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馬琴住居巡り(6)終焉地かく特定さる。 [新宿発ポタリング]

omotigumi_1.jpg最新の馬琴本だろう平成18年刊の高田衛著『滝沢馬琴』(ミネルヴァ書房)を読むと、≪「馬琴信濃坂宅の現在の跡地位置」(鈴木貞夫「滝沢馬琴の信濃町旧居跡」新宿歴史博物館「研究起要」第4号より作図)≫として、現・信濃町の千日坂から外苑東通りを跨ぐ歩道橋を経て外苑休憩所(ここに史跡案内板がある)への細長い区域特定の図が載っていた。

鈴木貞夫氏が、信濃町の終焉地住居をかくピンポイント特定されたらしい。この史跡調べの内容や如何に。その『滝沢馬琴の信濃町住居跡』を拝読した。二十頁ほどの自主出版小冊子。

鈴木貞夫氏は新宿のご近所在住の郷土史家。面識はないが、大田南畝の生誕地調べで氏の「大田南畝の牛込中御徒町住居考」を拝読した。最近では諏訪神社の元別当「玄国寺」に岩倉具視邸一部が移築されている謎調べで、氏の書かれた新宿西口の変遷史エッセー文に辿り着いた。ちなみに新宿区図書館のネット検索で、氏の調査発表の郷土史冊子が十六点ヒット。氏によって江戸時代の新宿の歴史が次々発掘されているらしい。

あたしの「馬琴住居巡り」は、ブログのマイカテゴリーが「新宿発ポタリング」で“ぶら散歩”の域を出ぬが、氏による馬琴終焉住宅地の特定経緯を知りたく同冊子を手にした。

「一、はじめに」早々に驚きの記述あり。「…なんと新宿百人町在住でルーツ調べをされている篠原氏と出逢えば、偶然にも氏の曾祖父の住居が馬琴住居跡だった」で、これには鈴木氏も「呆然として二の句が継げない驚きであった」と記していた。郷土史調べには、そんなことがあるんですねぇ。

位置は眞山青果記述の「一行院=千日寺」の坂の上側にある「御持組大縄地」通りで、それなら小生にも「江戸切絵図」(写真中央の「一行院」左に「御持組」とある)から簡単に割り出せるとも記した。しかも眞山は「…同地内に組の者(六軒)が集合してい、その中の間口六間、奥行四十間、坪数二百四十坪の細長き長方形(馬琴は箸箱形と記す)。それは省線信濃町駅に近い南側…に間違いはなし」

ここまで記しながら断定するに至らなかったのは、素人のあたしが推測するに当時の地図の不確かさ、大まかさにあったように思われる。ちなみに「大縄地(おおなわち)」とは大まかな縄入れ…で下級武士の同じ組に属する屋敷域のこと。

馬琴の同地移転は天保七年(1836)で、まぁ参考になるのが嘉永二年(1849)の「江戸切絵図」か。この図の「御持組大縄地」は余りに小さく、ここに六軒もの同心の家があったとは到底思えぬ。

しかし14年後の文久二年(1863)の「御府内沿革図書」での「御持組大縄地」は広くて、ここに同心らの家六軒があったと容易に推測できる。そして同区画内詳細が記されたのが明治六年の「沽券図」(町名・地番・所有者氏名・坪数・売買価格を記入。沽券=沽券にかかわる。東京都公文書館蔵で全七十六枚)では四ツ谷東信濃町「七番・牛山源兵衛」「八番・小林佐一郎」「九番・林勝吉」「十番甲・篠原能孝」「十番乙・篠原重成」「十一番・伏見○○」~などの詳細が記入されていた。『馬琴日記』『滝沢路女日記』にある南隣は伏見、北隣は林…で両家の間が馬琴家、つまり同地図の篠原両家(各百坪)の地になる。

鈴木氏は以上から「沽券図」を、その後の「東京大小区分絵図」(明治七年)、日本初の様式測量による「東京実測図」(明治十七年測量)などと同一スケールにして馬琴宅を現在地に特定したらしい。わかってしまえば、これしきのことがなぜも長年分らなかったかと言えなくもない。これにて「馬琴旧居巡る」を終える。次は馬琴の最後の地=「茗荷谷深光寺の墓地」掃苔に参りましょうか。


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