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不思議なり精子が泳ぐイチョウかな [花と昆虫]

icyounome2_1.jpg またエッチっぽい句だな。桜満開と同時に、多くの花や葉の堅い蕾も一斉にほころび出した。写真は銀杏の若苗の葉の芽。昨年、種から発芽した幾本かを拾って鉢植えに。悪戯心でニ本の苗をクルクルと絡めたら、そのまま固まって変わり銀杏になった。そして今春の発芽。さてどの芽を摘んで、どの芽を伸ばしましょう。お爺さんになると、こんな意地悪な遊びをするんですねぇ。

 で昨日、銀杏は精子で受胚と知った。自転車で桜伝いにさまよって「小石川植物園」に辿り着いた。早くも満開の桜に花見客で混雑していたが、大銀杏に石碑と看板あり。石碑には「精子発見六十年記念 昭和三十一年」。看板には「1896(昭和29)年、平瀬作五郎はこの雌の木から採取した若い種子において精子を発見した。それまで種子植物はすべて花粉管が伸長し造卵器に達して受粉するものと思われていたので、この発見は世界の学界に大きな反響を起こした。」

 同植物園には裸子直物のソテツにも「精子が存在することを池野成一郎が発見した」なる看板あり。銀杏と蘇鉄はいったいどのように射精し、精子が雌内にもぐり込むのだろう。春のクエスッチョンです。(ネットでNHK「ミクロワールド」の「精子が泳ぐ イチョウの不思議」映像あり。これを見ると不思議の全てがわかります。)


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(11)京伝、蔦重は吉原案内人 [江戸生艶気蒲焼]

kucyami1_1.jpg 艶二郎、く志やミ(くしゃみ)をするたび、せけん(世間)でおれがうわさ(俺が噂)をするだろうとおもへども、いつこう二(一向に)町内でさへ志らぬゆへ、此うへは女郎かいをはじめてうきな(浮名)をたてんとおもひ、中の丁うハきまつや(松屋)へきたり。わる井志あん、きたりきのすけ(北里喜之介)などかミ(神)に徒(つ)れ、いつぱいに志やれる。

 女「せ川(瀬川)さんとうたひめ(歌姫)さんのうちをききにつかわしましたが、さつき小まつや(松屋)で、このもをミかけましたから、うたひめさんㇵてつきりおわる(悪)うござりませふ」「こびき丁(木挽町)でかうらいや(高麗屋)がぼくが(墨河)さんをするそうでござりますね」

 ★「かミに徒れ」は「神に連れ」・校注で「かみ=素人の太鼓持ち、取り巻き」とあり。さて、素人の太鼓持ちは、落語によく登場の「野幇間(のだいこ)」だろう。首をひねりつつ古語辞典をひけば、幾つもの意のひとつに、遊里語。大尽=大神にかけて、大のつかぬ「神」は取り巻きの意とあり。

 ★「瀬川(おす川)」は松葉屋(松田屋)の実在の名妓。文京(松前志摩守の次男・旗本三千石池田頼完)が五百両で身請けした。また当時の狂歌、戯作者らは大名御曹司、下級武士、町人、妓楼主人、遊女などが狂歌名で共に盛り上がる世界が形成されていた。京伝らの仲間の妓楼・扇屋の主人が墨河夫妻で、そこの名妓が滝川と花扇。彼女らも加藤千蔭の門下。ちなみに狂歌では吉原・大文字屋主人の加保茶元成(かぼちゃのもとなり)が有名で、妻は秋風女房。他に町民では湯屋の元木網(もとのもくあみ)、妻が智恵内子(ちえのないし)。裏長屋の大屋が大屋裏住(おほやうらずみ)、本屋の浜辺黒人、旅籠屋の宿屋飯盛、汁粉屋の鹿都部真顔などなど。

 ◎これは余談だが、いま明石散人『東洲斎写楽はもういない』を読んでいるが、まず始めに「東洲斎」は「トウジウ斎(とうじゅうさい)」と読まれていたと、えらくもったいぶって書いていた。「州」がシウなので「洲」もシウと間違えて読まれている。そして史料より「東洲」がジウと読まれた証拠を提示し「トウジウ斎」。だが狂歌の創始者・唐衣橘洲については触れていない。この名ならフリガナ付き史料もあろうに。「カラゴロモキツシウ」だろう。歴史検証を小賢しい小説仕立て。途中だが読むのをやめよう。

 ★京伝の最初の妻は扇屋の菊園(お菊)。お菊が三十歳で亡くなり、七年後に迎えた二度目の妻が玉屋の玉の井(百合)。ゆえに京伝が記す吉原関連書は常に遊女側に立って書かれているそうな。

 ★「中の丁」は吉原の真ん中を通る道。版元・蔦重も吉原生まれで、大門前に本屋を開いて『吉原細見』(ガイドブック)の成功から江戸の出版界へ。現・吉原跡を歩けば当時の道の名残りあり。また一画がトルコ(特殊浴場)街になっていたりする。

