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犬の眼にわれ堕ち行くや好々爺 [暮らしの手帖]

oto1_1.jpg 共稼ぎ若夫婦の許で暮らしていたコッカースパニエル。若夫婦に待望の子が産まれ、彼らの愛犬をしばし預かることになった。今まで日々淋しく留守番を強いられていた犬が、始終家にいる隠居のあたしから片時も離れぬ。

 

 週末のみではなく毎朝夕の散歩が日課になった。犬の野生とばかりに公園の山坂を小走りする。雪降れば処女雪を疾走す。あたしは椅子に胡坐でパソコンに向かうが、その胡坐にも座り込む。満足にパソコン遊びもできず、くずし字の筆も持てぬ。寝るも同じ布団の上だ。

かくしてあたしは我を失い自分の生活を捨て、犬の友と化した。孫の相手より先に、犬相手の好々爺に成り下がってしまった。


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コゲラ見て隠居暮らしの走馬灯 [暮らしの手帖]

110kogera1_1.jpg 最初にコゲラを撮った時は、本当に感動した。確か秦野・権現山だった。「あんなもんが珍しいんか。そこらに居るじゃないか」と鼻の先で笑われた。コゲラとは云えキツツキ。珍しいじゃないか。だが鳥撮りを始めれば、確かに彼方此方で眼にし、別に珍しい存在ではなくなった。

 

 同じく東京生まれのかかぁに、新宿御苑のコゲラを見せに行った。閉園まぎわの夕間暮れ。もう誰もいなくなった公園のあたしたちの頭上の木々で、コゲラらが飛び交っていた。あたしらは天を仰きつつ、彼らを追ってグルグルグルと回り続けていた。

郊外電車に乗って鳥撮り遠征へと早朝に家を出た。なんと大久保の自宅マンション前の街路樹にコゲラがいたではないか。自宅前でバッグからカメラを取り出してしまった

間違えると死ぬまでワーカホリックで、近所にコゲラがいることも知らぬまま人生を終えるところだった。改めて、のんびり暮しの隠居になって良かったと思う。コゲラを見ると、コゲラを見たあの場所あの時の情景が次々に浮かんでくる。


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師宣『好色いと柳』の「序」 [くずし字入門]

itoyabagi_1.jpgネットで見つけた菱川師宣(もろのぶ)『好色いと柳』。大傳馬町は鶴屋版。かの業平による『表四十八手』(延宝七年・1679刊)に比す師宣『裏四十八手』(宝永九年刊)の改題再販本(元禄期の版)らしい。表が“四十八手の体位”なら、こちらは口説き手管の四十八手。とは云え、春画に変わりなく「序」のみを筆写。

くずし字はいじっていないと忘れる。先日の「へっつい考」で、くずし字混じりの喜多川守貞『守貞漫稿』や、荷風のスケッチ文が読めて、馬琴のカナリア籠スケッチの文が途中までスラスラと読めた。好色本とは云え、くずし字になじむが肝心なり。さて、以下は自分流釈文…。

「花を見て枝をおり、色を見て袖を引(ひく)ハ、誠に憂世の情にこそ」。あたしは慎み深く生きてきた。花の枝は折らず、いい女の袖も引かず。「人是にうとからバ、つらき事をも弁(わきま)へず、絶(たつ)べき業(わざ)をもよそにやせん」。そこに泥沼ありと承知ゆえに、それらに近寄らぬ心得が出来ていた(嘘ばっかり)。

「よそにやせん」は「よそ+にや+せん」だろうか。「よそ=疎い」。「にや=~だろう」。「せん=栓。方法、手段」。「疎いだろう策のまま=知らずにいる、無知でいる」の意らしい。

「天津神のいにしへハさるものにて、かの業平源氏よりぞ、一しほ此みちたくみにして、盛なること賢かりけれ」。致すは原初のころからだが、人は智慧や余裕が生まれるに従って、生殖より戯れの術を磨くってことかな。

