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連休は古本市から江戸の旅 [読書・言葉備忘録]

furuhoniti_1.jpg 隠居は毎日が休みゆえ、混雑するGWは家で過ごすが賢いだろう。さて、高田馬場の古本街でも歩きましょうか、いや、どこぞで古本市でもやっていないかしら。池袋西口広場で「古本市」開催中。そう、去年も行ったっけ。探していた小学館刊の日本古典文学全集の『洒落本・滑稽本・人情本』と、岩波書店刊の日本古典文学全集の『黄表紙・洒落本集』を500円と300円で入手。

 小学館刊には大田南畝が「馬糞中咲菖蒲」署名で書いた『甲駅新話』収録。新字体・現代語訳のみで落胆したが、早大図書館のデータベースで「原本」が公開されてい、全頁プリントアウト。他に山東京伝の三作、式亭三馬作などを収録。岩波書店刊には山東京伝『総籬』など収録。これも原本がデータベースで公開されてい、付き合わせて読むと愉しそう。

IMG_5631_1.JPG 江戸・明治初期の和綴じの超安三冊も入手。『開化日用・文證大成・下之巻』。原田道義編輯。ネット販売千円を200円で入手。江戸末期頃の文章例文集。これも国立国会図書館でデジタル公開されていた。二冊目は明治十三年刊『女子消息文範(上)』(東京書肆刊・小原燕子著)明治初期無検定教科書。ネット販売5000円なるも200円で入手。「何でこんない安いの」と訊けば「裏表紙がねぇからしょうがねぇんだ」の返事。これも「近代デジタルライブラリー」で公開されていた。

 三冊目は『児読古状揃証註』。天保四年刊の木版刷り和本。これは現在、復刻電子書籍で原本・現代語訳が出てい、その宣伝文に~「古文書初心者。江戸文化に触れたいかた、書道で草書体・変体仮名を勉強される方にお薦め」とあった。これも大学公開データがあって「画像を許可なく他に転載・使用は禁止」と囲い込んでいるが、原本1000円であたしも所蔵なり。

 勉強ばかりでは疲れるので、目の保養に「浮世絵」本を五冊4000円ほど購う。最後は部屋の壁に貼ろうと大判の江戸切絵図「大久保編」を700円で買った。貧乏隠居なりの愉しいゴールデンウィークになりそう。


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今年こそ子育て成るや烏の巣 [私の探鳥記]

karasu1_1.jpg 毎年、巣を作る度に「巣落とし」されるカラス。昨年は営巣する辺りの欅の木々の枝をことごとく切り落された。かくも毎年繰り広げられる人とカラスの闘い。だがヤツラは決して懲りぬ。めげぬ。

 今年も何処からか「針金カラーハンガー」を集め出した。今どき「針金ハンガー」を使うお宅も少ないだろうに、何処から運んで来るや。昨年枝打ちされ、新しい枝と葉が伸び始めた天辺下での営巣。また「巣落とし」されようと思っていたが~。

 今年のカラスは実に賢く巧妙だった。木の下から見上げて、巣が見えぬ絶妙の位置。とりわけ感心は、春の枝葉の茂り具合に準じた巣作りペースで、巣が完成するに従って、巣は見事に隠された。同時に抱卵か。慌ただしく巣作りしていた二羽のカラスは、ぷつっと姿を消した。もうカラスに注意する人は誰もいない・・・。

 だがマンション七階から見下ろすあたしの眼は誤魔化せぬ。強風が吹いて若い枝葉が揺れ流れた瞬間に望遠レンズのシャッターを切った。針金ハンガーや太い枝に支えられた上に、鉢状の見事な産座が出来てい、♀らしきカラスが籠っていた。ブルーの瞬膜と嘴(写真)、また尾羽を突き出したカットが撮れた。

 カラスは嫌いも、あたしは町(行政)にチクらぬゆえに、今年のカラスはなんとか無事に孵化・子育てに至るやもしれん。巣の周りの枝葉はますます繁ろう。強風で枝葉がよほど大きく揺れ流れぬ限り、あたしにも垣間見ることならず。問題はこれからの子育て時期に、親カラスが再び頻繁に餌運びをするだろうが、そこで如何に住民チョックが入らぬよう静かにコトを展開できるかだろう。


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(19)ぶたれて悦ぶ艶二郎 [江戸生艶気蒲焼]

nagurareru_1.jpgゑん二郎、志はゐをミて(芝居を観て)、とかくいろ男といふものㇵ、ぶたれるものとおもひ、志きりニぶたれたくなり、じまわりのきおひ(地回りの競い)を、ひとりまえへ(一人前)三両つゝにて、四五人たのミ、中の丁の人高い所にてぶたれる徒もりにて、ちやや(茶屋)の二かいニㇵ(二階には)藤兵へ(衛)をやとゐおきて、めりやすをうたわせ、ミだれたかミ(乱れた髪)をうきなにすかせるつもり(浮名に梳かせる積り)にて、さかやき(月代)へㇵせいたい(青黛)をぬり、あげやまち(揚屋町)のぎんだし(銀出し)にて、さつとミつかミ(水髪)にゆひ、たぶさをつかむと、ぢきにばらばらとほどけるよふにして、ぶたれけるが、ついぶちところわるく、かたいき(片息)ニなつて、かミ(髪)すき所でㇵなく、きつけよはりよ(気付けよ鍼よ)とさわぎて、よふよふきがつきけり。此時、よつぽどばかものだといふうきな(浮名)すこしばかりたちけり。