 ★「木挽町で高麗屋が墨河さんをする」は校注で、森田座で四代目・松本幸四郎が、墨河が素人芝居で「工藤」を演じたことから、「工藤」主役の『初暦閙(にぎわい)曽我』を上演ってことだとある。話が彼方此方にバラけたのでここまで。


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水温みこれを最後か鶸いづこ [新宿御苑の野鳥]

kawarahiwa1_1.jpg 向こうのカワラヒワにピントを合わせたら、手前のヒワが突如、翼を広げて鮮やかな黄色を見せてくれた。

 ピンずれの写真を撮ってしまった場合は、よりよい写真を撮るべく現場通いをすればいいが、そこまでの気はない。「あぁ、この冬も新宿御苑のこの池にカワラヒワの群れが来たかぁ」と分かれば、それで充分なんです。

 今までは氷が張ってい、僅かに溶けた所で水を呑んでいたが、水温む季節を迎えて、ヒワ(鶸)らは何処へ旅立って行くのだろう、と詠んだ。ムムッ、「水温む」と「鶸」で季重ね。しかも春と秋の季語。さぁ、どうする・どうする。 水温み池の鳥らも舞台替へ


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(10)艶二郎とパブリシティー [江戸生艶気蒲焼]

yomiuri2_1.jpg このうわさ(噂)、さぞ、せけん(世間)でするだろうとおもひんのほか(思いの他)、となりでさへ志らぬゆへ、はりあいぬけ(張り合い抜け)がして、よミうり(読売)をたのミ、此わけをはんこう(版行)ニをこして、一人まへ一両づつにてやとい、ゑど中をうらせる。

 読売「ひやうばん評判、あたきやのむすこゑん二郎といふいろおとこに、うつくしいげいしや(美しい芸者)がほれてかけこミました。とんだ事とんだ事。ことめいさい(明細)、かミ代はんこうだい(紙代販行代)におよバず。たゞじや、たゞじや」

 窓からの女「なにさ、かたもないことだのさ。ミんなこしらへごとさ。たゞでもよむがめんどうでござんす」

 ここで注目は天明五年(1785)で、マスコミ(読売)露出でPR(public relations)の一手法「パブリシティー(publicity)略してパブ」展開が行われていること。大江戸文化、恐るべしです。

 小生、実は昭和44年頃に某PR会社に勤務。日本のPR会社最初の頃で、入社時に梶山季之が同社によるCM権争奪戦の鮮やかな手際を小説にした『ベラチャスラフスカを盗め』(題名うろ覚え)が発表された頃。入社時に薦められたのが米国で確立のPR理論書。PRは大統領選挙活動より構築されたとあった。同社クライアントには政治家、芸能人、諸企業が名を連ねていた。

 例えば逆境にいる子が首相に手紙。これを読んだ硬派首相が涙する。情にも厚いと訴えたPR演出。同社社長は異業種を結びつけるシステムエンジニアリングをPRに採り入れた展開が得意だった。

 あたしは同社退職後にフリー。PR誌編集やレコード会社の歌手、楽曲のプロモート企画書などをペンダコができるほど書きまくった。艶二郎の依頼があれば、効果抜群の「艶二郎浮名のプロモート計画書」を書いてあげたのにと思った。


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クロッカス僅か十日の健気かな [花と昆虫]

crocus2._1.jpg 歳ぃとってくると、同じ事を何遍も繰り返す。毎年、早春にベランダでクロッカスが咲く。普段は球根が埋められているのを忘れているゆえ、ちょっとうれしい驚きになる。花は十日ももたぬだろう。残るはか細い葉だけ。その命は再び地中に戻る。クロッカスの花を見ると、健気さに駄句をひねりたくなってくる。

 2010年「クロッカス有為転変も春を告ぎ」 ~自分にも世の中も常に事件・変化が起き続けているが、クロッカスはそんなことにお構いなく、決まって早春に花を咲かせてくれる。

 2011年「クロッカス年々萎る我が身かな」 ~球根は地植えのままだから、年々花も葉も小さくなってゆく。老い行く我が身のようだ。

 2012年「クロッカス開いて閉じて幾度ぞ」 ~陽が当たると咲き、夕方に萎む。それを幾度か繰り返すだけで、また命を地中に戻す。花の命の短さよ。

 2013年は猪瀬都知事の『ミカドの肖像』シリーズで、クロッカスの句をアップ出来ず。

 2014年「クロッカス僅か十日の健気かな」 ~ひょっとして誰に愛でられることもなく、僅か十日ほどの開花。そのために一年を頑張っている。健気だなぁ、地道だなぁ。見習わねばと思う。

 駄句続き。うまくならず初心者の域で愉しむ。それが肝心と心得ている。


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(9)雅号、画号、狂歌名、戯作名 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki5_1.jpg かない(家内)の下女どものぞきミて「おらがわかだんな(若旦那)ニほれるとハ、せんけかこりうかゑんしう(千家か古流か遠州)かしらぬがとんだちやしん(茶人)だ」とさゝやく。