「賢(かしこ)かりけれ」とは。「かり」は形容詞ク活用。連用形で「賢かり」。「けれ」は①伝え聞いた過去の感嘆(~だなぁ)②気付き感嘆(~だったのだ)の意の運用形に接続する助動詞の終止形。この場合は②気付き感嘆で「賢かったのだなぁ」か。

「過し年、業平の述作婚合の秘手四十(よそじ)に八の手、予求て世にあまねく流布せり。今亦裏四十八手ハ手くだの品を書す」。昔、業平が四十八手の体位を著して世に流布したが、今また裏四十八手は手管の品を書す。

「大概(たいがい)絵像(ゑざう)にあらはして、また婚姻の容貌を記す」。概ね絵で、夫婦の様子を記す。「たゞ恨らくハ、楮端の短ふして言語を洩す事を。然ハあれど、情ハ道に依てかしこしといへば、間(まま)その要を取て能(よく)あぢはふべし」。「楮端(ちょたん)」の「楮=こうぞ+端」。今は「紙面の都合で」だろう。詳細説明はせぬが情は自然の道理で追及されようから良く味わうべし。かくして、ここから春画展開ゆえここまで。

くずし字や言葉では「こそ」「弁へず」「楮端」「よそにやせん」、また形容詞ク活用などを勉強した。


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江戸の貨幣・物価もお勉強 [くずし字入門]

 昨年受講の「古文書中級コース」で「江戸貨幣」の説明あり。受講時は「くずし字」を覚えるのに精いっぱいで、宿題として聞き流した。『曲亭馬琴日記』を読み、「へっつい」調べをし、長風呂の時代小説などから、改めて「江戸の貨幣・物価」を知りたくなった。知りたい時が、勉強どき。ここにメモする。

≪単位≫

金は1両=4分=16朱/1分=4朱(四進法)

両小判=(2分金×2枚)=(1分金×4枚)=(2朱金×8枚)=(1朱金×16枚)

銀は1貫=1,000匁=10,000分。1匁=10分(十進法)

  一分銀=(1朱銀×4枚)=(250文×4枚)=(1,000文)

銭は1貫=1,000文。(1文銭・4文銭・10文銭・100文銭有り)

kaheikuzusi_1.jpg≪化政期の変動相場≫

「金・銀・銭」は相場変動制。江戸時代当初は「金1両=銀50匁=銭4,000文」だったが、小生は「文化・文政期」が好きゆえに当時の相場を、丸田勲著『江戸の卵は1個400円!』より

化政期の金1両=6400文=銀64匁/銀1匁=銭100文也。

現在価格に換算すると…

1両=128,000円、1分=32,000円、1朱=8.000円、銀1匁=2,000円、1文=20円。

主だった当時の庶民収入は≫

大工=日給は銀5匁4分(10,800円)、年収は銀1貫5876分(3,175,200円)

小商い(棒手振り)=日給は500600文(10,00012,000円)

石工=日給400文(8,000円)

畳職人=日給267文(5,340円)

鳶職人=日給300文(6,000円)

商家奉公=無給の小僧7~8年で手代(年収3~5両=284,000640,000円)から昇給。

下女の年収=2両2分(320,000円:月収26,666円)

≪主だった当時の支出は≫

裏長屋の九尺二間の家賃は400600文(8,000円~12,000円)

高給の大工職人は四畳半の二間で家賃1,000文(銀10匁)

米一升=5570文(1,1001,400円)

3人暮しの年間食費=銀350匁(700,000円)

銭湯=6文(120円)、床屋=28文(560円)、煙草=10文(200円)、木綿の古着=100文(2,000円)、草履=6文(120円)、蕎麦=16文(320円)、握り寿司=一貫8文(160円)。

『三十俵二人扶持』とは まず「三十俵」は“切米”(御目見以下の武士・御家人に俸給。御目見以上は“知行米”で石高)で、米相場現金を年3回にわけて支給。

1俵=4斗=40升=400合。1俵=60㌔。30俵=1,800㌔。現在相場10㌔=5,000円なら90万円、10㌔=6,000円なら108万円。

「二人扶持」は職務手当てで米(玄米)支給。本人と家来1名分。11人5合で、二人で1升。1升=5570文。30升は1俵未満。玄米から白米にすれば約1.5倍。(間違っていたら随時修正す)


