠木越しに東京スカイツリーが聳えていた。

 鳥居横に案内板。その文の概要は~ 鳥居は土手下も、対岸から鳥居上部が見える大きさで、多くの浮世絵に描かれた。現・鳥居は文久二年(1862)建立。墨田川の土手下に「竹田の渡し」が山谷堀・待乳山を結んでいた。渡しは昭和五年の言問橋開通で廃止された。

 京伝『江戸生艶気蒲焼』が天明五年(1785)の刊。同時期の歌麿も「三囲神社の御開帳」で、美人群が歩く土手向こうに鳥居上部を描いた。その約五十年後の天保五~七年(1834~36)に長谷川月岑が『江戸名所図会~三囲稲荷社』を描いた。嘉永三年(1850)より順次十編刊行の広重『絵本江戸土産』八編にも俯瞰の「三圍稲荷~堤より見る図」あり。これはちょうど言問橋から見た角度とほぼ同じ。手前に隅田川、土手下に竹屋の渡し、階段を登って桜の墨堤へ、鳥居上部と三囲神社の甍が描かれていた。この景色は何時頃まであったのだろう。

ehonmimeguri1_1.jpg ここで『絵本江戸土産』の文を筆写してみる。「向嶋の大社なり、隅田川の景色ハ往々(わうわう)記(しる)すによりて、ここに贅(ぜい)せず。三囲の鴈木(がんき)より見れバ、華表(とりゐ)の笠木を堤に置たるがごとし。焉(ここ)より上りて堤を下れハ、田中に大門ありて蒼稲魂(うがのみまた)を安置す。二月初午及び春時ハわきて賑ひたる殊也」

 「鴈木」「華表」「焉」「蒼稲魂」の判読に難儀したが、なんとか解読した。「鴈=雁の異体字」とわかった時は思わずニヤリ。「雁木=江戸時代の船着場の階段」とわかって意が通じる。「華表=かひょう、とりゐ」。「笠木=鳥居最上部の横木」。「蒼稲魂」がよくぞわかったと自分を褒める。これは、稲の霊魂ですね。「贅する=必要以上のことを言う」の否定で「贅せず」。よく使われる言い回し。

 さて、土手を下って鳥居をくぐろうと思ったが、しっかりと柵で囲まれていた。(続く)


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スーパー9、路線6、図書館3 [暮らしの手帖]

 土曜日朝刊に、スーパーマーケットのチラシが七店。徒歩圏内のスーパーを指折れば九店舗。先日、若松町「ライフ」へ初めて行った。広く食品大充実。二階は日用品売り場。ついでに若松町「マルダイ」ヘ。店員介入なしの清算マシーンに驚いた。徒歩数分で「三徳」「生協」だが、散歩も兼ねるゆえに他七店に足を運ぶ。さらに言えば魚は小田急ハルク地下「北辰」、野菜は朝採れ「地産マルシェ・小滝橋店」へ自転車を駆る。

 交通面は、徒歩数分で副都心線・大江戸線の「東新宿」駅。戸山公園を縦断して東西線「早稲田」駅。大久保通りで山の手線「新大久保」駅と中央線「大久保」駅。西武線は「高田馬場」。明治通りと大久保通りに都バスも走っている。

 あたしには食や足より重要は書籍で、徒歩十分圏内に「新宿中央図書館」「戸山図書館」「大久保図書館」。蔵書せぬ主義ゆえ、三図書館が自分の書棚と思って活用している。

 それだけ人口密度が濃い。住宅ビルは空に伸びる。大都市集中化と地方市町村の過疎化。地方に「買い物難民」がいれば、都心の昼時は「ランチ難民」「カフェ難民」がいる。

 みんな東京に集まる。テレビ・キー局で働く人、出演する人のほとんどが地方出身者で、紙媒体も同じだろう。芸人成功者は東京一等地の豪邸暮らしで、成り上がり途上の芸人らがテレビに出まくっている。下町のオバさんがテレビのインタビューに応えて言った。「あたしゃもぅテレビは観ないよぅ。だって今は東京の人が出ていないもん」。東京集中化で人が街が組織が日本が、急速に変わって行く。

 下町の祭りで、江戸っ子が神輿を担いでいた。まだ東京っ子、江戸っ子が多そうだが、下町にも高層ビルが建ち続き、やがては新宿辺りと同じになろう。東京生まれより、地方出身者が多くなり、少子化も止まらない。東南アジアの皆さまが大声で闊歩し、我がマンションも半分が外国の方。商店街スピーカーも異国語。副都心は早やコスモポリタン、経済はグローバル。