 ここでの「茶人」は物好きな変わり者の意だが、あたしの母はお茶が江戸千家、お花が古流のおっ師匠さんだった。戸籍名と俗称名と茶道名と華道名を持ち、名と顔を使い分けてい、子供心に羨ましかった。

 山東京伝の本名は岩瀬で、幼名は甚太郎。十三歳で伝蔵、改め醒(さとる)。戒名は弁誉智海京伝信士。画号は北尾重政に学んで北尾政演(まさのぶ)。狂歌名は身軽織輔。京橋の伝蔵で「京伝」だが、他に者張堂少通通辺人、臍下辺人、王子風車、醒醒斎、兎角亭亀毛、巴山人など。まぁ、江戸前の二枚目だが絵では京伝鼻のように、名も卑下た名が多い。比して昨今の作家は美男次女風名が多い。虚名を使うなら素顔は晒さぬがいいのに。

 おゑん「ミづからと申ハ、そも、よ(寄)るべさだ(定)めぬころひつま(転び妻)、この志んミち(新道)ニすミなれて、ひとのこゝろをうわきにする白ひやうし(拍子)てござんす。かやば(茅場)丁の夕やくし(薬師)で、こちのゑん二郎さんをうゑき(植木)のかげからミそめました。女ぼう(房)ニすることがならずハ、おまんまなとた(炊)いてもおりたいのさ。それもならぬとおつしやれバ、志(死)ぬかくご(覚悟)でござります」などゝちうもんどをり(注文通り)のせりふをならべたてる。

 艶二郎「ハテ、いろおとこといふものハ、どんなことでなんぎ(難儀)を志よふか志れぬものだぞ。もふ十両やらふから、もちつと大きなこへで、となりあたりへきこへるやうニたのむたのむ」

ばんとう(番頭)候兵衛「わかだんなのおかほ(顔)でハ、よもやこふいふ事ハあるまいとおもつたに、コレお女中、かどちがいでハないかの」

 艶二郎がおや弥ニ衛門、たのんだことハ志らず、きのどくニおもひ、いろいろといけんしてかへしける。

 「そも=そもそも」。「よるべ=寄る辺」で頼りとする所・人。古語辞典には「夫また妻をさす」ともあり。夫のいない「ころひつま=転び妻=お金で寝る女」。「白拍子=近世では遊女」。「茅場丁の夕薬師~」は薬師堂の夕方縁日。江戸時代には植木の露店が出て、男女の出会いの場になるほどの大賑わいだったとか。江戸遥かなり。


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春来る狂喜乱舞のメジロかな [新宿御苑の野鳥]

nejiro1_1.jpg 新宿のマンション七階ベランダに、ここ四年にわたってメジロが遊びにくる。三年前が一月十八日から、二年前が二月七日から、昨年が一月十日から、そして今年は一月九日だった。この日からメジロらは新宿御苑の寒桜が満開になる頃まで日々通ってくる。・・はずだったが、二日でパタッと来なくなった。隣のマンションが大規模修繕を始めたせいだろう。

 それが三月に入って、一週間ほど通ってきた。ホットカーペットに寝転び読書の眼を上げると、窓ガラス際に「預かり犬」が日向ぼっこで寝てい、窓外ベランダのローズマリーに番のメジロが遊んでいる図が出現した。

 3月15日、新宿御苑に行った。満開の大寒桜に例年通り十数羽のメジロが群れていた。この可愛いメジロを撮るのが、あたしの春の行事になっている。高速シャッターで連射すると、眼では確認できぬ意外な姿が写っていたりする。昨年は可愛い「懸垂するメジロ」で、今春はこんな写真が撮れた。この写真はちょっとハイキーに処理して「Windows8.1」のデスクトップ映像になっている。


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(8)芸者おゑんに狂言を仕込む [江戸生艶気蒲焼]

uwaki4_1.jpg 絵は芸者・おゑんの家に志庵が頼みごとに来たところ。棚に三味線の箱がある。おゑんは帯締めなしの幅広い帯。わざわざ「踊り子」と記されてい、校注で「橘町・柳橋辺に多かった女芸者の称」。柳橋は神田川が隅田川に合流する辺り。橘町はその南側で現・東日本橋三丁目。当時はそんな色っぽい町だったとは想像し難い。

 ゑん二郎ハやくしや(役者)のうちへ、うつくしきむすめ(美しき娘)などのかけこむを、うわきなことゝうらやましくおもひ(浮気な事と羨ましく思い)、きんじよのひようばんのげいしや(近所の評判の芸者)おゑんといふおどりこ(踊り子)を、五十両にてやとい、かけこませるつもりにて、わるい志あんたのみきたる。志庵「これがたのみの、ともかくも、あやかり申て、ちとしゆつせのすじ(出世の筋)さ」 おゑん「かけこむばかりなら、ずいふんしようちさ」