地回り「うぬがやふないゝ男がちらつくと、女郎衆があだついてならぬゆへ、おいらもちつとやきもちのすじ(焼餅の筋)だ」といふせりふㇵ、こつちからちうもん(注文)でいわせるなり。 地回り「きりおとしから、ばちがあたるといふばだ」 艶二郎「そのにぎりこぶしが、三分つゝについている。ちといたくてもよいから、ずいぶんミへのよいやうニたのむたのむ」

 「うぬら=己等」で「うぬ=きさま、おまえ、てめえ」。「じまわり=地廻り」は昭和世代でも通用する。「きおひ=競い」で競い肌・勇み肌の略だろう。「人高い=人が多く集まっている」(古語辞典)。「ちやや=茶屋=引手茶屋」。「藤兵衛=めりやす巧者の萩江藤兵衛」。「みだれ髪を女に梳かせ~」の文句は「めりやす+芝居」にあるそうな。 

 「せいたい=青黛」。役者が月代を青くするのに使う顔料。「揚屋町の銀出し」は妓楼・揚屋跡の町名で、ここの商屋や茶屋で売っている「銀出し=頭髪用水油」。「水髪=水でなでつけた髪」。「たぶさ=もとどり=髻」は髪を束ねたところ。「かたいき=片息=絶え絶えの苦しそうな息」。「あだついて=浮気っぽくなる、心が浮つく」。「きりおとし=切落=歌舞伎の平土間最前の大衆席」。「ばちがあたるといふばだ=二枚目を殴る役者に客席からそうヤジが飛ぶ場」。江戸言葉、吉原言葉、芝居言葉がたくさん出てきた。

 ネット調べをしていたら『江戸生艶気蒲焼』が国立劇場で平成三年に上演されていると知った。三幕五場で、主演は澤村宗十郎。荻江藤兵衛を六代目片岡十蔵が演じていた。さて、どんな舞台だったか。 


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ローズマリー青紫がつひに咲き [花と昆虫]

mary1_1.jpg 北斎の「ベロ藍」、シロバナタンポポの「白」、カタバミの「黄」の次は「青紫」。早春にメジロが遊ぶベランダのローズマリーは、白にほんの少し紫がかった花だが、ベランダ反対側にもう一本のローズマリー在り。これは大島ロッジ庭角に植えた種で、濃い青紫色の花が咲く。それを東京で挿し木から大きくした。だが七、八年も経るも「花付き」悪し。

 それがどうしたことでしょう、今春、突如として満開なり。それだけの年月が必要だったか、何かの刺激があったかで、まぁ見事な青紫花の満開。思わず歓声と拍手。さて、これから、この木にどんな昆虫や鳥が集いますか。

 歳を経て身体ボロボロも「ド近眼が球体遠視化」で、眼がちょっと良くなりました。ローズマリーも幾年を経てやっと満開。年月の経緯も、少しは良い事が有るってことでしょうか。

 ★幾年も経ての変化を記しましたが、比して先日撮った多くの野草花を記す間もなく、早や季節は変わって藤が、アヤメが、ツツジが咲きだしています。季節の変化に「花のブログ」も追いつかぬ。追記:4月25日に戸山公園の藤棚が満開で「キムネクマバチ」が幾匹も飛び群れていた。


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長らへて花の蜂やら蠅を知り [花と昆虫]

komaruhanabati_1.jpg 窓辺で本を読んでいた夕暮れ間近のこと、ふとベランダを見ると「クマバチ」らしきが飛んでいた。もう高速シャッターも切れぬ頼りない光。ISO感度を3200に上げ、絞り3.5で、どうにか1/200のシャッターを確保して撮った。以前に撮った「クマバチ」は、初夏の昼で1/2000のシャッターで羽搏きを止めて撮れたが、今回は飛翔中の全カット大ブレ。羽を休めた瞬間の一枚だけにピントが合った。

 モニターで見ると、お馴染みの「キムネクマバチ(黄胸熊蜂)」とは違って、胸ではなく尾端が赤褐色で、毛はボサボサ。調べてみると「コマルハナバチ(小丸花蜂)」らしい。ツツジが咲く頃によく眼にするハナバチだそうな。うむ、眼下を見れば確かに歩道際のツツジも咲き始めていた。

kuroobihanabae1_1.jpg そして眼を手すりに向ければ「蠅」が止まっていた。これもマクロレンズで撮った。ちょっとオシャレな白地に黒のストライプ。「クロオビハナバエ(黒帯花蠅)」らしい。複眼が離れているのが♀で、これは接しているので♂らしい。

 「長らへて ~冬の蠅」の其角、子規、荷風句を幾度か記したが、ここでやっと「春の蠅」も詠めた。


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(18)手水場の吊り手洗器と手拭い [江戸生艶気蒲焼]

uwaki15_1.jpgゑん二郎ㇵやくしや(役者)・女郎などのこゝろいき(心意気)にて、ゑこういんとうりやう(回向院道了)のかいてう(開帳)へ、ちやうちん(提灯)をほうのう(奉納)せんとおもひ、うきなとてまへ(浮名と手前)のもん(紋)をひよくもん(比翼紋)ニつけさせるちうもん(注文)にて、きたのきの介うけあいて(北里喜之介請け合いて)、たまちのてうちんや(田町の提灯屋)へあつらへける。中や(屋)へㇵちやうづてぬぐい(手水手拭)をあつらへ、これもひよくもん(比翼紋)にて、志よ志よ(諸所)のはやりがミ(神)へずいぶんめニたつやうにほうのう(目に立つように奉納)する。これもよつぽどのいたこと(痛事=出費)也。もちろん何のぐわん(願)もなけれども、このやうニ奉納ものㇵ、なるほどうわきなさた(沙汰)なり。

