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馬琴住居巡り(3)神田明神下同朋町 [新宿発ポタリング]

bakinkannda1_1.jpg 馬琴住居巡りは「深川の生誕地」から「九段下の元飯田町」、そして「神田明神下同朋町」(現:千代田区外神田三丁目)へ。馬琴は文政七年(1824)から天保七年(1836)までの十二年間をここで暮らした

 新宿から自転車で外堀通りを昌平橋へ。ここで左折して現・昌平小学校と芳林公園(写真左)の間を右折。公園柵前に「滝沢馬琴住居跡」の史跡看板あり。

西は神田明神。東は秋葉原・中央通り。史跡看板前から東を見れば「アキバ」に群れる若者たちが溢れんばかり。公園内には散策・買物疲れのオタク系青年らが座り込んでいるも、ここが「馬琴住居跡」とは興味もなく、気付きもせぬ。史跡看板にはこう書かれていた。

 

 …文政元年(1818)になると、息子宗伯が母と妹を連れて、当時、神田明神石坂下の同朋町東新道と呼ばれていた地に移転してきます。ここは西丸書院番士を勤めていた旗本橋本喜八郎の所有する五十坪の土地で、十六坪の家屋が建っており、そこで暮しました。

 補足する。馬琴は病弱ながら医を学ぶ息子に夢を賭けてい、息子「宗伯」の開業地として、また自らも隠居地のつもりで同家を文政元年(1818)に購入。文政三年に宗伯はめでたく松前志摩守の抱医師となって滝沢家は士族に復帰した。

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…文政七年。馬琴は元飯田町の家を婿養子に継がせ、馬琴もここに引っ越してきた。隣家を買収して八十坪の敷地に拡げ、書斎や庭園を設けた。

ここでの生活は『曲亭馬琴日記』(中央公論社2009年刊。一巻から四巻までが文政九年十一年~嘉永二年五月までの日記。第五巻が詳細索引)に詳しい。膨大ゆえまずは第一巻より「へっつい考」調べで薪・炭事情を調べ、また江戸の火事記録に注目した。

同日記を読む前に、同日記の小鳥飼育記録を軸に細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』、同じく高牧實著『馬琴一家の江戸暮らし』、森田誠吾著『江戸の明け暮れ』も読んでいて、それら引用元を改めて読んだことになる。

さて、同朋町の馬琴宅はいかなる造りだったか。ネット検索すれば丸山宏(教授?)の『滝沢馬琴の庭造りと家相』がヒット。「孫つぎ女」より取材して眞山青果作成の馬琴宅の見取り図が掲っていた。そこで今度は『眞山青果全集・第十七巻』をひもとく。同書には『随筆瀧澤馬琴』をメインに『馬琴とその下女』『滝澤馬琴住居考』『曲亭馬琴年譜』を収録。

長くなるので、それら内容は省略。天保6年、息子「宗伯」が病死。宗伯が大名抱医師となって滝沢家は士分復帰を果たしたが、これは一代限りゆえに馬琴家は再び町民。そんな折に御持筒組の四谷信濃町組屋敷住同心に御家人株を売りたい人がいると知る。百三十両也。七、八千冊の蔵書家・馬琴はそれらを売り、家を売り、書画会(即売)も開催して百三十両をどうにか工面した。


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馬琴住居巡り(2)元飯田町の井戸 [新宿発ポタリング]

bakinido3_1.jpg 馬琴の元飯田町の旧居井戸跡は、すでに「日本橋川」シリーズで「南堀留橋」右岸マンション「ニューハイツ九段」の奥まった玄関脇にありと紹介済。馬琴は二十七歳から六十八歳までの三十一年間をここで暮らした。以下、彼が同地に至る経緯とここでの暮らしをダイジェスト。

馬琴は長兄の誘いで下層武士の俳諧メンバーとなって仲間の俳諧冊子、俳諧師匠の追悼書を編集著作、また筆写本で稼いだりするうちに、次第に戯作に興味を持った。寛政二年(1790)、同じ深川育ちの山東京伝に入門。この時、京伝は三十歳だがすでに『江戸生艶気樺焼』などで人気戯作者。しかし寛政三年に「手鎖五十日の刑」。馬琴はその後の京伝宅に半年の居候。寛政四年、二十六歳の馬琴は京伝宅から蔦屋での帳付け奉公を約一年。出版業のノウハウを覚えた翌五年に、友人山田屋半蔵を頼って元飯田町へ。半蔵の義父半右衛門夫婦の世話で元飯田町の履物屋「伊勢屋」のバツ一、三歳年上の「お百」に入夫。