 役者に夢中の女が、その家に駆け込むという〝狂言〟を仕込んだってこと。小生は隠居するまで音楽業界の片隅で生業ってきた。アイドルや演歌歌手に老若男女が夢中になる姿をイヤというほど見てきたが、自分には芸人に夢中になるって気持ちが微塵もなく、この辺のファン心理ってぇのがどうもわからない。

 さて五十両とは。先日、化政期貨幣の現代換算を勉強したばかり。一両が十二万八千円で、五十両は六百四十万円相当。当時の大工年収の二倍強。この話がいかに馬鹿げているか。

 おゑんを模写するも、うまく描けなかった。描き直せばいいが、基本はくずし字も絵も一発書き。谷峯蔵著『写楽はやっぱり京伝だ』に面白い分析あり。「写楽の病的線描と京伝の心臓疾患」で、写楽の病的線描は第二期に始まり、第三期に顕著になったと指摘。起筆の不安定さ、線の震え、よどみ、結滞。これらは同時期の京伝の心臓疾患と合致すると「写楽=京伝」説の判断材料のひとつにしていた。あたしの模写は筆で絵を描くが初めてに加え、老人性諸病症のデパートの感が否めぬ。

 追記:浮世絵の版下絵を描くには、墨や絵具がにじまぬように、まず紙に膠(にかわ)を水に溶かして明礬(みょうばん)を加えた礬水(どうさ)をひいておく。(宇江佐真理『寂しい写楽』より)


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桃割れて花芯も疼く四手辛夷 [花と昆虫]

sidekobusi1_1.jpg 桃割れ:江戸時代後期より十代の娘が結った髪型・左右に髪を分けて鬢を膨らませる。

 花芯:瀬戸内寂聴が昔、同題の小説を書いた。子宮作家と揶揄されてひと時文壇から干された。

 四手辛夷:シテコブシ。準絶滅危惧種。別称は紅辛夷、姫辛夷、田内桜。「四手」は玉串や注連縄に垂らす紙。花弁が四手のように縮れ気味にビラビラ風に開く。きっとソメイヨシノ開花前に咲きだすだろう。

 生真面目なあたしとしては、ちょっとエロチックな句になってしまった。今日は「春一番」が吹くとか。


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(7)艶二郎と荷風の刺青 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki3_1.jpgゑん(艶)二郎ハまづほりもの(彫り物)がうわきのはじまりなりと、両ほうのうで(腕)、ゆび(指)のまたまで二、三十ほどあてもなきほりもの(彫り物)をし、いたい(痛い)のをこらへて、こゝかいのちだとよろこひけり。

吹き出し風に艶二郎「いろおとこ(色男)ニなるもとんだつらいものだ」

喜之介「中にちときへた(消えた)のもなくてハわるいから、あとでまたきう(灸)をすへやせう」

「バカだねぇ」。笑ってしまった。そう言えば永井荷風も三十歳で、慶應義塾大文学部教授の身でありながら、新橋の芸妓・富松(吉野コウ)と相惚れで、よほど情が昂ぶったのだろう、左の二の腕内側に「こう命」の刺青が彫られた。互いに彫り合うのだろう。後で荷風は「富松は近眼で細字では墨が入れ難く、その字の大きいことよ」と悔やんでいた。荷風は富松の身体のどこに「かふう命」と彫ったや。この辺のことは秋庭太郎著『考証永井荷風』に書かれている。荷風もエッセイ集『冬の蠅』の「きのふの淵」で、富松との出会いと別れを書いている。

刺青と云えば谷崎潤一郎のデビュー作『刺青』も思い出す。荷風が激賞し、谷崎青年は震えるほど喜んだ。谷崎は端からマゾ系変態だった。あたしは生まれ育ちが板橋と北区の境目辺り。子供時分は北区の銭湯、板橋区の銭湯の両方に通っていたが、時に倶利伽羅紋々の職人さんがいたような気がする。


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Windows 8.1と荷風と [暮らしの手帖]

newhp_1.JPG パソコンを新調した。HP製でWindows8.1搭載。在来機内容を新機へ移植するは難しく、息子の手を煩わせた。満足に操作できぬのに新パソコンの隠居爺は、息子には「冬の蠅」だろう。

荷風句に「長らへて~冬の蠅」があったはずとネット検索すれば、自分の記事がヒットした。記事題名が「新パソコン長らへて冬の蠅」。同記事は201010月に「HP製パソコン+三菱20インチモニター」の新体制になった時のもの。約3年半で買い替え。次の買い替えまで生きていられましょうか。

上記記事であたしは、荷風句「長らへてわれもこの世を冬の蠅」を、子規句「うとましや世にながらへて冬の蠅」のもじりと記していた。もう一件ヒットの記事では、…荷風句は其角句「憎まれてながらへる人冬の蠅」が下敷き…と記す半藤一利『其角俳句と江戸の春』の記述を紹介し、加藤郁乎『俳人荷風』の…正しくは「ながらふる人」だろう、の記述も紹介していた。