 失われゆく江戸の面影に、恋しさが募る。さぁ、明日は下町に江戸を探しに行こっ。


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耐へ堪へてトロリ滴る梅雨の悦 [花と昆虫]

sitataru2_1.jpg 春が来たと思っていたら、早や梅雨の気配です。昨日は雨。ベランダの銀杏の葉に、雨粒が溜まっていた。小雨のなかでマクロレンズで遊んだ。小さな雨粒が魚眼レンズのように、道路向こうの大きな建物を丸ごと写し込んで、妙なる世界を作っていた。雨粒が膨らむと、その世界がポタッと落ちた。

 そのなかの一葉が、露を大きく膨らませて耐え抜いていた。その滴る瞬間を撮らんとカメラを構えた。いつ滴るか。我慢比べ。滴る瞬間に悦楽の味わいがありそうで、ファインダーを覗き続けた。だが、我慢比べに負けて先にシャッターを切リ、その直後にトロッと滴った。あたしには〝粘り〟が足りない。まぁ、せっかち。それが性分でもあろう。

sitataru1_1.jpg せっかちで好機を掴み、また逃して来た。貧乏隠居ゆえ、逃がしたことが多かったのだろう。だが、老いぼれるのも先のことではない。身体が動かなくなったら、動かずじっくり粘れよう。そうなって、初めて見えるものもあろう。

 そう呟いたら、かかぁがガハッハッと笑いやがった。「おまいさんのせっかちは、死ぬまで直らない。きっと死にざまも、せっかちだよぅ」


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雀の子生きろ生きろと手を出せず [私の探鳥記]

suzumenoko_1_1.jpg 昨日、巣立ち直後の雀の子がベランダに飛び込んできた。飛び立てず「チュ~ン・チュ~ン」と鳴いていた。かかぁが「いやだわぁ、あたしのことをジッと見ている。お腹が空いているのかしら」と言う。

 先日のこと。大久保通りは若松町を歩いていたら、道路際で雀の子がヨロヨロしていた。道路に出れば、車に轢かれよう。ソッと立ちはだかって、住宅側に追いやった。ヒョイヒョイと頼りなく跳ねながら安全な場所に移動。それを空から見ていたか、親雀らしきが「チュンチュン」と飛んできて、ホッと胸を撫で下ろした。

 「ヒナには手を出すな」と読んだ記憶がある。さて、ベランダに飛び込んできた雀の子をどうしようか。この位に育ったヒナが、地上で餌を啄んでいる姿を何度か見てきたし、かかぁの「お腹が空いているのよ」に、米菓子を砕いて撒いてみた。だが食べず、動かず、ただ鳴いているだけだった。

 いろいろあったが(部屋にも入ってきた。カラスから逃げたのかも)、撒いた餌が好結果を生んだ。夕刻前に撒いた餌に一羽二羽と雀が集まりだし、ベランダがちょっと賑やかになった。その中に親鳥がいたのだろう。ベランダに撒いた米菓子がなくなって、気付くとヒナも飛び去っていた。夕餉は雀のヒナの無事を祝して乾杯。

 かつてヒナに遭遇が二度ある。ウォーキング中の早稲田で巣から落ちたヒナを拾い、育てようと試みたが、結局は死んだ。二度目は巣鴨・本妙寺で、地に落ちたヒナを見つけた。この時は若い坊さんが手に乗せて持ち去った。巣を知っている様子で「まぁ、これなら死んでも供養されよう」と見送った。

 ここ数年、時にマスコミに「スズメ激減」の報が載る。20年前に比して20%、10%に減ったとか。だがウチの周辺では、実に多くの雀を見る。しかも二度も迷えるヒナに遭遇だ。本当のところは、どうなのだろうか。


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(28)参考資料一覧 [江戸生艶気蒲焼]

kyodentukue_1.jpgkyoudentukueku_1.jpg 最後に『江戸生艶気蒲焼』シリーズの参考資料一覧。それだけでつまらないので浅草寺・奥山の山東京伝「机塚」を紹介。京伝没の翌年に・弟の京山が建立。京伝は子供時分からの机をずっと使ってい、机と同じように自分もガタがきたと詠った歌が刻まれている。「耳もそこねあしもくじけてもろともに世にふる机まれも老いたり」

 197年を経て風化した文字をたどたどしく探れば「耳毛楚古弥(耳もそこね)あしもくし計て(足も挫けて)〇〇〇〇 世丹ふ流机(世にふる机)な禮毛(なれも)老多理(老いたり)」。と判読。「耳」は樹皮部を残した自然木風合いの部分。「なれ=汝、おまえ」。「〇〇~=もろとも」だが、完全摩耗で読み切れぬ。