馬琴二十七歳。町人になって人生仕切り直し。入夫数年後に老姑が亡くなると、馬琴は履物屋を八百屋に貸して地続きの裏家に移った。南に池を配した広い庭と十八坪の二階建。十六年前に建替えられた家で、馬琴が二階を仕事場として使用。手習塾、神女湯や奇応丸の製造販売、表家の家賃収入で生活安定を図りつつ読書研鑽。

bakinmotoiidaido_1.jpg近くには旗本山口勘兵衛の家老となった長兄居宅もあり。生活が順調なれば子づくりも盛んになる。四女一男が次々誕生。時代は黄表紙、洒落本から読物へ。馬琴の読本初作は『高尾船宇文』。三十六歳で念願の上方遊歴。江戸に戻った翌々年の文化元年に『復讐月氷奇縁』五巻を大阪江戸で発売。文化四年、四十一歳で『鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月』を刊。全二十九巻の刊が終了したのが文化八年。文化十一年に『南総里見八犬伝』初篇刊。『南総里見八犬伝』も第五輯まで製作出版。ついに人気作家へ至る。馬琴にとって、元飯田町時代は絶頂の日々だったと云えよう。

眞山青果著には明治時代の馬琴宅跡の井戸写真が掲載されていた。現在の井戸は史跡風に拵え直した井戸とわかる。同家屋は明治七年の大火で焼失とか。そして馬琴は…。


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馬琴住居巡り(1)深川の生誕地 [新宿発ポタリング]

bakinseitan1_1.jpg『曲亭馬琴日記』の読書合間に、自転車で「馬琴旧居巡り」をした。まずは生誕地の深川(江東区平野一丁目)へ。大久保通りを飯田橋、九段下から内堀通り。大手門左折で永代通り。隅田川の永代橋を越えれば深川。地下鉄なら東西線「門前仲町」。清澄通りを清澄庭園に向かう。仙台堀川に架かる「海辺橋」の手前南詰に、芭蕉が「おくのほそ道」へ旅立つ前に住んだ杉山杉風の「採茶庵」跡に旅装束の芭蕉像あり。同橋を渡った右側の団子屋数軒先に「滝沢馬琴誕生の地」史跡看板。看板前には馬琴が28年間を費やした『南総里見八犬伝』全106冊を積み上げたモニュメントあり。

 

 馬琴に無関心なら「フ~ン」で通り過ぎてしまう“何気なさ”。道路っぺたに無造作な設置。かつて、かかぁと清澄庭園散策帰りに東西線『門前仲町』へ向かって歩き出し、同史跡を横目に「フ~ン」と通り過ぎたことあり。それより数軒先「団子屋」に寄って「みたらし団子」食い歩き。その砂糖醤油ダレが出来たてで「アッチチッ」と橋の上で悲鳴上げつつ頬張ったことの方を覚えている。かくして改めて馬琴史跡に見入った次第。

 

 芭蕉が「おくのほそ道」へ旅立ったのは元禄2年(1689)。馬琴はその78年後、明和4年(1767)に同地で生まれた。以下は眞山青果『随筆瀧澤馬琴』(眞山青果全集・第十七巻・講談社)、高田衛著『滝沢馬琴』(ミネルヴァ書房)、滝澤昌忠著『寂しい人・曲亭馬琴』(鳥影社)、森田誠吾著『曲亭馬琴遺稿』(新潮社)、杉本苑子『滝沢馬琴』(文藝春秋)より自分流にまとめてみる。

 

この地は旗本松平鍋五郎信成(千石)屋敷。馬琴家は代々が同家用人ゆえに同屋敷内で誕生。下女二人に料理番もいたが、馬琴九歳の時に父が死去。馬琴家は俸禄を取り上げられ長屋一隅へ冷遇。長男は主家を離れ、次兄は他家養子へ、十歳の馬琴が一歳下の主人孫の小姓(遊び相手)になった。