喜之介「とんだいそぐ(急ぐ)ね。ほねㇵ志げほね(骨はしげ骨)にして、かわ(側)ゝほんぬり(本塗り=漆塗り)ニ、志んちう(真鍮)のかなもの(金物)、いくらかゝつてもいゝから、ずいぶんりつぱに志てへの」 提灯屋「ちときう(急)ニㇵできかねます。このあいだㇵよしわらのさくらのちやうちん(吉原の桜の提灯)をいたしております」

 「回向院道了の開帳」校注では、両国東詰めに建つ回向院の道kyoudenekoin.jpg了尊の出開帳~と素気ない。ここはやはり回向院は京伝の菩提寺と一言あるべきだろう。本来は回向院奥の墓地内にあったが、今は「鼠小僧の墓」の近くに京伝(岩瀬醒)及び山東京山(弟)や岩瀬氏之墓が移されている。(写真)ちなみに京伝没は文化十三年(1816)、56歳だった。大田南畝の追悼狂歌は「山東の嵐に後の破れ傘身は骨董の骨とこそなれ」。戒名は「弁誉智海京伝信士」。

 「比翼紋」も校注では、あっさりと「男女の紋を重ねたもの」とあるが、「相愛男女の」と艶っぽく説明していただきたい。「田町」は港区芝の田町ではなく、吉原の日本堤下(山谷堀と浅草の間辺り)のあった町。正月心中のカワラ版を読んでのあたしの句「元旦にひよくれんりのなれのはて」。

 「手水手拭」は懐かしい。あたしらの子供時分には、便所脇の廊下外に「吊り手洗い器(バケツの下の棒を上に突っつくと水が出て手を洗った)」があり、手拭いも吊るされていたっけ。あれは水洗便所が普及して姿を消した。「ほねㇵ志げほね=骨はしげ骨」の「しげ=繁=密」にしての意だろう。


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オッタチかタチかも知れぬカタガミぞ [花と昆虫]

ottatikatabami_1.jpg シロバナタンポポの次は黄色の小花「カタバミ」。写真に撮った後でネット植物図鑑で調べるが、カタバミ属に間違いはないも、その先がわからぬ。悩んでいるうちに、子供時分に地を這うクローバーに似た葉、黄色い花、その小さな「さや」を潰して中の白い実をほじくり出して遊んだことを思い出した。それが「カタバミ=片喰、傍食」。古語辞典では「酢漿草(かたばみ)=難読です」。「酢漿草の花」は夏の季語。別称「酸物草・酸漿草(すいものぐさ))、酸味草」など。酸味があるらしい。

 だが、この季節ここに咲く「カタガミ」は、クイッと茎が伸びて黄色の花が咲いている。「タチカタバミ」か、帰化植物の「オッタチカタバミ」か。観察が甘かったゆえ写真からは判断出来ぬ。

 芭蕉門下の山本荷兮(かけい)句「蔵の陰かたばみの花めずらしや」。村上鬼城句「かたばみに同じ色なる蝶々かな」。俳句はよくわからぬが、両句とも「どうってこたぁねへ」。野草マニアでもないから、この黄色の花が「オッタチ」でも「タチ」でも、ただの「カタバミ」でもどうでもいいような気がした。間違いのないのはカタバミ科カタバミ属。まぁ、時にはこんな「いい加減さ」も必要かな、と思った。


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(17)妬くほどに箪笥に貯まる晴れ着かな [江戸生艶気蒲焼]

uwaki14_1.jpgゑん二郎ㇵ五六日ぶりにてうちへかゑりけれバ、まちまうけたるめかけ(待ち設けるたる妾)、こゝぞほうこう(奉公)の志ところと、かねてふくしておゐたぞんぶんをやきかける(予て=前もって、復して=反復しておいた存分=思い通り充分に妬きかける)。

妾「ほんニおとこといふものㇵ、なぜそんなにきつよいもんだねへ。それほどニほれられるがいやなら、そんないゝおとこにうまれ徒かねへがいゝのさ。また女郎も女郎だ。ひとの大じのおとこをとめておきくさって。又おまへさんもおまへさんだ。あい、そうなすつたがいゝのさと、まづこゝぎりニ志やせう」

艶二郎「はづかしいこつたが、うまれてからはじめてやきもちをやかれてミる。どふもいへねへこゝろもちだ。もちつとやいてくれたら、てめへがねだつた八丈と志まちりめん(縞縮緬)をかつてやらふ。もちつとたのむたのむ」

 絵は妬き餅に涙する妾と、まんざらではないと頭を掻く艶二郎。妾の後ろに立派な箪笥があって、それを模写した。墨の上に白線をひいた感があるも、木版ではどんな処理をするのだろう。あたしはガッシュ(不透明水彩)で白線をひいてみた。箪笥横には「起請さし」。ここは志ん朝の「三枚起請」を聴きたい。「まちまうけたる=待ち設けたる」。「設け=用意、準備、したく」。立派な箪笥は妬くたびにご褒美の着物が貯まる寸法。