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馬琴住居巡り(7)茗荷谷・深光寺 [新宿発ポタリング]

bakinhako1_1.jpg 馬琴住居巡りは生誕地の深川、九段下の元飯田町、神田明神下同朋町、信濃町の終焉地…4回で終わるはずがいつもの例で長引き、うむ、ならば冥土の住居、茗荷谷・深光寺のお墓までと掃苔に相成候。

 『曲亭馬琴日記』には、妻・お百の葬儀だったかしら…、病気の嫡子・宗伯だけが駕籠に乗って滝沢家御一統が深光寺に歩き行く記述があったような。神田明神下同朋町から茗荷谷へは約3.5㎞。現地図で説明すれば神田明神から水道橋、後楽園の東京ドームをまわり込んで春日通りの坂を登り、伝通院を右に見て茗荷谷へ。「日記」に描かれたキャラクター豊かな馬琴家の皆さんが、ゾロゾロと歩き行く姿が浮かんで、葬儀シーンながら微笑んでしまう。

 

 さて、あたしは大久保から早稲田、江戸川橋から音羽通りへ。同一丁目の小日向台地へ登る狭く長い急坂を自転車を押して登った。ここは知る人ぞ知る「鼠坂」。森鴎外に、この坂途中に立派な邸を落成の満州成金の短編あり。「鼠でなくては上がり降りが出来ない…」と冒頭に記された坂。

 

 「鼠坂」を登れば拓殖大が見え、その東門前が馬琴家の菩提寺「深光寺」。同寺への参道壁外に「茗荷坂」の地名由来看板。深光寺は、馬琴家の他に僅かなお墓がある小さなお寺。さして樹木もないのにメジロが群れていた。本堂前に馬琴と妻・百の立派な墓。その奥に馬琴家のお墓があった。馬琴の戒名は「著作堂隠誉蓑笠居士」、妻のお百が「黙誉静舟到岸大姉」。台座に蔵書印といわれる文様あり。奥にある馬琴家の墓には父・興蔵、母・門、兄・羅文、嫡子・宗伯、その嫁・路のそれぞれの戒名が刻まれていた。宗伯は「玉照堂君誉風光琴嶺居士」、嫁・路は「繰誉順節路霜大姉」。

 

bakinkazokuhaka_1.jpg なお、深光寺の馬琴家のお墓に関してはネットに跡見学園女子大学の≪「馬琴家墳墓考」~馬琴直筆『馬琴氏墓誌』から現在墓を見る~柴田光彦≫がアップされていて詳しい。

 この先はあの世ゆえに、ここで馬琴旧居巡りを終わる。人は誰もが、もがき生き、いずれは逝く。


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馬琴住居巡り(6)終焉地かく特定さる。 [新宿発ポタリング]

omotigumi_1.jpg最新の馬琴本だろう平成18年刊の高田衛著『滝沢馬琴』(ミネルヴァ書房)を読むと、≪「馬琴信濃坂宅の現在の跡地位置」(鈴木貞夫「滝沢馬琴の信濃町旧居跡」新宿歴史博物館「研究起要」第4号より作図)≫として、現・信濃町の千日坂から外苑東通りを跨ぐ歩道橋を経て外苑休憩所(ここに史跡案内板がある)への細長い区域特定の図が載っていた。

鈴木貞夫氏が、信濃町の終焉地住居をかくピンポイント特定されたらしい。この史跡調べの内容や如何に。その『滝沢馬琴の信濃町住居跡』を拝読した。二十頁ほどの自主出版小冊子。