 それはさておき「Windows7」から「Windows8.1」へ馴染むは、隠居爺には辛い。ついでにプリンターも新調したが、新パソコンとプリンター接続に四苦八苦。さて「8.1」は便利になったのかしら。まず「フォト機能」。今まではキヤノンの画像ソフトばかりだったが、「8.1」の機能で「色・露出・効果」などにトライしてみた。

 

自然光で複写撮影をよくするが、天候次第で絵が青味がかる場合が多い。これをキヤノン・ソフトの「明るさ・コントラスト」などで調整していたが、「8.1」では「露出の調整」「色の調整」「傾きの調整」「詳細の調整」がコントロールバーで変化を見ながら行える。特に「傾きの調整」は画に方眼が現れ、コントロールバーで微細調整ができるのがうれしい。従来は撮影時にファインダーより水平に気を付けていても微妙に傾いていたりするが、この機能でお好みに調整できる。これからは多少アバウトに撮っても大丈夫になった。また「修整」機能で、この写真のモニター下にあったメモをクチュクチュと消してみた。そんなわけで「8.1」の映像ソフトをいじるのが楽しみです。


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(6)遊女の封じ目 [江戸生艶気蒲焼]

 前回の続き文は… ふミ(文)のもんく(文句)にハ、だいぶでんじゆ(伝授)のあることさ。ふうじめ(封じ目)をつけぬと、ゑん(縁)がきれると申やす。ふミのすへ(末)へおさな(幼名)をかくよふになるとむづかしね。

 「文の文句」に校注(浜田義一郎)があって「女の恋の手紙」とあった。古語辞典で「文」をひけば上代では文書、書物、漢学、漢詩など広義だが、近世では「文=恋文」とあった。その「文」には様々な伝授があると言う。そのひとつが「封じ目」。今なら封書の封に「〆」。略字ではなければ「締」、または楕円形のなかに「緘(カン・とじる)」の字を捺印。それも今は姿を消した。

遊女は手紙を巻いた端を折り曲げて糊をつけ「封じ目」に「通う神」とか「五大力」と書いたそうな。「通う神=道祖神」で、恋の文・心が相手に届きますようにの願いがこめられた。「五大力」は京都・醍醐寺の「五大力尊」。歌舞伎や浄瑠璃の「五大力恋緘(こいのふうじめ)」で、芸子・菊子が三味線の裏皮に恋変わりせぬ誓いとして<五大力>と書く場面で…乁いつまで草のいつまでも~と唄い出される「めりやす」が流行ったせいか。

まるで子供の好奇心で、今度は「いつまで草」を知りたくなった。古語辞典では「何時迄草=木蔦(キヅタ)」の異名とあり。大きな木や壁に這い登ってゆく、あの蔦木だ。心変わりせぬはいいが、あんな感じでまとわりつかれたらイヤでございます。また植物書には「マンネングサの別称」。再び古語辞典で「万年草」は高野山や吉野に生える苔とあり。さて、この「めりやす」はどちらの植物をさしているのや。

そして本文末に遊女名ではなく「幼名=幼い時の名」を書くようになると、これは商売抜きの気持ちですよのメッセージ。

  

吹き出しは…艶二郎「とんでもない浮名の立つ仕打が、ありそうふなものだ」

志庵「ひつさきめ(裂き目)にくちべに(口紅)のついてるのハ、いつでもぢもの(地者)のふミでハねへのさ。どねへにじミ(地味)でもミヽ(耳)のわきニまくら(枕)だこのあるのでしゆうばいあがり(商売上がり)ハ、ソレじきにしれやす」

 

校注では、遊女が巻紙を切るに口で濡らして裂くので口紅がつく。それが特有の色気になると説明されていた。今は手紙もメールになって、色恋の情緒もなくなった。 「ぢもの(地者)=素人娘」。「どねへに=どのように」だが、これは江戸弁っぽい。今でも遣われる。「枕だこ」から遊女だとわかるとは恐れ入谷の鬼子母神だ。あたしはキーボード以前の万年筆時代のペンタコが今でも残っている。


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(5)京伝作詞の「めりやす」 [江戸生艶気蒲焼]

uwaki2_1.jpg ゑん二郎ハきん志よ(近所)のどうらくむすこ(道楽息子)きたりきのすけ(北里喜之介)、わるゐ志あん(庵)といふたいこいしや(太鼓医者)なぞとこゝろやすくして、いよいようわきなことをくふうする。

喜之介「まづめりやすといふやつが、うハきにするやつさ こいつを志らねばなりやせん。およそひとの志つた、口ぢかひ(近い)めりやすのぶん、小くちのところを申やしやう」

 