 話は逸れるが、桜田常久『画狂人 北斎』(昭和48年刊)にこんな記述(概要)あり。~女性を美しく描いた歌麿はデブで、鼻が大きく開き、眉と眼のあいだが遠い醜男。彼が描く美人とはうらはらに、彼自身は腕も手も毛むくじゃらの男だった」。そう云えば京伝、北斎像はあるも、歌麿は自分の顔を誰にも描かせていない。作者はその歌麿の容姿をどうして知ったのだろう。(追記:栄之が「歌麿之像」を描いている。見たら、老いた相撲取りのようだった。桜田常久もこの絵を見たのだろう


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江戸っ子は白いタンポポ見て魂げ [花と昆虫]

sirobanatanpopo1_1.jpg 北斎の「ベロ藍」の次は「白」。花々が一斉に咲く春爛漫ゆえ、犬散歩(戸山公園)にカメラを持参した。咲いている花を次々に撮り調べ、知らぬ野草名を十ばかり知った。身近な足許のことなのに、この歳なのに知らぬことばっかり。

 まずは「エッ、白いタンポポかよ」と驚いた。四つ咲いていた。調べれば「シロバナタンポポ(白花蒲公英)」。日本在来種。子供の頃から、タンポポと云えば黄色タンポポ。大人になってから、それは外来種の「セイヨウタンポポ」で、総苞片が反り返っていないのが日本在来種「ニホンタンポポ(カントウタンポポ)」と知った。鳥撮りに行った郊外公園で「二ホンタンポポ保護域」なる囲いがあった。日本在来種は保護育成される希少種らしい。

nippontanpop1_1.jpg 九州や中国地方でタンポポと云えば、この「シロバナタンポポ」のことらしい。関東は、ここ新宿・戸山公園になぜに「シロバナタンポポ」が四つ咲いていたのだろうか。ここに根付いたには、如何なる経緯があってのことだろう。日本在来種なら「ここでもっと増殖しておくれ」と願いつつ周囲をよく見れば、総苞片が反っていない「二ホンタンポポ」(写真左)もあるではないか。

 シロバナタンポポ発見をはじめ、様々な野草を覚えて、その日はなんだかとても愉しい気分になった。だが何ということでしょうか。二日後の犬散歩で同ポイントに行けば、その跡形まったくなし。誰かが根こそぎ採り去ったのだろうか。あぁ、思わずそこにへたり込んでしまった。


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(16)吉原の桜尽くしに犬も咲き [江戸生艶気蒲焼]

uwaki13_1.jpgゑん二郎ㇵいへざくら(家桜)をおもひだし「かへるさつげるいぬざくら(犬桜)、くぜつ(口舌)のつぼミほころびし、そでをかぶろ(禿)が力ぐさ、ひかれてゆくやうしろかミ(後ろ髪)、こころつよくも(心強くも)きりがやつ(桐ケ谷)」といふもんくより、ほかのきやく(他の客)人のつかまるを、うらやま志きことニおもひ(羨ましき事に思い)、何の事もないに志んぞうやかぶろ(新造や禿)をたのミ、こつちから大門につけてゐて徒らまり、はおり(羽織)ぐらいㇵ、ひつさけてもだいぢない(ひっ裂けても大事ない)といふやくそく(約束)にて、ひきづられてゆく。 志んぞう、かぶろ(新造、禿)ハ、人形をもらふやくそく(約束)にて、むたをいゝいゝ、ひきずつてゆく。 艶二郎「これさ、まア、はなしてくれろ、こうひき徒られてゆく所ハ、とんだぐわいぶん(外聞)がいゝ」

 東京の桜はソメイヨシノが散り、今は八重桜へ。ここでは吉原の桜尽くし。「家桜」は、吉原仲之町に桜が植えられた(春に植え込み&撤去)ことを詠った「助六所縁江戸桜」挿入の関東節『桜尽くし』の一説とか。ここでは「縁語」のお勉強。「縁語=和歌の関連語・連想語を用いる修辞技法の、その関連語のこと」。「桜」の縁語「つぼみ・ほころび・力ぐさ」が使われている。「かへるさ」の「さ」は接尾語か。移動する動詞の終止形に付いて「~する時」「~する場合」の意の名詞を作る。

「犬桜=落葉高木。瓶を洗うブラシ状に咲く桜。見劣りするゆえの名」。芭蕉句に「風吹けば尾細うなる犬桜」。ブラシ状の花房が風が吹いて犬の尾のように細くなる、と詠っている。吉原からの朝帰り時に犬が啼く~から犬桜にかけている。小石川植物園に天まで届きそうな二本の木に「イヌザクラ」の札あり。今頃は咲いている頃かも。「きりがやつ=桐ケ谷」は一枝に一重と八重の桜が咲く種。

 「口舌=苦情、文句、口論。近世では男女の痴話げんか」(古語辞典)。「力ぐさ=力と頼むもの」。古語辞典には「力立て」など「力」熟語が多い。吉原の遊びはわからないが、ここでは「帰っちゃイヤイヤと引き止められるモテ男の気分になりたく、新造や禿に〝人形を買ってあげるから〟と引き止める演技をさせている。絵がゴチャゴチャしているので、こんな絵で省略した。