 

fukagawabakintizu_1.jpg長男が二十歳で戸田大学忠諏の用人になって母や妹を呼び寄せた。それを機に馬琴は三年で主家を出奔。十四歳で市中放浪。住むは裏長屋だろう。生誕史跡近く「深川江戸資料館」に裏長屋が再現されてい、当時の馬琴の暮らしを想像する。

 

伯父の招きで医を学ぶも挫折。長兄の誘いで俳諧に誘われて「馬琴」の俳号を持つ。長兄のひきで戸田家にも仕えたが、不行状で勤まらず。そのうちに母の看病で長兄は近習職解雇。馬琴も長屋仲間のツテで行商・大道芸・占い師などで食いつなぐその日暮らし。

 やがて長兄は縁あって元飯田町堀留の山口勘兵衛の用人になるも次兄は病死。馬琴は筆写本を売って暮しの足しにしつつ、次第に戯作者への道を目指して山東京伝に弟子入り。寛政2年(1790)、24歳だった。かくして生誕地・深川は馬琴にとって下級武士の哀れを身に染みこませた辛い地だったと言えそう。


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オオタカぞ獲物掠めのカラス追ふ [私の探鳥記]

 目下、我が家にコッカースパニエル犬種「オッちゃん」が居候中。共稼ぎ若夫婦のマンション暮しで 留守番が日常ゆえに朝、昼、夕に散歩に連れ出している。えぇ、ブログをやるほど閑がありますんで。「いざ、野生よ甦れ」とばかりに老体に鞭打ち犬と小走り。そんな一月二十二日の昼下り、得難いシーンを見た。

 

散歩地は箱根山・戸山公園。その早稲田寄りで長玉のご婦人が「まだ啼かぬがウグイスがいる」といった辺りの前方で、突然の羽搏き音とドサッと何やらが落ちる音。落下点に眼を凝らせば、おぉ、オオタカらしきがムンズと獲物を仕留めての着地。餌食はハトか。一瞬後に獲物を掴み直し、慌ただしく飛び立った。なんと、それを追って二羽のカラスが追撃した。三羽は低空飛行のまま林奥(女子学習院内)に消えた。

 

 同地で別の長玉の旦那に訊けば「それで一時はハトの数が減り、オオタカも姿を消した。ハトが殖えて再び来たってワケだ」。こんな時に限ってカメラを持参せず。いや、余りの突然でフォーカスは出来まい。逆に脳裏に忘れ得ぬシーンとして焼き付いた。

 

 同地の友にそれを話せば「大蛇(巨大アオダイショウ)もいる」の話で盛り上がる。新宿に残る原初か、はたまた甦りつつある野生か。

 

 細川都知事候補は演説で、人口学者の説をひいて100年後に日本の人口は江戸時代に近い4千万人になると言った。ウィキペディアを見ると、明治3年の日本の総人口は3千400万~3千300万人で、江戸・東京は諸説あるも150~200万人都市だったらしい。新宿は大久保、まぁ、至るところ原野あり。箱根山・戸山公園は広大な尾張藩下屋敷だった。


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雑踏の路に骸ぞメジロかな [私の探鳥記]

「荷風さん千疋屋でメジロ買ふ」の写真は、我が家マンション七階ベランダのローズマリーにやってきたメジロ。ベランダにメジロが遊びに来るのは今年で四年目。三年前が一月十八日より。二年前が二月七日より、昨年が一月十日より。そして今年の初訪は一月九日だった。この日から花々が咲き誇る春まで、メジロらは日々通ってくる。食卓から、またホットカーペットに寝転び読書しつつ、間近にメジロを見る愉しみの始まり…。

 

 と期待したが、二日でパタッと姿を見せなくなった。どうしたのだろう。隣のマンションが大規模修繕で足場を組み始めたせいらしい。落胆の一月十七日のこと、ウォーキングを兼ねて新宿西口ハルク地下に魚を購いに行った。ハルク五、六㍍手前の雑踏歩道に、メジロの無残な死体があった。人の流れに沿っての一瞬の映像。ウグイス色の羽根、裂かれた腹を晒して潰れていた。踏まれもしたらしい。

 

 メジロ好きのあたしらにはショックだった。五、六歩を歩いてから二人同時に「今のはメジロだったよなぁ」「間違いなく」。いったいどうしたのだろう。「誰かの仕業。いや人じゃないよなぁ」「うん、あれは空から落ちたような」「カラスに殺られたか」。あたしらは何年も前のこと、高田馬場へ行く途中の公園脇路上で、カラスがハトの肉を食いちぎっている光景を見たことがある。