ここから「めりやす」の題名六十余が列挙されるので略。当時は「めりやす」大流行だったか。●「めりやす=萩江節」。語り系新内節より軽い唄。短編長唄。ネット検索で「めりやす」正本へ。それはひらがな・くずし字。二曲ほどを手前勝手解釈の漢字、句読点付きで記してみる。間違いは御承知下され。まずは『あけがらす』から…

 乁たまに逢ふとよ、逢えば短(みじか)、夜に愚痴を言ふまい、飽きられまいと、心で心窘(たしな)めど、好いたるぐわ(側)の味なきや、眠い眠いを擽(こそぐ)り起こし、訊いて下んせ、初不如帰(ほととぎす)、東雲(しのゝめ)近き鐘の音、恋し床(ゆか)しい夏山茂み、黒い羽織を跡から見れば、塒(ねぐら)出て行く明がらす。

 もう一曲。『きゞす』の抜粋を。乁雉子(きゞす)鳴く野辺の若草摘み捨てられて、人の嫁菜といつか、さて、焦がれ焦がるる苦界の舟の~(略)~虫さへも番(つがい)離れぬ揚羽の蝶(てふ)、我々とても二人連れ、粋な同士の中なのに、菜種は蝶の花知らず、蝶は菜種の味知らず。知らず知られぬ仲ならば、浮かれまい物(もの)~

 

meriyasu5_6.jpgこんな感じの内容。抜粋だが、十分に江戸の浮気の表現豊かな情緒がわかろう。佐藤至子著には『通言総籬』に京伝作詞のめりやす「すがほ」が詠われる場面の会話が紹介されているが、肝心の「すがほ」詞の記載がない。京伝作詞、節付けは泰琳(荻江露友)。天明六年六月一日に吉原仲の町の茶屋・長崎屋でお披露目。京伝は子供時分から音曲を習っていたから、作詞はお手のものだったろう。

再び早大図書館のデータ公開『通言総籬』より「すがほ」が唄われる場面(写真左)をくずし字初心者のあたしが読んでみる。「乁水無月も、流れは絶へぬ浮世の岸に、夜舟こぐ手にふり袖の、顔に籬のあとつくほどに、はでな浮名の手習いも、くさめくさめのやるせなく…」(顔に籬の跡が付くほど待ち焦がれる派手な恋修行をすれど、くしゃみするたび噂が気になって切ないよぅ)とでもいう意か。間違いチェックをよろしく。

 

「惚れたはれた」が辛かったら、しゃれた文句に三味の音、粋な歌声の「めりやす」「新内」で身悶えるも恋の味。しかし今は想いが叶わぬといきなり殺傷に及ぶ世になってしまった。


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(4)色恋の情緒は新内で [江戸生艶気蒲焼]

sinnai1_1.jpg最初の絵は、艶二郎が寝そべって本を読んでいる図。読んでいるのは新内節正本の『帰咲名残の命毛(かえりざきなごりのいのちげ)』と『仇比恋の浮橋(あだくらべこいのうきはし)』。艶二郎が<「玉木屋伊太八」や「浮世猪之介」がうらやましいなぁ>と呟いてい、その主人公が上記新内節。

★艶二郎に浮気の夢を膨らませた新内節正本とは。探せば「近代デジタルライブラリー」(写真)や「新潟大学・古文書・古典籍コレクション・デース」に新内節正本『帰咲名残の命毛』があった。当然ながら「くずし字」。しかも寄席文字(ビラ文字、橘流)風で読むも難儀。

『帰咲名残の命毛』は延享4年(1747)の実際の心中未遂事件がモチーフ。津軽藩士の伊太八と吉原遊女・尾上の心中未遂を、武士を町人にして艶っぽく仕上げているそうな。現・日本橋南詰「滝の広場(日本橋川遊覧船の発着場)」が当時は「罪人晒し場」。彼らが最初の「晒し刑」とか。

新内は子供時分にラジオから流れる柳家三亀松の「新内流し」を聴いたうろ覚えがある。「岡本文弥」関連本を数冊読んだ折に、氏の新内カセットも聴いた。今はナマで聴くなら「邦楽公演」だろうが、本来は色街でしっぽり濡れた雰囲気の中で耳にするものだろう。荷風小説を読むと、そんな情緒たっぷりの描写が随所に出て来る。明治、大正には生きていた芸だろうが、今は歌舞伎よりも遠くなってしまった。

 

余談は続く。どんなネット経路かを思い出せぬ(二度と辿りつけぬ)が、懐月堂安度による肉置(ししお)き豊かな年増の、それは見事な極彩肉筆春画を見た。そこで懐月堂(出羽屋源七)を調べれば「江島生島事件」がらみで伊豆大島流刑とかで興味が湧いた。しかも懐月堂安度は英一蝶に私淑。その一蝶もまた三宅島流刑から江戸に戻っている。師弟共に流刑とは驚きなり。さて安度こと源七は、伊豆大島でどんな流人暮らしだったろう。