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「神奈川沖浪裏」を模写して~ [北斎・広重・江漢他]

hokusainami2_1.jpg 山東京伝『江戸生艶気蒲焼』の文字・絵を筆写していたら、葛飾北斎『富獄三十六景・神奈川沖浪裏』の模写遊びをしたくなった。『富獄三十六景』は天保二年(1831)刊で、なんと北斎七十二歳。素晴らしき高齢者ぞ。

 表題は「三十六景」だが、実際は錦絵四十六枚。全刊行が天保四年頃らしい。その構図は大胆にして斬新。西洋絵画にジャポニスム旋風ぞ。北斎は定規やコンパス(ぶんまわし)を使って、多くの対角線・円・三角などを駆使して構図を決めたとか。また色は「ベロリン藍」(プルシャンブルー)。プロイセン王国(現ドイツ北部からポーランド西部)の首都ベルリンで発明された顔料。落款は「北斎政為筆」。

 実は浮世絵の浪には思い入れがある。三年前に小石川植物園温室で「ムニンタツナミソウ(無人立浪草)」をマクロレンズで撮った。「あぁ、名の通り、浮世絵で描かれる立浪(波頭)の形だ」。調べれば、それは通称「雪村浪」。室町末期の雪村周継が描き始めで、さっそく雪村評伝本を読んだ。そして詠んだのが「雪村の波頭の花や砕け咲き」

 その後、伊豆大島で荒れた浪を高速シャッターで撮った。モニターで確認すれば、そこに「雪村浪」の形があった。絵師の観察力の鋭さを再認識した。「雪村の波頭をカメラ止めてをり」。

 大波と富士山の図なら、伊豆大島でも絶景あり。磯に激突する大波越しに海越えの富士が見える。だが北斎の絵は岸からではなく、沖の波間に望む富士。こんな怖い海に老人・北斎が身を置くワケもなく、着想と想像力・構成力ゆえ。★遠景(無限遠)の富士山、浪裏近景の遠近法の中心点。そこから生まれるダイナミズム。複数の中心。北斎は、統一した全体を描くために発明された西洋の遠近法を逆手にとって、多くの中心点間の力学に応用した。★価値観の流動化が人間の足もとを不安定にし、それがかえって自己の存在確立への意思を目覚めさせた。★北斎は、存在論的な人間主体の把握が希薄な日本の伝統のなかで自己の確立を試みつつ、その自己の<死>を超えるための芸術を志した。そこには、覚めた陶酔に浸る静かな救いがあった。(★印は中村英樹『北斎の万華鏡』)

 一度は自分も描いてみたかった「浮世絵の浪=雪村浪」。かくして「ゼブラ筆ペン+コピー用紙+ガッシュ白」で舟抜きで「神奈川沖浪裏」を模写。昼日中にこんな遊びができる隠居も愉しいが、死ぬ(九十歳)まで画と闘い抜いた北斎は凄い・凄い。


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(15)花魁の床入り~デジタル和印 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki12_1.jpg艶二郎「てまへがおれがとこへくると、あつちらの大じん(実は志庵)はやけをおこして、やりてやまわし(遣手や廻し)をよんで、こゞとをいふうちのこゝろもち(小言を云う内の心持ち)のよさㇵ、どうやすくふんでも五六百両がものはあるさ」 浮名「ほんニぬしはすいきやうなひと(酔狂な人)でござりんす」 志庵「おれがやくもつらいやくだ(俺の役も辛い役だ)。ざしきのうちㇵ大じんで(座敷のうちは大尽で)、とこがおさまる(床が収まる)と、まきへのたばこぼん(蒔絵の煙草盆)とおればかり。これもとせい(渡世)だとおもへバはらもたゝぬが、五ッふとん・にしきのよぎ(錦の夜着)でねるだけ、ぢにならねへ」

 金を使うが冷たくされる大尽の怒り・愚痴を、遣手婆さんや男の雑用係りからモテ男が伝え聞く~。そんな仕込みをして〝あぁ、いい気分だ〟とほざいている。「ふんでも=値踏みをしても」。「床が収まる=酒宴が終わって床入りへ」。「まきへ=まきゑ(古語辞典)」。上級遊女の部屋には「蒔絵」の煙草盆があるそうな。だが肝心の志庵の部屋には女郎はいず、艶二郎の部屋に行っていない。「五つふとん=三つ蒲団をオーバーに言っている」。「ぢ=痔ではなく=持=引き分け、あいこ」。 

 この辺は吉原を知らぬゆえ、洒落もピンと来ない。絵は五つ蒲団、蒔絵の煙草盆の部屋に志庵がいて、手洗い場の隣の煎餅蒲団の部屋に艶二郎。その間に乱れた衣裳の廓芸者・おゑんが部屋を移動中の構図。ここは、いやらしっぽく模写してみた。ここから先は「和」の世界だろう。

 浮世絵に「和印」「和本」は欠かせぬ。真面目に生きてきたあたしは、その意がわからなかった。「和=わらい本、わらい絵、わいせつの〝わ〟」。古書業やテキヤさんの間では春本・春画の隠語。合図は指で輪を作るそうな。今は昼間でも歌舞伎町を歩いていると、お兄さんが隠居のあたしにも「DVD、DVD」とささやいてくる。「和」もデジタル映像の時代となりにけり。


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北斎の謎の深さや朧闇 [北斎・広重・江漢他]

seikyouji_1.jpg 元浅草・誓教寺の北斎お墓を訪ねた後、高橋克彦『北斎殺人事件』を読めば、とんでもない記述に出くわした。会話文だがその部分をかいつまんで紹介する。