 

「新宿西口の雑踏のなか。カラスでもスズメでもなくメジロの遺骸。見方を変えれば、それだけ都心にメジロが殖えたってことか」「去年は家のマンション七階に三番、六羽のメジロが遊びに来ていたし…」それにしても無残な映像。辛いものを見てしまった。

 

 花鳥風月を愉しめば、無残な花鳥風月にも触れざるを得ぬ。自然の摂理は致し方ないも、人の傲慢による自然破壊は計り知れぬ。かつて“美しい国、日本”とか叫んでいた奴がいて、やっていることは経済優先と強国願望らしい。


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荷風さん千疋屋でメジロ飼ふ [永井荷風関連]

mejiro191_1.jpg 過日、荷風の「七輪好き」調べで『断腸亭日乗』を読み直していたら、昭和二十四年十月十三日に以下の記述があり。荷風七十一歳である。

  

 …毎月寄贈の出版物を古本屋に売りて参千余円を得たれば午後銀座千疋屋に赴き一昨日見たり小禽(ことり)を買ふ。籠金八百拾円、小禽金弐千五百円。餌の稗(ひえ)五合にて金百円なり。

 

 ウム、フルーツパーラー「銀座千疋屋」で小鳥を買ったのか。そんなワケはなかろう。「千疋屋」へ行く途中での意かもしれない。さて、何鳥を買ったのだろうか。十月十五日の日乗に「目白も虫も鳴くこと頻(しきり)なり」。買ったのはメジロだろう。番(つがい)を購ったか。

 

今度は六月廿二日。「亀戸電車通精巧舎前に小鳥屋ありて餌も賣る由(よし)聞きつたへ夕方尋ね行きて稗と粟を購う。銀座千疋屋にて購ふよりは倍以上もやすし。」 なんとまぁ、本当に「千疋屋」で小鳥を売っていたことになる。終戦後はなんでもありだったのだろう。それ以後の日乗に、度々「午後亀戸小鳥屋にて稗を買ふ」が登場する。 

 

荷風さん、バッグにメジロの餌を忍ばせて、浅草の裸の踊り子らと遊んでいたらしい。この頃に、踊り子らと某所で幾度も秘戯ムービーを楽しんでいるが、昭和二十七年に文化勲章を受章。身辺がにわかに忙しくなったかで、以後に餌の購入記述はなし。荷風さんが亡くなったのは昭和三十四年四月で八十歳。メジロは何年生きたのだろうか。

 

今は野鳥保護で飼い鳥の多くは禁止されているが、子供時分は我が家でもカナリア、十姉妹、文鳥を飼ったと記憶している。「飼い鳥」は曲亭馬琴の時代も大ブームだった。『曲亭馬琴日記』にはカナリアをはじめの飼育記述が多く、小鳥を狙って出没する蛇と闘う記述もあり。そんな馬琴の飼い鳥を紹介したのが細川博昭著『大江戸飼い鳥草紙』(吉川弘文館)。とても面白い。


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蒲の穂や満を持してのショーを見せ [花と昆虫]

gamanoho2_1.jpg 「へっつい考」シリーズ中の110日のこと。ちょいと“いいもの”を観せてもらった。その日は雪の予報に反して晴れ。強い北風が吹き抜けていた。「何を好き好んで…」と寒さに震えつつも新宿御苑へ。蝋梅が幾輪か咲き始めていた。そこから「母と子の池」へ。「アッ」と息を呑んだ。

 

 強風が吹く度に「蒲の穂」の綿毛が盛大に飛散するビッグショーが展開されていたじゃないか。蒲の穂綿が、緩やかな風に華麗な漂い、時に吹く強風に狂ったように乱舞。様々に変化する蒲の穂綿のショータイム。さて、高速シャッターで、いやスローシャッターで撮りましょうか。いや、この場合はムービーで撮った方が良かったのかもしれぬが…。

 

 東京生まれ新宿在住ゆえ「蒲の穂」は珍しい。葉が青い時期の、枯れてからのと二通りの「蒲の穂」にシャッターを切っていた。そのうちに「へっつい考」調べで、火打石で発した火花を移す火口(ほくち)に、蒲の穂綿が用いられると知った。そして穂綿の息を飲むスペクタクルショーを見たという次第。恐らくこれは蒲の「お・ま・つ・り」。