鈴木貞夫氏は新宿のご近所在住の郷土史家。面識はないが、大田南畝の生誕地調べで氏の「大田南畝の牛込中御徒町住居考」を拝読した。最近では諏訪神社の元別当「玄国寺」に岩倉具視邸一部が移築されている謎調べで、氏の書かれた新宿西口の変遷史エッセー文に辿り着いた。ちなみに新宿区図書館のネット検索で、氏の調査発表の郷土史冊子が十六点ヒット。氏によって江戸時代の新宿の歴史が次々発掘されているらしい。

あたしの「馬琴住居巡り」は、ブログのマイカテゴリーが「新宿発ポタリング」で“ぶら散歩”の域を出ぬが、氏による馬琴終焉住宅地の特定経緯を知りたく同冊子を手にした。

「一、はじめに」早々に驚きの記述あり。「…なんと新宿百人町在住でルーツ調べをされている篠原氏と出逢えば、偶然にも氏の曾祖父の住居が馬琴住居跡だった」で、これには鈴木氏も「呆然として二の句が継げない驚きであった」と記していた。郷土史調べには、そんなことがあるんですねぇ。

位置は眞山青果記述の「一行院=千日寺」の坂の上側にある「御持組大縄地」通りで、それなら小生にも「江戸切絵図」(写真中央の「一行院」左に「御持組」とある)から簡単に割り出せるとも記した。しかも眞山は「…同地内に組の者(六軒)が集合してい、その中の間口六間、奥行四十間、坪数二百四十坪の細長き長方形(馬琴は箸箱形と記す)。それは省線信濃町駅に近い南側…に間違いはなし」

ここまで記しながら断定するに至らなかったのは、素人のあたしが推測するに当時の地図の不確かさ、大まかさにあったように思われる。ちなみに「大縄地(おおなわち)」とは大まかな縄入れ…で下級武士の同じ組に属する屋敷域のこと。

馬琴の同地移転は天保七年(1836)で、まぁ参考になるのが嘉永二年(1849)の「江戸切絵図」か。この図の「御持組大縄地」は余りに小さく、ここに六軒もの同心の家があったとは到底思えぬ。

しかし14年後の文久二年(1863)の「御府内沿革図書」での「御持組大縄地」は広くて、ここに同心らの家六軒があったと容易に推測できる。そして同区画内詳細が記されたのが明治六年の「沽券図」(町名・地番・所有者氏名・坪数・売買価格を記入。沽券=沽券にかかわる。東京都公文書館蔵で全七十六枚)では四ツ谷東信濃町「七番・牛山源兵衛」「八番・小林佐一郎」「九番・林勝吉」「十番甲・篠原能孝」「十番乙・篠原重成」「十一番・伏見○○」~などの詳細が記入されていた。『馬琴日記』『滝沢路女日記』にある南隣は伏見、北隣は林…で両家の間が馬琴家、つまり同地図の篠原両家(各百坪)の地になる。

鈴木氏は以上から「沽券図」を、その後の「東京大小区分絵図」(明治七年)、日本初の様式測量による「東京実測図」(明治十七年測量)などと同一スケールにして馬琴宅を現在地に特定したらしい。わかってしまえば、これしきのことがなぜも長年分らなかったかと言えなくもない。これにて「馬琴旧居巡る」を終える。次は馬琴の最後の地=「茗荷谷深光寺の墓地」掃苔に参りましょうか。


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馬琴住居巡り(5)信濃町・終焉地はどこ? [新宿発ポタリング]

sinanomatibakin1_1.jpg かつて四谷・若葉町辺りをポタリング中に、史跡案内図板に「馬琴終焉の地」の印を見た。「よしっ」とばかりに辺りを走りまわるも、その史跡標示は見つからなかった。探し方が悪かったのではなく、史跡板がないのだ。なんらの事情で撤去されたかと推測した。昭和48年刊の芳賀善次郎著『新宿の散歩道』をひもとけば、馬琴終焉地の索引はあるも指定頁に記事はなし。「謎」となった。

 眞山青果に『瀧澤馬琴住居考』あり。眞山生前の未発表遺稿。大正末期の数々の馬琴研究から昭和十五年頃にわたる再調査記録で、昭和二十七年の『真山青果随筆選集』に補綴整理収録されたもの。そこに、こう書かれていた。