 ~昭和のはじめに北斎の死体が完全な形で発見されたことがあるんだよ。(略:それを書いた)筆者は美術評論じゃ名前の通った秦秀雄さんときた。(略:秦夫人の実家は誓教寺で、夫人は父の住職から聞いた話だとして)~それは昭和五、六年のこと、誓教寺が市区改正のために墓地縮小を迫られ、古い墓の移動が行なわた。北斎の墓を掘り起こしたら、分厚い箱にぶち当たった。箱の中にすき透った水が腐敗を防いだのか、まるで生きている姿そのまま。白髪交じりの髪を結った長身の老人の姿が~

 だが、その遺体は他の墓の骨と一緒に埋め戻された、と続く。小説ゆえ信用できる話じゃないが、まずは同寺縁起から。浅草新寺町に651坪を拝領とあり。「江戸切絵図」を見れば、この一画はお寺ばかりで、現在は民家・商店もあるゆえに、当然ながら市区改正の墓地縮小があったことはうかがえる。中村秀樹『北斎万華鏡』にはこうある。~北斎の父祖の墓らしい「仏清墓」とある青味がかった墓石の前で、住職は立ちどまって付け加えた。「北斎の遺体は、この墓石の下に埋葬され、後に二度改葬されました。骨は太く、大きな人だったという、改葬のときの言い伝えがあります」。箱の中に水があって腐食をまぬがれた~なぁんて話はない。次に「秦秀雄」を検索すれば実在人物なり。井伏鱒二『珍品堂主人』のモデル。魯山人と共に高級会員制料亭を経営するもの、後に彼と喧嘩別れ。『珍品堂主人』は映画化されて主人夫妻は森繁久彌・乙羽信子が演じた。

hokusaieisen_1.jpg 別サイトで「~鑑定団」の中島誠三郎が、若い時分に秦秀雄から偽物を掴まされて「いい勉強をした」とかがあり。石川県「久谷青窯」の秦燿一氏の母が秦秀雄夫人というサイトもあり。また別サイトでは、北斎の遺体は「白髪交じりの髪を結んで~」とあるが、死亡時には禿ていたから、これは ガセネタだという文にも出くわした。

 改めて誓教寺の北斎像を見れば「まぁ、禿てはいるが後頭部に白髪がありそう」な気もする。天保13年、83歳の自画像は、白髪振り乱した容貌なり。次に有名な渓斎英泉描く北斎像を見た。「為一(いいつ)翁」(文政3年の61歳から82歳まで使用の画号)と辞世句「人魂で行きさんしや夏のはら」が書かれていた。北斎はすっかり禿ていた。英泉は北斎より「可候(かこう)」の名を譲り受けている関係ゆえ通夜も葬儀にも出席しただろから、この絵の姿は信用していいだろうと思った。遺体はすっかり禿ていたんだ。

 だが、ここで壁にぶち当たった。英泉が亡くなったのは北斎死去の前年・嘉永元年7月で、北斎没は翌2年の4月18日。浅草聖天町遍照院寺内の仮寓で死去し、元浅草の誓教寺に埋葬。さて、辞世句まで書き込まれた英泉の絵は、いつ描かれたのだろうか。あたしは北斎のミステリーに迷い込んでしまった。エエッ、北斎は「隠密」だったと!(高橋克彦『北斎殺人事件』)。そして中村英樹『北斎万華鏡』には~ ある人は北斎を空想的に隠密に仕立てたけれども、考えてみれば、スパイは何かのために自己を犠牲にするもので、北斎はあくまで自己の成り立ちの根拠にこだわるから、隠密説を受け入れることはできない。 


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年に二度ツリーと朝陽の逢瀬かな [東京スカイツリー]

47sun1_1.jpg 昨日の朝、朝陽が東京スカイツリーの真上に昇った。朝陽とスカイツリーが同じ位置に来るのは、新宿・大久保から見て4月上旬と9月上旬の二度だけ。そして、この写真を撮る頃に、ツバメの初認もある。まもなくベランダから日々見事なツバメ返しの飛翔が愉しめる。昨年はかかぁが先にツバメを見た。さて、今年はどっちは先に初認や。
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(14)筆で細く真っ直ぐに [江戸生艶気蒲焼]

uwaki11_1.jpg艶二郎もとよりうわきもの(浮気者)なれバ、ふか川志な川新しゆく(深川品川新宿)ハいふニおよハず(言うに及ばず)、はしばし(端々)までかつて(買って)ミたれども。うきな(浮名)ほどて(手)のある女郎ハないとおもひしが、ひととふり(一通り)でハおもしろからずとおもへども、たゞまぶ(間夫)にならふといつてㇵ、むこふがふせうち(向こうが不承知)ゆへ、わるゐ志あんが名あてにて、うきなをあけづめに、じぶんㇵ志んぞうかい(新造買い)にてあい(逢い)、おもいれかね(思入れ金)をつかつて、此ふぢゆう(不自由)なところがにつぽん(日本)だとうれしがりけり。

 まぁ、二十歳かそこらで深川品川新宿は言うに及ばす~と、艶二郎は大変な放蕩息子。金にあかせて江戸中の岡場所で遊んできたらしい。性豪とも云えようが、残念ながらモテたことがない。