 

gamanoho4_1.jpg 蒲の穂綿には皮膚を収斂、止血効果あリ。昔は穂綿を袋に詰めて生理用品としても使ったとか。そう云えば、サメに丸裸にされた「因幡の白ウサギ」も、蒲の穂綿に包まれて傷を癒したと歌われている。

 今度はマクロレンズで、穂綿=種を撮ってみましょう。


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床の間に作蔵がゐる炬燵かな [くずし字入門]

toko3_1.jpg 江戸文化(近世文学)の田中優子教授が法政大新総長に決定とか。それを祝して田中優子本を本棚から引き出し読めば、そこから思いがけぬ「データベース」に辿り着いた。「国際日本文化研究センター」のデータで『床の置物』。読み込みに数分かかるが、モニターに現われたは「日文研叢書24・近世艶本資料集成Ⅰ・菱川師宣2『床の置物』」。

 

天保年間刊で全十三丁。テーマは「張形」。武家屋敷の奥女中や公家屋敷の上臈(じょうろう)の世界、つまり大奥や奥女中たちの張型をお使いになる様や、そのハウツーが克明な絵で描かれた珍本なり。ここは弊ブログなど見ずに、上記データベースの妖し絵を愉しむがお勧め。あたしは真面目ゆえに「くずし字」の勉強で「序文」を写筆せり。同書は釈文付きだが、例のごとく自分流解釈を交えて記す。

 

「凡(およそ)交遊のしなある事ハ、一生うれ(愁)へをさつて(去って)よろこ(歓)びを延(のべ)し、寝筵(ねむしろ=寝ゴザ)のうゑにも、千話(ちわ=痴話=床のなかの戯れ合い話)の真砂の数々つくる(尽きる)事なし。」…下世話に記せば「情交の品があるってぇ事は、あの日あの夜の歓びが甦って尽きる事はない」っつう意だな。

 

「往古(むかし)、作蔵と云(いう)色ごの(好)みあり。妻別れをかな(悲)しみけれバ、をの(己)が一物を木像に作り筐(キョウ、コウ、かご、はこ。かたみ=形見の当て字)にあた(与)へしを、逢ふ心地して寵愛のあまり名付けて作蔵と云しを、末世(すえのよ)の人、木像古風なりとて生(いけ)る一物をなべて(おしなべて)作蔵と云。」

 

 作蔵の別れの事情はなんだったのだろう。作蔵は妻と心・身体を通わせあった己の一物の木像を彫り、別れる妻に与えた。妻はそれを作蔵と思って日々寵愛した。

 

男根=作蔵とは知らなかったが、先日読んだ森田誠吾著『曲亭馬琴遺稿』に、馬琴が平賀源内を評し「戯文とはいえ慢心、人倫を踏み外した」と『痿陰隠逸伝(なえまらいんいつでん)』を例にあげた文が紹介されていた。…稚(いとけな)きを指似(しじ)といひ、又、珍宝と呼ぶ。形そなはりてその名を魔羅と呼び、号を天礼莬久(てれつく)と称し、また『作蔵』と称す。

 

 まぁ、偶然に両著より「作蔵」の意を識った次第。春本とて読めば勉強になる。そうとも知らずに、子の名や店名に「作蔵」とすれば、その意は「珍宝」「魔羅」なり。話を戻し、文章はこう続く。「己が知徳を以て生れながらにして是をしり、習ふて是をする。其是をする事、皆一つ成と孔子もつくされたれバ、稽古のためになれとて、床の置物と名を付るのみ」

 

 まぁ、コトは教えなくとも覚えていたすって意だろう。しかし欲は拡大するのも然り。もっと長いの、もっと太いの、もっと形の違ったものをと、さまざまなのが「床の置物」に並ぶことになる。同書は次にその使い方へ入ってゆく。田中優子教授の本にも詳しく解説されているが、弊ブログはここまで。

 

 追記1:丸田勲著『江戸の卵は1個400円!』を読んだら、普及品の水牛角を加工した物でも二朱(1万6000円)はした、と書かれていた。

 