…馬琴終焉の地たるこの居住地については、先年饗庭(饗庭篁村:あえばこうそん)先生にもお尋ねしたが、判然たる御回答は得られなかった。先生も先年、馬琴の孫つぎ女の指示によって二度ほどあの辺を探訪せられたが、当時甲武鉄道(現在の中央線)の線路工事でそれらしい地点を発見せられなかったと云ふことであった。その後、後藤肅堂氏なども数次にわたって踏査されたが、やはり得るところがなかった。

sinamomatibamin5_1.jpg眞山青果は、当時の地図から「一行院=千日寺」の坂の上側にある「御持組大縄地」だろうと推測。それなら小生にも「江戸切絵図」から簡単に割り出せる。その地内に組の者(六軒)が集合してい、その中の間口六間、奥行四十間、坪数二百四十坪の細長き長方形(馬琴は箸箱形と記す)で、東方に六間に九間の竹藪がある屋敷。それは省線信濃町駅に近い南側…と書かれていた。

昨年春、信濃町・外苑休憩所にソバチェーン店「日高屋」が開店し、その垣根に突然「新宿区指定史跡 滝沢馬琴終焉の地」所在地:新宿区霞ヶ丘町十四番一号 指定年月日:平成二十五年三月二十七日と記された史跡板が立てられた。

 「日高屋と滝沢馬琴」は似合わぬが、何故にその地に指定相成ったかは後述するとして、まずは馬琴の終焉地移転の経緯をまとめてみる。彼は大名抱医師となった嫡男・宗伯の病死で、再び士族ではなくなった。そこで孫・太郎9歳を武士にすべく、百三十両を工面して御持筒組の四谷信濃町組屋敷に住む同心の御家人株を取得。孫が幼いゆえに嫁・路の遠縁(従弟格)の青年を養子として着任させて、天保七年(183670歳で同住所に転居した。

すでに馬琴の右目は失明。文学無知のお路に文章を教えつつ口述筆記。一冊二冊の努力が実って、馬琴の両目失明なれど遂に『八犬伝』を完成。天保11年には太郎も元服して正式に御持筒同心へ。従弟格に「身分片付け料」八両を払ったとか。

馬琴は嘉永元年(1848)、82歳で没。日記をつけることを馬琴から引き継いだお路は「端然として御臨終」と記した。翌年、太郎も病死。長女「つぎ」に滝沢琴童の名が与えられ、版元らが『八犬伝』ダイジェスト著述などの仕事をまわしたとか。なお「お路」は馬琴没の十年後、53歳で没。「路女日記」が1994年に八木書店刊。未読だが、庭の樫の大木を新宿の湯屋に二両二分で売った。四谷の桶屋に裏の竹藪の三分に二を売って一両一分など、馬琴の教え通り詳細な生活記録が綴られているとか。

自転車で巡る「馬琴住居巡り」は生誕地・深川~九段下の元飯田町~神田明神下同朋町~信濃町・終焉地で終了。しかし「信濃町・終焉地」の特定が如何に行われたかの「謎」が残る。次にそこを探ってみる。


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馬琴住居巡り(4)飼鳥百羽はどの家で? [新宿発ポタリング]

bakinkanaria2_1.jpg 神田明神下同朋町から信濃町の終焉地へ行く前にちょっと寄り道。馬琴の飼鳥はどの住宅から始まったのか。

 神田明神下同朋町での『曲亭馬琴日記』第一巻(文政九年十一年~)ではカナリア、鳩(連雀鳩)、エゾ鳥の記述がある。カナリアは小禽籠で、他は庭籠らしい。文政十年五月八日にはこんな記述あり。

「昼後、エゾ鳥其外庭籠の鳥騒候につき、立出、見候へば、大きなる蛇、縁頬へ上り、庭籠へかかり候様子につき、予、棒を以、手水鉢前草中へ払落し候へば、縁の下へ入畢」。この蛇は何度か出没し、その度に大騒ぎになっている。