 この京伝机塚は、哀しくも駐車スペースにあり、車二台を置いて同時期の歌舞伎狂言作者・並木五瓶の句碑「月花乃多ハみ(たわみ)古ゝろや雪の竹」がある。古文書を習い始めると、句碑などの字が読みたくなってきます。

 <参考書一覧> 日本古典文学全集(小学館)『黄表紙・川柳・狂歌』(浜田義一郎校注)、日本古典文学大系59(岩波書店)『黄表紙・洒落本集』(水野稔校注)、小池藤五郎『山東京伝』、小池正胤『反骨者 大田南畝と山東京伝』、佐藤至子『山東京伝』、旺文社『古語辞典』、田中優子『江戸の恋』、森銑三『著作集』第一巻、早大図書館データ『通言総籬』、近代デジタルライブラリーと「新潟大学・古文書・古籍コレクションデータ」で「新内節正本」、国会図書館デジタル化資料『志やれ染手拭合』、小池正胤校注・解説『「むだ」と「うがち」の江戸絵本』、興津要『大江戸商売ばなし』。併せて「大田南畝」関連書と、模写しつつ同時代の浮世絵関連書を多数読んだ。「古語辞典」は『江戸生艶気蒲焼』からの出典・用例が多く、ひもとくのが楽しかった。

 ひらがな中心の黄表紙だったので、次は漢字くずし字交じりの洒落本、大田南畝『甲駅新話』を読んでみようかしらと思っているが~。


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(27)最終章。浮名と夫婦になる [江戸生艶気蒲焼]

kabayakiend1_1.jpgゑん二郎ハ、ちやうどかんどう(丁度勘当)の日のべきれ(切れ)けれバ、こりごり(懲り懲り)としてうちへかへりてミれバ、ゆこう(衣桁)ニミめぐりにてはがれ(三囲にて剥がれ)たる小袖かけてあるゆへ、ふしぎにおもうおりから、一ま(間)よりおや弥二ゑもん、ばんとう候兵衛たちいで、いけんする。ゑん二郎ははじめてよの中をあきらめ、ほんとうのひととなり、うきなもおとこのわるいもふせう(不承)して、ほかへゆくきもなく、ふう婦となり。もとよりしんだい(身代)ニふそくもなく、すへはんじやう(末繁盛)ニさかへ、しかし一生うきなのたちおさめ二、今までの事をくさぞうし(草双紙)にしてせけんにひろめたく、京でんをたのミて、世上のうわきびとをきやうくん(教訓)しける。

弥二右衛門「わかきときハけつき(血気)いまださたまらす、いま(戒)しむる事いろいろありといふを志らぬか。すべてあんじがこうずるとミなこうしたものだ。おそろしきどろぼうとまでミをやつせし、われわれがくふうのきやうげん(我々が工夫の狂言)。いごハきつとたしなミおれ。きのすけやわるい志あん(喜之介や悪い志庵)とも、もうつきあふまいか。そちばかりでハない、よの中二だいぶかういうこゝろいきのものがあるて」 艶二郎「こゝでやきもちをやかれてハ大なんぎだから、めかけもどこぞへかた付ませふ」 浮名「わたしは大きにかぜをひきました」

 「ゆこう=衣桁」だが、あたしが子供時分には「いこう」と言っていた。「あきらめ=諦め」ではなくて、「明(あき)らむ」で見きわめ、明らかにする。「ふせう=不肖」ではなく「不承=ふしやう」で、我慢すること。(古語辞典)

 オチはこの事を京伝に頼んで草双紙に書いてもらって、世の浮気者の教訓にするというくだり。十九、二十歳の艶二郎の妾が四十路の女で、夫婦になった浮名もかなりの大年増とみた。まぁそんなこたぁ~どうでもいい。これにて山東京伝『江戸生艶気蒲焼』完読。明日にでも参考資料一覧を記して終わります。


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(26)素っ裸の艶二郎と浮名 [江戸生艶気蒲焼]

hadaka_1.jpg仇気やゑん二郎 浮名やうきな 道行興鮫肌

乁朝に色をして夕に死とも可なりとハ、さてもうハき(浮気)なことのハ(言の葉)ぞ。それハろんご(論語)のかたいもじ、これハぶんご(豊後・節)のやわらかな、はだとはだか(肌と裸)のふたりして、むすびしひも(紐)をひとりして、と(解)くにとかれぬうたがひハ、ふしん(普請・不審)の土手のたかミから、とんとおちなバ名やたゝん。どこの女郎しゆ(衆)かしらミひも(虱紐)、むすぶのかミ(結びの神)もあちらむかさん志よ、じやうゆのやきずるめ(醤油の焼きスルメ)ぴんとひぞるも、今ハはや、むかしとなりし中の丁、そと八もんじ(外八文字)もこぐなれバ、うち七もんじ(内七文字)ニたどりゆく。