 そこで時代小説『江島團十郎』を読んだ。著者・早瀬詠一郎はなんと「岡本文弥」弟子で「岡本紋弥」。今では貴重な「新内語り」の一人とかでまた驚いた。新内語り&時代小説作家らしい。彼の時代小説は芸の内幕に詳しい。しかし同小説には残念ながら懐月堂安度は登場せず。そこで流刑史や伊豆大島史などをひもとくことになったのだが、ここは『艶気樺焼』に戻らなくてはいけない。次は「めりやす」…
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(3)仇気屋の艶二郎 [江戸生艶気蒲焼]

 uwaki1_1.jpg本文に入る。…こゝに百万両ぶげん(分限)とよはれ(呼ばれ)たる、あだきや(仇気屋)のひとりむすこをゑん(艶)二郎とて、とし(歳)もつづや(十九)はたち(二十)といふころなりしか。ひん(貧)のやまひ(病)ハく(苦)にならす、ほか(他)のやまい(病)のなかれかしといふミ(身)なれとも、しやうとく(生得)うハきなことをこのミ、しんないぶし(新内節)の正ほん()などをミて、たまきや(玉木屋)伊太八、うきよ猪の介が身のうへをうらやましくおもひ、一生のおもひでに、このやうなうきな(浮名)のたつしうち(仕打ち)もあらば、ゆくゆくハいのちもすてやうと、ばからしき事を心がけ、いのちがけのおもひ付をしける。(画の一部も模写した)

 

●「ぶげん」は分限、ぶんげん。その人の社会的身分、地位、財産等を示す語。身のほど、分際。小池正胤著『反骨者 大田南畝と山東京伝』では、この絵の右側の暖簾にオランダ商館マーク入りを指摘。仇気屋財力を物語ると記す。(左にそのマークを入れておいた)

●「あだきや」は仇気屋。古語辞典では「あだ=徒」で、浮気なさま、心変りのさま、不誠実。「徒気(あだけ)=浮気、好色」「徒徒(あだあだ)しい=誠意がない」。ならば仇より徒が良かろうや。男が「徒気(あだけ)」で、女は「婀娜(あだ)」っぽいがいい。

●「ゑん二郎とて」。「郎」のくずし字は「ら」みたいと覚える。「とて:体言に付いて、~と言って、~と思っての意」。『江戸生艶気樺焼』刊の2年後、天明七年の洒落本『通言総籬(つうげんそうまがき)』で同書の主人公らが再び登場。「艶二郎」は「艶治郎」。「あだきや」はやはり「仇気屋」になっていた。★『通言総籬』は早稲田大学図書館公開のデータベースで読める。そこに「吉原では金持ちの野暮を“艶二郎”と云うほどに『~艶気蒲焼』が流行した」との記述があるそうな(佐藤至子著)。

●「なりしか」の「しか」は「然」。そのように、さようで、このように。●「貧の病は苦にならず、ほかの病のなかれかし」は河東節一説から。●「なかれかし」の「かし」は終助詞で意味を強める語。「さぞかし」の「かし」も同じく意味を強める語。念を押す「なのだ」の意。●「しやうとく=生徳」。生まれつきもっていること。

●「うきなのたつ志うち」。今も売名にこの手を使う芸人あり。「志うち=仕打ち=他人に対する行い、振る舞い、やり方」。●「しける」は「し+ける」。

 絵には吹き出し風に「こういふミ(身)のうへニなつたらさぞおもしろかろう よい月日の下で生れたてやひ(手合い=連中)だ」。次は「新内節」について。


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(2)艶気と“京伝鼻” [江戸生艶気蒲焼]

kyoudenkao_1.jpgedohyousi_1.jpg 題名『江戸生艶気蒲焼(えどうまれうはきのかばやき)』は「うなぎの蒲焼」のもじり。化政期文人の先輩格・平賀源内が「土用の丑の日」に蒲焼を食うことを広めたが、京伝の源内へのリスペクトもあるやも。深読みすれば江戸前の「蒲焼」は美味も、調理前は醜い。粋と野暮を含んでいる(端からオリジナル解釈)。

 

まずは法大総長就任決定を祝して田中優子先生の『江戸の恋~「粋」と「艶気(うわき)」に生きる』(集英社新書)より「艶気」について。…江戸の恋は「好色」と言ったり「浮気=艶気」と言ったりする。それが江戸の恋の、もう一つのいいところである。浮気とはつまり、地に足がついていない、現実世界からはぐれているという意味だ。~略~。(恋が)切ないならばそれもいい。夢が覚めたらそれもまあ、しかたがない。固くてひんやりした地面も、なかなかいいもんだ。それが江戸の恋である。

…フムフム。大田南畝も酔狂から覚めれば下級武士「徒組」。京伝も「手鎖50日の刑」に処される運命にあり。浮気と現実。ゆえに「好色・浮気(艶気)=セックス・助平」ではなくて、恋心の切なさ・辛さ・厳しさを気遣い・教養・芸をもって昇華するが「江戸の“粋”な恋」だと。それらが小唄、端唄、歌舞伎、浄瑠璃、黄表紙などに昇華され、それらを愉しむ心の余裕が肝心とおっしゃっている。