 追記2:杉本苑子著『滝沢馬琴』読んでいたら、元飯田町の家を継いだ長女・幸(さき)は婿・清右衛門を迎えていたが、老いた清右衛門が幸を抱くもコトに致らず、胸下のしこりが大きくなって具合が悪くなったと告白するシーンあり。ここで二人は若き日を思い出す。清右衛門は幸のそれまでの“ひとり遊びの道具”を見せられ、幸をいじらく感じて“いつくしみぬこう”と思ったと告白する。幸は「あれは立花侯の屋敷にお中﨟奉公した時に朋輩の女中衆と使い合った道具で…」と言う。

 まぁ、「作蔵」記述文との出逢いが変に続いている。


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へっつい考9:宵越しの銭は持たねぇ [暮らしの手帖]

fukagawahettui2_1.jpg 『馬琴日記』には、江戸中の火事が詳細に記録されている。馬琴は物語作家。つまりは「居職」なのに、彼の耳には江戸中の火事の火元、類焼状況が瞬時に届いている。「火事」は江戸で別格扱い。情報伝達のシステムが庶民の間にもしっかり構築されていたと想像される。ちなみに神田明神下同朋町在住時の文政十一年正月の日記をひく。

 

「今夜九時、浅草花川戸辺より出火、頗延焼ニ及ぶ。右出火中、山崎丁辺出火、大風烈(はげしい)中、飛火所々ニ燃付、広徳寺前・三味線堀・三筋町・鳥越・蔵前・天王橋・天文台辺まで延焼。天明前火鎮ル」その四日後の日記。「一昨夜九時前、青山辺出火。至暁、火鎮る。夜五時前、小石川三百坂下出火。暫ニして鎮る」。青山と小石川の火事が記録されている。

 

 『馬琴日記』から火事記録をピックアップすれば、貴重な「江戸の火事データ」がまとめられよう。江戸に火事が多いのは、日本家屋ゆえ。また百万人都市・大江戸の七割の町民が九尺二間3坪の、また5坪の長屋に住んでい、猫の額ほどの土間の「へっつい」で煮炊きをしていたことも挙げられよう。写真の「へっつい」に薪の炎が燃え上がる図を想像していただきたい。これで火事にならぬワケがない。

 

 馬琴には、大田南畝の妻妾同衾を含め「人生の三楽は読書の好色と飲酒」といそぶいたような「粋人」の味わいはない。山東京伝のように最初も二度目の妻も遊郭上がりという「不良気」もない。頑固な家父長、堅実・倹約、勧善懲悪一筋の物語で「つまらん男よ」とも揶揄されているが、江戸の火事を全記録した点では、江戸文化の根源に触れていると言っていいのかもしれない。

 

 「火事とケンカは江戸の華」だが、火事になれば材木屋は大儲けし、大工も左官屋も瓦屋も指物師はじめの多くの職人らがそれで潤ったのも事実。江戸庶民の逞しさよ。しかし、失う物も大きい。「地震、雷、火事、親爺」。この言葉には、地震や雷に比して火事は親爺級の怖さ…という解釈もあるとか。

 

 江戸の放火は、馬で市中ひきまわし後に「火あぶり刑」。だが失火については、住宅事情から寛大にならざるを得なかった。失火の火元は焼失程度によって十日から三十日の「押込」(幽閉)程度で、焼失範囲が広いと家主、地主なども同罪の連帯責任。町火消制度も江戸ならではのものだろう。

 

 「江戸っ子の生まれそこない金を貯め」。江戸っ子は「宵越しの銭は持たねぇ」。江戸の粋・意気・鯔背をはじめの江戸文化の源に、裏長屋の「へっつい」ありと睨んだ。詰めが甘いが、この辺を一応の結論として「へっつい考」を閉じ、気が向いたらまた追加する。


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へっつい考8:荷風の七輪 [暮らしの手帖]

stove1_1.jpg 裏長屋の「へっつい」に薪が燃える図を想えば「よくもまぁ、火事にならないで…」と心配せずにはいられぬ。あたしも伊豆大島ロッジで、二十余年も薪ストーブを愉しんできた。しかし冬の強い西風が直接ロッジを襲い(防風林が伐採されて)、吹き飛ばされるかの恐怖。そんな強風下での薪ストーブ使用が怖くて「冬の島暮し」を止めた。

 