なミだにまぢる水ばな(涙に混じる水洟)に、ぬらさんそで(袖)ハもたぬゆへ、下たのおびをぞ志ぼりける。身に志ミわたるこちのかぜ(東風)に、とりはだだち(鳥肌立ち)し此素肌。とのごのかほ(殿御の顔)ハうすずミ(薄墨)にかくたまづさ(玉章)とミるかり(雁)に、たより(便り)きかんとかくふミ(書く文)の、かなでかなてこすそもよふ(裾模様)。ゆかりのいろも七ツやの、なになかれたるすミだがわ(名に流れたる隅田川)。たがいにむりをいをざき(五百崎)の、かねハ四ツ目や長命寺。きミにハむねをあくる日の、まだ四ツ過のひぢりめん(緋縮緬)。ふんどしなふがきはるの日の、日高のてらにあらずして、はだかのてやいいそぎ行引三重。「うしハねがいからはなをとふす(牛は願いから鼻を通す)」と。ゑん二郎がわるいあんじの志んぢう(心中)。此とき世上へぱつとうきなたち(浮名立ち)、志ぶうちハのゑにまでかいてだしけり。

艶二郎「おれハほんのすいきやう(酔狂)でした事だからでぜひがないが、そちハさぞさむかろう。せけんの道行ハきものをきてさいごのばへ行が、こちらのハはだかでうちへ道行とハ、大きなうらはらだ。ひちりめん(緋縮緬)のふんどしがこゝではへたのもおかしいおかしい」 浮名「ほんのまきぞへでなんぎさ」  

  『江戸生艶気蒲焼』を代表する絵。この絵を何度も目にしてきたが、実際に文を筆写、絵を模写でグンと身近になった。身ぐるみ剥がされた裸の二人。土手の向こうに三囲神社の鳥居上部が見え(模写は省略だが、土手の右に描かれている)、艶二郎のふんどしのながいことよ。「緋縮緬のふんどしが、こゝで映へたもおかしい」と、それでも覚めた台詞の艶二郎。カラー筆ペンで赤く塗ってみた。

 冒頭の「乁朝に色をして夕に死とも可なり」は孔子の教え・論語の漢文「朝聞道。夕死可矣=朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」。その意は「ことわざ辞典」で、朝に人の道を悟れバ、夕に死んだとしても後悔なし。つまり答えは、そう簡単に得られるものじゃないという教え。「矣」が読めず。(イ)で確認断定の意で、読まなくてもいいらしい。

 「二人して結びし紐を~」は伊勢物語の一節。「とんとおちなば~」も豊後節の一節とか。この辺は勉強不足、無知識で、充分な鑑賞とは参らぬ。「しらみ紐=虱をとる紐」は「結びの神もしらん」の洒落だそうな。不勉強と謙虚に言ったが、当時は教養として読むべき本が決まってい、かつ少なく、これは狂歌もそうなんだが、それらのもじりの洒落ゆえにクスッとわらえたのだろうに。今日は情報が多過ぎて、なかなかそこまでに至らぬ。あたしの文学体験だって、そもそもは翻訳の古典世界文学全集、現代世界文学全集だったのだから。お手上げは勘弁していただこう。

 「醤油の焼ずるめ、ぴんとひぞる(乾反る)も~」。この辺の下世話文句ならグッと親しみが湧いてくる。スルメが反るようにすねたり怒ったりすること。「外八文字=花魁の足運び」。「七ツ屋=質屋」。ちなみに京伝は深川の質屋の息子だった。「五百崎=向島の古称」と校注にあった。「鐘は四ツ目や長命寺」。長命寺といえば門前の「桜もち」だが、何度か墨堤散策をしたが、その度に休みだったり売れ切れで、未だいただけない。

 「長命寺」の時の鐘がが出てくれば「長命丸」も出てくる。これは両国米沢町(東日本橋の薬研堀)の媚薬・秘具(張形=帆柱など)販売の四ツ目屋が売り出して大人気になった「長命丸」。陰茎に塗る強精薬というより勃起持続の淫薬で「江戸のバイアグラ」。四ツ目屋は古今亭志ん生の「鈴ふり」のまくらにも出てくる。「虱紐」は芝金杉通りの鍋屋源兵衛の店が売り出した虱除けの薬を染み込ませた紐。「虱除けの紐=鍋谷紐」。ちなみに馬琴が売っていたのは「奇応丸」。

