(10)艶二郎とパブリシティー [江戸生艶気蒲焼]
このうわさ(噂)、さぞ、せけん(世間)でするだろうとおもひんのほか(思いの他)、となりでさへ志らぬゆへ、はりあいぬけ(張り合い抜け)がして、よミうり(読売)をたのミ、此わけをはんこう(版行)ニをこして、一人まへ一両づつにてやとい、ゑど中をうらせる。
読売「ひやうばん評判、あたきやのむすこゑん二郎といふいろおとこに、うつくしいげいしや(美しい芸者)がほれてかけこミました。とんだ事とんだ事。ことめいさい(明細)、かミ代はんこうだい(紙代販行代)におよバず。たゞじや、たゞじや」
窓からの女「なにさ、かたもないことだのさ。ミんなこしらへごとさ。たゞでもよむがめんどうでござんす」
ここで注目は天明五年(1785)で、マスコミ(読売)露出でPR(public relations)の一手法「パブリシティー(publicity)略してパブ」展開が行われていること。大江戸文化、恐るべしです。
小生、実は昭和44年頃に某PR会社に勤務。日本のPR会社最初の頃で、入社時に梶山季之が同社によるCM権争奪戦の鮮やかな手際を小説にした『ベラチャスラフスカを盗め』(題名うろ覚え)が発表された頃。入社時に薦められたのが米国で確立のPR理論書。PRは大統領選挙活動より構築されたとあった。同社クライアントには政治家、芸能人、諸企業が名を連ねていた。
例えば逆境にいる子が首相に手紙。これを読んだ硬派首相が涙する。情にも厚いと訴えたPR演出。同社社長は異業種を結びつけるシステムエンジニアリングをPRに採り入れた展開が得意だった。
あたしは同社退職後にフリー。PR誌編集やレコード会社の歌手、楽曲のプロモート企画書などをペンダコができるほど書きまくった。艶二郎の依頼があれば、効果抜群の「艶二郎浮名のプロモート計画書」を書いてあげたのにと思った。