 「一通り=普通」。「名あて=表向きは志庵の名で」。「あげづめ=揚げ続け」。つまり志庵の名で浮名を連日独占させて~。自分は通といわれる「新造買=姉女郎の客が重なった場合に、少女遊女が性関係なしで時間つなぎの相手をする」をして~。「思入れ金=思い入れがたくさん含んだ金」を使って、この不自由さが「日本=日本一」だとエツに入っている。馬鹿の骨頂です。

 絵は手水鉢横に貼り紙あり「火の用心 一 居続御客不仕候(いづつけお客つかまらずそうろう=いたしません) 一 表二階ヨリ往来ニ芥捨不可候(ゴミすてるべからずそうろう)」。読み方はこれでいいだろうか。

 解説に「京伝は線画もさすが」の文あり。あたしも頑張ってみた。どうでぇ。この筆線の細さ、真っ直ぐさ。実は昔むかし、箸を握るように面相筆とガラス棒を持ち、直定規の溝にガラス棒の玉を滑らせつつ線をひく練習をやったことがあるんです。今はガラス棒も溝付き定規も持っていないが、ゼブラ筆ペンとサインペンを握り、平行線をひく三角定規に沿って線をひいた。これで高齢者諸症状による線の乱れも消えた。もう一度言わせてもらおう。「どうでぇ」


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ひと魂でゆく気散じや夏の原 [北斎・広重・江漢他]

hokusaihaka1_1.jpghokusai2_1.jpg 表題句は葛飾北斎の辞世句。「気散(きさん)じ」=気晴らし、気楽、のんき。気散じ者はのんき者、楽天家(古語辞典)。まぁ「死ぬなんざぁ、そんなもんさ」の達観した心意気と察した。

 荷風~大田南畝~山東京伝、そして馬琴、写楽を読めば、次は当然ながら北斎になる。かくして北斎の画集二冊に、諏訪春雄『北斎の謎を解く』、永田生慈『葛飾北斎』、そして高橋克彦「北斎殺人事件』、桜田常久『画狂人北斎』(昭和48年に東邦出版社刊)を読む。桜田著は評伝小説で、実に良く書けている。どんな作家かしら。あら、昭和15(1940)年下半期受賞の芥川賞作家だった。読んだ後は、いつものこと掃墓と相成候。

 時は春爛漫。あちこちの桜見物を兼ねて自転車で元浅草・誓教寺の北斎のお墓を訪ねた。大久保から自転車ルートマップで約9キロ、36分。上野駅から東に延びる仏具屋通り(浅草通り)の南側。清洲橋通りの白鴎高校近く。この辺は寺院が多く昔は「新寺町」。誓教寺も拝領地が651坪という広さだったらしい。今はビル街にお寺が多く、また懐かしい二階建て三軒長屋が幾棟も残っていた。

 誓教寺には写真の「葛飾北斎翁」胸像、生誕200年記念碑、そして庫裏脇を抜けた奥の小さな墓地にお墓があった。胸像は平成2年建立。何歳頃の北斎か? どの絵を参考にしたや? 記念碑はネット調べで「日本美術年鑑」収録の美術界年史がヒットし、こうあった。まず昭和35年(1960)に全国各地で「生誕200年展」が行われ、9月24日に誓教寺で記念碑除幕式。碑は縦1米、横85糎の赤ミカゲ石。富士をかたどった白ミカゲ石の板をはめこみ、北斎の二字を彫り込んだもの、とあり。

hokusai200_1.jpg この二字は北斎の落款(署名)から採ったかと画集を見たが、落款とは別書体。誰かの揮毫だとしたら味気ないこと。お墓は2007年のブログを拝見したら写真の覆堂なし。墓石正面に「画狂老人卍」と川村氏。右側面に表題の辞世句が彫られているそうだが、今は朽ちかけた堂で側面を見ることはならず。墓石の痛みは戦災ゆえだろうか。

 傍に東京都教育庁のポストカードあり。こう記されていた。幕末まで北斎の父と合葬されていましたが、現在の墓は、後に他家の養子となっていた次男の崎十郎(徒目付=隠密活動もした)が建てたとも、その娘の白井多知が建てたとも言われています。ということは、この墓の奥に北斎(川村家)親族のお墓があるのかしら。

 なお生誕地・本所の割下水の南側が「北斎通り」で、その近くに目下「すみだ北斎美術館」が建造中らしい。約17億円で関連資料を収集。総工事費が膨らんで来年完成が2016年完成にずれ込んでいるとか。


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(13)二十歳の艶二郎に四十路の妾 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki10_1.jpgゑん二郎、女郎かいにてゝ(買いに出て)も、うちへかへつてやきもちをやくものがなけれㇵ(家に帰って焼餅を妬く者がなければ)はり合がないと、きも入をたのミ(肝入を頼み)、やきもちさへよくやけば、きりやうㇵのぞまぬ(器量は望まぬ)といふちうもんにて、四十ぢかい女を志たく(支度)が金二百両にてめかけ(妾)にかかゑる。

艶二郎「きよねんのはる、なかず(中洲)でかつたぢこく(地獄)でㇵねへか志らん。志やうべんぐみ(小便組)などゝいふところㇵごめんだよ」 女「わたしをおかゝへなされましても、大かた女郎かいやいろごとで、わたしをおかまいㇵなされますまい」と、もう、すこしてミせ(手見せ)にやきかける。