 「四ッ過ぎの緋縮緬」とは何ぞや。古語辞典で「四つ=午前十時」で昼前ゆえまだ古びていないの意。浮名が身請けされてまだ十時。これまた出典は当箸より。「日高の寺にあらずして裸の手合い~」はひだか・はだかの語呂合わせ。日高の寺は道成寺。「三重」は校注で浄瑠璃終末部の三味線の手とか。京伝は絵を習い始める前に長唄、三味線を習っていた。「牛は願いから鼻を通す」は、自分から望んで苦しみや災難をうけるたとえ(ことわざ辞典)。以上、浄瑠璃を真似た文なのだろう。さて、残すは最後の一頁だけ。


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(25)身ぐるみ剥がされて [江戸生艶気蒲焼]

oihagi_1.jpgさいごのば(場)も、いき(粋)なぱつとしたところとの事にて、三めぐりのどて(三囲の土手)ときめ、よがふけてハきミがわるいから、よいのうちのつもりにて、ゑん二郎につとめたるちやや・ふなやど・たいこまつしや・げいしや(茶屋・舟宿・太鼓末社・芸者)ども、だいだいこう(太々講)のおくりのやうニ、はかまはおり(袴羽織)にて、大川ばしまでおくり申(もうし)、たゞのやくし(多田の薬師)のあたりにて、ミなミな(皆々)にわかれ、 ゑん二郎ㇵ日ごろのねがいかないしと、こゝろうれしく道行をしてゆき、こゝこそよきさいごば(良き最期場)と、はくおきのわきざし(箔置の脇差)をぬいて、すでにこふよとミへ、なむあミだびつといふをあいづニ、いなむら(稲叢)のかげより、くろしやふぞくのどろぼう(黒装束の泥棒)二人あらわれいで、ふたりをまつぱだかにしてはぎとる。

泥棒「わいらハどふで志ぬものだから、おいらが、かいしやく(介錯)してやろう」 艶二郎「これこれ、はやまるまい。われわれハしぬための志んぢう(心中)でハない。ここへとめて(留め手)がでるはづだ。どふまちがつたか志らん。きものハミんなあげましやうから、いのちハおたすけ・おたすけ。泥棒「此いご(以後)こんなおもいつきハせまいか・せまいか」 艶二郎「もうこれにこりぬ事ハございません」 浮名「どふで、こんなことゝおもいんした」

 「三めぐりのどて」は三囲神社脇の土手。ここの景色は先日、自転車で訪ねたので<新宿発ポタリング>で後日記す。「太鼓末社」は校注で「太鼓持ち」。「太々講」は仲間でお金を積み立て合って、籤当たりの人が伊勢参りをすること(古語辞典)。子供時分に祖母は近所(町内)のオバさんらと「無尽講」をしていた。今はあたしのマンション住民でも名を知らぬ方が多い。「~講」も昭和中頃に死語になったか。「大川ばし=吾妻橋」。「多田の薬師」は吾妻橋東詰より川下の現・東駒形にあった東江寺。昭和になって現・葛飾東金町に移っている。

 艶二郎らは吉原をに抜け出た後は、舟で吾妻橋、さらに川下の東駒形辺りで送りの皆と別れて、今度は川上の三囲神社に向かって歩いたのだろう。下ったり上ったりして、三囲神社の土手でコトに及ぼうとして、本当の泥棒に襲われる。「もうこれにこりぬ事はござりません」は否定のダブル表現。文章はひらがなのくずし字を漢字変換すれば、充分に意がわかる。さて、この泥棒らは艶二郎が仕組んだ輩ではなく~。(模写にも慣れてカラー筆ぺんまで使い始めました)


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(24)二階から道行・身請け [江戸生艶気蒲焼]

sinjyu_1.jpgうきなハたとへうそ志んぢうニても、くわいぶんわるい(外聞悪い)と、とんだふしやうち(不承知)なりしが、此あん(案)じを志ゆび(首尾)よくつとめたあとハ、すいたおとことそわせてやろうと、ゆらのすけ(由良之助)がいふやうなせいふにて、よふよふとく志ん(得心)させ、此あききやうげん(此秋狂言)にハ、ゑん二郎がむ利息にて、金もとをするやくそく(金元をする約束)にて、ざもと(座元)をたのミ、さくら田にいゝつけて、此ことをじやうるり(浄瑠璃)につくらせ、たちかた(立方)ハ門の介とろこう(路光)にて、ぶたいでさせるつもり。はたきそうな志ばゐなり。もとよりすなをに、身うけしてハいろおとこ(色男)でないと、かけおち(駆け落ち)のぶんにて、れんじ(檽子)をこハして、はしごをかけ、ニかいから身うけする。

内しやう(内証)でハ「どふで身うけなされた女郎ゆへ、おこゝろまかせ二なさるがいゝと、れんじ(檽子)のつくろい代ハ二百両でまけてあけませう」とよくしん(欲心)をぞ申しける。 わかいもの共ハ御しうぎ(祝儀)をちやくぶくして、にげたあとで、ほうぼうへいゝふらせとのいゝつけ也。 内側から「おあぶなふござります。御しづかにおにげなさりませ」 艶二郎「二かいからめぐすりとハきいたが、身うけとハ、これがはじめてじや」