次に『江戸生艶気樺焼』の主人公・艶二郎について。この解釈は京伝関連書の著者それぞれゆえに、ここは私流解釈がいいだろう。まず注目は、実際の山東京伝は江戸っ子らしい細面の鼻筋通った粋な優男容貌(1の似顔絵)で、彼は三十年余に亘って描き続けた戯作主人公の顔が上を向いた団子鼻。“京伝鼻”。ここに鍵があると推測する。

つまり作者・京伝は、戯作の主人公を“京伝鼻”にすることで「フィクション」を貫き、自身を晒さぬことを貫いた。京伝鼻=艶二郎が“野暮”の典型なら、その裏の本人は“粋”の領域に居ると読みたい。売名せず、自慢せず、騒がず。謙虚で控え目、シャイ。人生や恋の厳しさ・辛さ・哀しさも騒がず静かに心の遊びへ昇華する「粋」の心持ち。

この図式の他に「江戸っ子」図式はもう一つある。「やせ我慢」に通じる「鯔背な粋」に比して傲慢、強欲、自慢、力のひけらかし「硬派野暮」の図式もあろろう。この辺はおいおい記すことにして、いざ本文へ。

 

『江戸生艶気樺焼』は天明五年(1785)の日本橋通油町の蔦屋重三刊(板)。上・中。下巻構成で題字が楷書、行書、草書になっている。「気」は旧字「氣」で逆ガンダレの寸縮まったくずし字。「樺」は旁の「華」が「花」のくずし字。

 絵は『江戸生艶気蒲焼』の前年刊『志やれ染手拭合』に早くも登場の京伝鼻の手拭デザイン。なお“京伝鼻”については、佐藤至子著『山東京伝』が詳細考察している。
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(1)荷風~南畝~京伝へ誘われ [江戸生艶気蒲焼]

kyoden1_1.jpg『黄表紙』はひらがな中心ゆえ、どうにか読めるようになった。目下は山東京伝『江戸生艶気樺焼(えどうまれうはきのかばやき)』(絵は京伝自身の画号で北尾政演、天明五年・1785年、蔦屋重三郎板)を愉しんでいる。「どうにか読める」だけではつまらぬゆえ「筆写」しつつ、その文章を味わい親しんでいる。

 まずはじめに「山東京伝」への興味経過から記す。そもそもは「永井荷風」好き。荷風は「大田南畝」好きで、彼の年譜も作成。南畝の人生が面白く、あたしも南畝好きになった。南畝は牛込御徒町(現:新宿区中町)生まれ。荷風は欧米から帰国後は大久保余丁町の父の家に在住。共に“新宿仲間”。

南畝は十八歳で平賀源内の序文で『寝惚先生文集』でデビュー。漢詩、狂歌、黄表紙、洒落本で江戸後期代表の文人となり、「人生の三楽は読書と好色と飲酒」とうそぶいた。ずっと牛込御徒組の小さな家に在住も、56歳で初めて自分の家を小石川・金剛坂に持った。偶然ながら荷風生誕地も同じく金剛坂。大田南畝が黄表紙評判記『岡目八目』で、山東京伝『御存知商売物』の絵と文を絶賛して、京伝人気が不動になった。京伝は南畝より十二歳下で深川木場生まれ。十三歳から銀座に移って浮世絵を学んで画号は北尾政演。

 

 寛政改革が彼らを襲った。南畝は吉原「三保崎」を身請けして妻妾同居を始め、狂歌仲間と連夜の宴。危険を察知して仲間と交際を絶って「学問吟味」合格で難を逃れた。一方、京伝は手鎖五十日の刑。版元・蔦屋重三郎は財産半分没収。寛政五年、煙草入店を開店直後に、妻お菊死亡。寛政十二年、お菊と同じく吉原の玉ノ井(百合)を妻に迎える。京伝の机塚は浅草に、墓地は回向院(写真)。話が長くなるのでここで止める。

 

 かくして荷風~南畝~山東京伝の『江戸生艶気蒲焼』に至る。より京伝に近づくべく遊びの始まぁ~り。ここで当シリーズは小学館『日本古典文学全集』の「黄表紙・川柳・狂歌」編収録の山東京伝作・北尾政演画(京伝の画名)『江戸生艶気樺焼』、浜田義一朗校注(昭和46年刊)を手本に筆写しつつ、小池藤五郎「山東京伝」、小池正胤「反骨者大田南畝と山東京伝」、森銑三の京伝関連随筆、佐藤至子「山東京伝」をはじめとする京伝関連書・関連文を参考に、自分調べも加えた自分流解釈でやってみる。

目的の第一は覚えつつある「くずし字」を忘れぬこと。第二は山東京伝を身近に感じたく。第三は江戸文化を知るため。絵は鳥橋齋栄里。京伝の四十代の顔。


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