さて「連雀鳩」とは? ネット検索でオーストラリア分布の頭にタテガミ状トンガリを有した鳩。文政年間にそんな輸入鳥が馬琴の手に入っていたとは。

そして「エゾ鳥」とは? 日記には「松前老侯より給わりしものなり」で放下するわけにもいかず。「四羽を給わって最後の一羽が天保三年に隕(おち?)る」とある。八年間も生きたそうな。

細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』では『図解日本鳥名由来事典』で菅原浩・柿澤亮三両氏が馬琴の云う「エゾ鳥」を「イソヒヨドリ(雄)」と特定したと紹介し、居職の馬琴は実際のイソヒヨドリを知らなかったのだろうと記していた。

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神田明神下同朋町での『曲亭馬琴日記』は上記三種の飼鳥記述だが、確か馬琴は百羽もの鳥を飼っていたはず。眞山青果著『随筆瀧澤馬琴』の「その九」に馬琴の飼い鳥について、こんな記述があった。

…元来、滝澤家は代々小禽ずきの家で、『吾佛の記』によれば馬琴の祖父左仲は浪人後鶯などを養つて娯んでゐるやうだし、父興蔵の死亡の際には鶯、駒鳥、畫眉鳥(ガビチョウ)などの籠禽が六七羽もあり、ほかに鶏もあまた飼育してゐたといふから、それ等の趣味が馬琴に遺傳されたものと見える。

うむ、飼鳥は馬琴の祖父の代から盛んだったような。そして眞山青果は『無益之記』の序文を転載する。

「甲戌(文化十一年)の春、余に小恙あり。夏に至つて尤も留飲に苦しむ。しかれども市中、尺地の逍遙するに由なし。おもへらく、もし試に小禽を養はゞ、日々に運動して気を養ひ、生を養ふべし、因(よつ)て五月に至つてはじめてこの戯(たわむれ)をなせり」

勝手解釈する。文化十一年にちょっと病んだ。胃炎かしら。気分転換に散歩でもすればいいが歩きたい所もなし。しからば心身共に元気になるかなと五月に飼鳥を始めってぇこと。文化十一年は馬琴四十七歳。『南総里見八犬伝』の最初の五冊を書き上げたころ。人気作家ならではの多忙な日々が始まっていた。嫡男・宗伯のために神田同朋町に家を求む四年前。飼鳥開始は元飯田町からということになる。

「しかるに余が性、物に泥り、正に諸鳥を獲て、毛色啼音飼養の事、つばらにこれを極めんとする程に、覚えずその数百数鳥に及べり。その事未だ我が盡さずして怱ち心に倦き、病痾全く癒ずして、嚢中既に空し」

勝手解釈…。凝り性ゆえに色や鳴き声のさまざまな鳥を集め極めようとして、たちまち百数羽に及んだ。だが集め切らぬうちに飽き、病気も癒えず虚しくなった。文は続くが、まぁ、そんなこんだで鳥を放下したと書かれていた。

なお、ネット検索で<鈴木道男by馬琴の鳥研究(1)『八犬伝』と鳥>がヒット。最初にウソ♂を得たのが文化十年で、上記は翌年の記ゆえ、一年程で飼い集めが醒めたのだろうと記していた。

写真は眞山青果全集に載っていた馬琴筆のカナリア籠。「おぉ、馬琴さん、絵うまい」。眞山青果は「ほとんど画才のない馬琴には、一丁の挿絵をまとめるにもかなりの苦心であったらしく…」とあるが、絵師に少しの自由をも与えぬ詳細指示(ラフコンテ)を長年描いているうちに「次第に絵の腕を上げたていた」と記すべきだったのではと思った。

~カナリヤのカゴの事 江戸にてハ蒔餌籠といふ 文鳥のかごとは相にて 文鳥のかごより小さし~と書いてある。「くずし字」の勉強を兼ね、この自筆本を拝見したいがあたしにはお目にかかれぬ。話が「飼い鳥」に脱線したので、次は終焉の地・信濃町へ行ってみる。


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