 この頃の心中未遂は、日本橋南詰広場で三日間晒された。外聞最悪なり。「案じ」①考え、工夫、計画(江戸生艶気蒲焼)。②心配、気苦労(浮世風呂)と古語辞典に用例・出典が記されている。古語辞典をひけば、江戸文学は概ねわかるってこと。「由良之助」は忠臣蔵での大石内蔵助モデルで、遊女に言った台詞から。「桜田」は狂言(歌舞伎)作家の桜田治助。ちなみに桜田治助と狂言作家の双璧だった並木五瓶の句碑が、浅草寺裏の京伝の机塚の隣にある。艶二郎が金主になって市川門之助、瀬川菊之丞出演の芝居を興行させるという大見得。

「れんじ=櫺子、連子」。窓などに設けた格子。またその窓。「はたきそう」は「叩き=損失」で失敗しそう。「内証」は古語辞典に多数意あり。ここでは主人の居間・帳場。「ちやくぼく=ちゃくふくの転」と古語辞典にあり。「どふで」も「どうせ」の転だろう。最後の「二階から目薬」の諺が出てくるが、この諺はいつの時代からあったのだろうか。話の内容は心中、道行、身請けのゴチャ混ぜ吉原脱出劇。


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(23)遊びが過ぎた嘘心中 [江戸生艶気蒲焼]

sinjyucyakusyoku_1.jpgゑん二郎いよいよのりがきて、かれこれとするうち、七十五日の日ぎりがきれ、うちかたよりハ、かんどうをゆるさんとまい日のさいそくなれど、いまだうわきをしたりねバ、志んるい中のとりなしにて、廿日の日のべをねがひ、どふしてもしんぢう(心中)ほどうわきなものハあるまいと。てまへハいのちをすてるきなれども、それでハうきながふしやうちゆへ、うそしんぢうのつもりにて、さきへきのすけと志あん(喜之介と志庵)をやつておき、なむあみだぶつといふをあいづニ、とめさせるちうもん(注文)にて、まづうきなを千五百両にて身うけをし、しんぢうの道ぐたて(道具立て)をかひあつめる。ついの小そでのもようにハ(対の小袖の模様には)、かたになかてこすそにハいかり(肩に金てこ、袖には碇)、志ちにおゐてもながれのミ(質においても流れの身)というこか(古歌)のこゝろをまなばれたり。これも中屋とやまざきのもうけものなり。

 ふたりがじせいのほつく(二人が辞世の発句)ハ、すりもの(摺物)ニして中の丁へくばらせる。 志庵「花らんがかいたはすのゑを大ぼうしよ(奉書)へからずり(空摺り)とハ、いゝおほしめしつきだ」 喜之介「わきざしハはくおき(脇差は箔置)ニあつらへました」

 絵は艶二郎、志庵、喜之介、髪結い、そして浮名と二人の禿の七人が、嘘心中の小道具揃えの準備中。数珠、小田原提灯、蛇の目傘、毛氈、揃いの小袖、箔置の脇差~。模写が大変にて四人の上半身のみ。

 「いよいよノリがきて」。こんな言い回しは江戸時代からあったとは。「ゆるさん=許さない」ではなく、推量・意志・当然の「む」が「ん」になっての「許さん」だろうか。「肩に金てこ、裾に碇」は当時流行った歌らしい。ここまで重くすれば、質入れしても流れないの意。ちなみに京伝は質屋の息子だった。あたしも若い時分に、やっと買ったブロニカ+交換レンズ(6×6のカメラ)を流したことがある。質屋へ行くのは毎回辛かったが、かかぁは若い頃を振り返って「貧乏も愉しかった」と言ってくれる。

 「花らん=花藍」は京伝の絵の師、北尾重政の俳号。師は絵の他に俳諧、狂歌、書家のマルチアーティスト。京伝も師を受け継いだのだろう。「はす(蓮)のゑ」は追悼花、一蓮托生がらみと校注にあり。「ほうしよ=奉書」は高級和紙。「からずり=空摺り」は顔料なしで凹凸だけの贅沢摺り。「はくおき=箔置」で、銀箔を貼った竹光。他には難しい言葉なし。

 さて、遊女の心中といえば、おおむね男が入れあげた挙句に「羽抜け鳥」「手振り編み笠」となり、遊女も「身上がり」させての共倒れ。死ぬ他にない状況に追い込まれてのことだが、この光景はなんとも贅沢な遊び。遠足に行くみたいにはしゃいでいる。