 冒頭に艶二郎は「としもつづや(十九)はたち(二十)といふころなし」とあったが、それで四十路ぢかい女を妾にかゝゑる」とある。とんだ年増好きらしい。

「きも入=周旋屋」。校注に支度金二百両は異例の額とある。「中洲」は佐藤春夫『美しい町』、小山内薫『大川端』、永井荷風の「中洲病院」で、その地の歴史調べ&自転車で幾度も訪ねている。中洲には「舟まんじゅう」まであった「淫ら島」。ピンキリだったらしい。

「小便組=妾奉公で、わざと小便を漏らして解雇され、支度金をせしめる悪い手口」らしい。絵には「小便無用 花山書」あり。校注は「此のところ小便無用花の山」の其角句のしゃれとあった。よくわからないので興津要『江戸川柳散歩』を見る。~金屏風に紀伊国屋文左衛門が悪戯書きをした。これじゃ洒落にならぬと、其角が「花の山」と加えて句にした。この逸話から川柳に「小便に花を咲かせる俳諧師」があるとか。「手見せ」は手練手管の腕前を見せる。

 ややマンネリ気味ゆえ、今回は模写も頑張った。と云うのも実は抽斗から「ホルベイン・ガッシュ(不透明水彩)12色」が出てきたので、「白」を使ってみたくなってのこと。買った覚えがないんだが、さて~。


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長らへて又新たなる老い眼鏡 [暮らしの手帖]

megane2_1.jpg 眼鏡のコーティング膜がボロボロで、眼鏡を新調した。フレームが二万三千円、レンズが一万六千円。高いが、ひと頃から比べると、ずいぶん安くなった。検眼をすると、度数を下げてより良く見えた。「うひっ、眼が良くなっている」 右目は白内障手術済で無調整人工レンズになっているが、眼球全体が遠視方向に向かって近眼が少し直っているらしい。老いてフィジカルが良くなるとは、なんだかうれしい。

 没にした眼鏡は、二〇〇七年の白内障手術後に作ったもの。五万円を超えただろうか。使用レンズが決定した後で、ド近眼の渦巻きレンズを薄くするに従って、加えてUVカットだ、傷が付きにくい、埃が付きにくい処理などのオプションを選ぶ度に、値がドンドンと上る。眼鏡屋は油断ならねぇ。

 その後に白内障手術後の経緯と眼鏡の按配が悪く、二〇〇九年にパソコン・ディスプレイと手元用の遠近レンズ、つまり「デスクワーク用眼鏡」を作った。これは手持ちのサングラス・フレームにレンズを嵌めてもらって三万円。眼鏡屋は「仕事用眼鏡も新調しましょう」と云うが、酷くなる一方の左目の白内障手術の方が先のように思っている。

 もっと長らへば、眼も歯も〇〇も共に意識スイッチで自在変化する人工化・・・そんな時代が来るかもしれない。


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(12)吉原の「ありんす言葉」 [江戸生艶気蒲焼]

ukina2_1.jpg ゑん二郎ㇵうきなやのうきな(浮名屋の浮名)といふて(手)のある女郎にきめてとうがとうなから(十が十ながら)ほれられるつもり(惚れられる積り)にて、いつぱいニミへをし、ぢばんのえり(襦袢の襟)ばかりいぢつていて、いろおとこもさてきのつまることなりとおもふ。

 喜之介「大こくやじやアねへか、なんでも女郎衆のそうろくだね」 志庵「モシおいらん、おまへをバ、せけんでとんだて(手)のある女郎だと申ます」 浮名「ちゃ(茶)をいゝなんすな、おがミんす」

 「て=手」は手練手管の手。客扱いがうまい。「とうかとうながら=十が十ながら=初めから終わりまで、すっかり、みんな」。「大黒屋」は吉原検番を創設した大黒屋惣六のこと。女郎の総元締め。「て」の権威の意。日本歴史人物事典にこうある。大黒屋庄六。吉原の検番を創設。烏亭焉馬が彼をモデルに浄瑠璃「碁太平記白石噺」に大福屋惣六の名で妓楼主人として登場させ、のちに大黒屋惣六として演じられた。

 「ちゃをいいなんすな、おがみんす」は吉原の「ありんす言葉」。「ちゃ=茶=茶々を入れる」で「茶々を言いなすな。頼むからやめてください」の意。「ありんす言葉」は全国から集められた女たちが各方言を遣っていたのでは情緒もなかろうと、方言・訛りなしの廓言葉を造ったとか。廓というひとつの言語国を作ったわけで、凄いアイデアです。

 くずし字は濁点が付いたり付かなかったり。江戸以前はまったく濁点なしとか。ゆえに例えば「てゝ」は濁点なしで「てて・手で・出て」で、さて、どれだろうかと頭をひねることになる。

 ここで当時の歴史のお勉強。『江戸生~』は天明五年春の刊だが、天明二年(1782)から西日本・東北から「天明の大飢餓」が始まる。天明三年には浅間山大噴火で東日本にも飢餓が拡大。津軽藩、南部藩、仙台藩だけでも餓死者五十万人とか。米不足は天明七年にピークで、江戸でも米屋や豪商が打ち壊し。百文で一升の白米が買えたが、この年はひと握りの米も買えなくなったとか。この頃、北斎は「春朗改め群馬亭」。歌麿は蔦重の許で修行中か。共に和印(春本)も書かねばとても食ってはゆけない。田沼意次が失脚して松平定信が筆頭老中になると、その和印も描けなくなる。(講談社刊『日本全史』、桜田常久『画狂人 北斎』などを参考)


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