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江戸野菜弁当で食ふ五月かな [散歩日和]

tougarasimesi_1.jpgtougarasiben_1.jpg 昨日は「みどりの日」。新宿御苑生まれ「内藤とうがらし」を使った江戸野菜弁当を同苑で販売するってぇんで出かけた。題して「新宿内藤とうがらしめし」。おしながきに内藤とうがらし汁の茶飯、内藤とうがらし甘酢漬け、葉とうがらし伽羅煮、亀戸大根の葉海水炒め、亀戸大根のお揚げ煮、伝統小松菜の胡椒浸し、檜原村まいたけ天麩羅、野菜のチップス(紫いも、薩摩芋、南瓜、人参、隠元豆)、常盤軒の厚揚玉子。御苑の芝生の木陰でいただいた。

 家では昨年、7Fベランダで「内藤とうがらし」を数度にわたって大収穫したので、今年は伊豆大島の超辛「アオト」の種(昨年の赤く乾燥したニつの実をほぐしつつ)を蒔き、先日に三十ほどが発芽したばかり。御苑内で「内藤とうがらし弁当」の乙な味を愉しんだ後は、即売場で300円で買った江戸野菜「練馬産・早稲田みょうがたけ」(みょうがの根茎を暗所で栽培)を、夕餉の味噌汁(あぶらげ+茗荷たけ)、玉子綴じで食し、シャキシャキの新食感を大いに愉しんだ。

 ブログは目下、山東京伝『江戸生艶気蒲焼』で吉原花魁の身請け・道行の最終場面になってくるので、次の遊び~大田南畝『甲駅新話』(安永四年・1775年刊、内藤新宿の女郎遊び)原文を読み始めている。頭ん中も「内藤新宿」で染まりつつあります。

 <コメント返信> O'Charaqueさん、お久しぶり。風の吹くまま、気の向くまま、気楽に生きております。遊び三昧で、改めて「隠居っていいなぁ」です。 隠居後は「大島暮し」と思っていたのですが、東京から離れられません。「おちゃらく」さんのホームページも拝見させていただきます。★あのぅ、自分のブログなのにコメントすると「画像認識出来ませんでした」で返信できず。できるようになるまで、しばし、ここに記します。


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(22)江戸のイケメンは地紙売り [江戸生艶気蒲焼]

jikamiuri_1.jpgゑん二郎はのぞミのとふり、かんどう(勘当)をうけけれども、はゝのかたより、金ㇵ入用次第ニおくるゆへ、何ふそくなけれども、なんぞうわきなしやうばい(浮気な商売)をしてミたく、いろ男のするしやうばいㇵぢかミうり(地紙売り)だろうと、まだなつ(夏)もこぬにじかミうりとでかけ、一日ニあるいて大キにあしへ豆をでかし、これニハこりこり(懲り懲り)とする。此時、大キなすいきやうもの(酔狂者)だと、よほどうきな立けり。

女「オヤ、とばゑ(鳥羽絵)のやうなおほのひとがとふる。ミんな、きてミなせい」 艶二郎「そとをあるくと、日にやけるであやまる。こまつたものだ、またほれたそふだ。いろおとこもうるさいぞ」

 「ぢかミうり=地紙売り」。夏に扇の地紙を売る小商い。扇型に切った新しい紙を折って扇に貼った。色男が絵のような恰好(若衆姿、頭を被った手拭の端を口に含んで、地紙を肩に担いで)で売り歩いたそうな。馬琴の『燕石雑誌』に「昔ありて今はなきもの」と記されているそうだから、馬琴の時代にはもう姿を消していたか。興津要『大江戸商売ばなし』に川柳が紹介されていた。「地紙売り親爺に会って横に切れ」「地紙売り母に逢うのも垣根越し」「勘当が許りて地紙を売り残し」。勘当された道楽息子がやる商売と決まっていたらしい。

 「とば絵=鳥羽絵」。当時の漫画・戯画。ここでは「漫画のような顔の人が通るよぅ」と水茶屋の娘が騒ぐが、本人は「また惚れられた」と思っている。

 ひらがな中心に飽きて、そろそろ漢字のくずし字に移りたいが、『江戸生艶気蒲焼』も最後の盛り上がり。終わりまで頑張りましょう。最近は「くずし字」筆写より、絵の模写の方が愉しくなってきた。


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(21)芸者に跣参りをさせる [江戸生艶気蒲焼]

hadasimairi_1.jpgやげんぼり(薬研堀)のなあるげいしや七八人、ゑん二郎ニやとわれ、かんどう(雇われ勘当)のゆ(許)りるよふ二と、あさくさのくわんのん(浅草の観音)へはだしまいり(跣参り)をする。なるほど、はだしまいりといふやつが、大かたㇵ、うわきなもの也。 芸者A「ゑゝかげんになぐつて、はやくしまわをねへ」 芸者B「十どまいりくらいでいゝのさ」

 「薬研堀」は現・東日本橋辺り。両国橋西詰=柳橋の南側で今は「薬研堀不動尊」がビルの狭間に建っている(写真下)が、当時は料理屋が多く、多くの芸者が住んでいた艶っぽい町だったらしい。「ゆりるよふに=許りるように」で、「許(ゆ)」の活用<り・り・る・るる・るれ・りよ>。「はだしまいり=跣参り」。「なぐつて=殴る、擲る=投げやりにする、念をいれない」(古語辞典をひくと、出典元『江戸生艶気蒲焼』がかなりある)

 絵は三人の芸者の裸足参り姿。石畳の足許に銀杏の葉が落ちていて、季節は秋。芸者の後ろは楊枝の柳屋。確か「浅草奥山銀杏の木の下の楊枝の柳屋のお藤」は看板娘。「蔦屋およし」「笠森お仙」と共に浮世絵に描かれたいる。

 もう一つ注目は、芸者の「おはしょり」。裾引き着物で跣参りだから、芸者は思い切り「おはしょり」をとって、腰下辺りに腰紐(赤色に塗った)で止めている点。これが現・着物の「おはしょり」の原型だろう。こんなことに気付いたも、あたしは若い時分にH社とA社の「着付け教室」の教科書を作ったことがあってのこと。

yagenbori_1.jpg 余談。渡辺保『東洲斎写楽』では、大田南畝が始めて各氏に延々書き継がれてきた『浮世絵類考』の、斎藤月岑が突如「写楽は俗称・斎藤十郎兵衛、居・江戸八丁堀に住す。阿波侯の能役者なり」と増補する以前の、文政四年の風山本「~東洲斎と号す俗称金治。やけん堀不動尊通りに住す」の篠田金次(治)が写楽だと記していた。金治は旗本の息子。実家騒動、放蕩、家出、漂白、食客、そして俳諧、狂歌、地誌、台本、作詞、滑稽本、合巻、読本、人情本作者で、絵も描いた超マルチ人間とあった。もうひとつ、これまたどうでもいいことだが、同著は昭和62年刊で、付録に現・法政大総長の田中優子が著者と対談していた。ショートヘアの若い助教授時代の写真が載っていた。あたし、江戸文学(文化)の田中優子先生のファンなんです。


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(20)艶二郎、憧れの勘当へ [江戸生艶気蒲焼]

kandou_1.jpgゑん二郎せけんのうわさ(世間の噂)するをきくに、金持ゆへミなよく(欲)でするといふことをきゝ、きうニ(急に)かねもちがいやニなり、どふぞかんどう(勘当)をうけたくおもひ、両しんニねがいけれども、ひとりむすこのことゆへ、けつしてならねども、よふよふはゝ(母)のとりなし二て、七十八日が間のかんどうにて、日ぎりが切ㇾると、早々うちへひきとるとの事也。 

父「のぞミとあるから、ぜひがない。はやくでゝうせろ」 番頭「これㇵわかだんなのおぼしめし、志か(然)るべうぞんじませぬ」 艶二郎「ねがいのとふり、御かんどうとや、ありがたやありがたや。四百四びやう(病)のやまい(病)より、かねもちほどつらいものㇵないのさ。かわい男ㇵなぜ金持じややら」

 「然るべう存じませぬ=最もとは思えない」。「四百四病(しひゃくしびょう)の病より~」は「人の病は四百四病あるそうだが、それより貧ほどつらいものはない」の諺を、貧を金持ちに変えた台詞。絵は部屋の中に艶二郎、両親、番頭が描かれているが、ここでは両親のみを複写した。

 文が短く終わったので、先日読んだ高橋克彦『だましゑ歌麿』が面白かったので記す。田沼意次に代わって老中になった松平定信「寛政の改革」によって、蔦重が身代半減、京伝が「五十日の手鎖の刑」になったが、深川を襲った高波被害に乗じて歌麿の妻「おりよ」が殺された。松平定信、その忠臣の鬼平、南北の奉行所に対して歌麿、北斎、蔦重、そして主人公の同心らが体制に挑むという大スケールの時代小説。長編だが面白くて一気読了した。

 同作の評判が良かったのだろう、著者はここでの登場人物で、力の抜けた『おこう紅絵暦』『春朗合わせ鏡』などのシリーズを書いたが、それらは軽く過ぎてつまらん。また山東京伝が主人公の『京伝怪異帖』もお粗末。二度手にしたが二度とも前半で放り投げた。


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