晩秋や早春に、待っていましたとばかりに島暮し。だが時に冬と同じく強い西風に襲われる。大気乾燥で未だ冬木立。そんな時は火の用心で熾火の控えめな薪ストーブになる。まぁそんなこんだで薪ストーブを盛大に燃せるのは雨天のみか。「寒もどし熾火加減の肴かな」。

 

 火は好きだ。高校時代は山岳会で野営、三十代でちょっと変な「野営ダイビング」教室、40代後半からの薪ストーブ。さらに振り返れば幼き頃より「火」あり。母が茶道師匠で、畳に「炉」が切ってあり、季節が変われば「風炉」になった。茶道用の炭(菊炭)や白い枝炭(貝粉を塗る)。そして当時はどこの家には火鉢、炬燵あり。火箸、灰ならし、五徳、十能、火消壺、火熾し器。豆炭はアンカや置炬燵に、炭は掘り炬燵や火鉢で使っていたかに覚えている。

 

そう、大島の地は弥生遺跡跡。稲作せぬ弥生人らの火を囲んだ生活も浮かぶ。火は恐怖と癒しあり。文明で文化でもあり。永井荷風も火が好きだったとみた。『断腸亭日乗』に麻布・偏奇館が東京大空襲で炎上する数ヵ月前のこと。興味深げに石油缶の煮炊きをスケッチしている。「くずし字」混じりの文は…石油鑵またバケツの古き物のところどころに風入の穴を穿(うが)ちて飯をたく。竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)を集めて燃すなり。谷町裏長屋にて見るところを描くなり。

 

kafumaki2_1.jpg荷風さん、石油鑵の竈を他人事のように書いているが、十日前の日記に「晝の中は掃塵炊飯にいそがし。炭もガスも思ふやうに使ふこと能(あた)はざれば板塀の古板蜜柑箱のこはれしなどを燃して炭の代りとす。案外に時間を要すなり。朝十一時頃に起出で飯をたきて食し終れば一時過なり」。竹頭木屑の飯炊は自身の姿でもあった。

 

炭もなく、水や電気のライフラインも止まった生活が戦後も続き、市川に移転後はすっかり七輪愛好者になっていた。「雑誌二冊で結構飯が炊けます」(秋庭太郎著『考證永井荷風』)で、部屋の中に七輪を持ち込んで火を熾す。岩垣顕著『荷風片手に東京・市川散歩』を見たら、小西茂也宅に間借りした際の、畳の部屋内で七輪のまわりに食材をずらっと並べて料理する荷風さんの写真が載っていた。部屋ん中で煮炊きし、こっそり書いた妖し原稿をも燃やしたのだろう。周りの人々を「火事にならぬか」とヤキモキさせていた。

 

 

 火はいい。裏長屋の熊さん・八っつあんも、悩みを胸に秘めた晩などチロチロと燃えるへっついの炎を見つめて心を癒した時もあろう。(次回で終わる)


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へっつい考7:馬琴と薪 [暮らしの手帖]

kazaminenryouten1_1.jpg 次は『曲亭馬琴日記』第一巻より「薪」の記述を拾う。

<文政十年正月五日> 野田や又兵衛より薪差越候へ共(さしこしそうらえども=送ってよこしたけれども)、旧冬よりいたし方甚不宜(はなはだよろしからず)ニ付、返シ遣(つかわ)す。依之(これによって)、予、白川やへ罷越(まかりこし)、堅木若干可差越(さしこすべく=送らせるべく)旨、申付おく。其後、野田やより、勧解(和解の意)いひ訳ニ来ル。来客中ニ付、此旨承り置、後刻、告之。其後、予、白川やに罷越、薪注文申付。昼頃、堅木八足持来。今日わり人不来ニ付、八足ハわり候て、明日昼前迄二差越候様、申付遣ス。

 

 …野田屋又兵衛より薪が送られてきたが、昨年の薪も良くなかったので送り返した。白川屋に薪の注文をした。野田屋が言い訳にきたが、来客中だったのでその旨を聞いておいた。その後、白川屋が八束持って来た。薪割り人足がいないので、明日昼までにすべてを届けるように言ったと記してある。当時は薪割り人足がいたらしい。あたしも薪割り二十年のキャリア。江戸時代に戻れば薪割職人で食ってゆけそう。次にこんな記述をひろう。

 

<文政十年六月十一日> 清右衛門来ル。火地炉三百五十銅ニてかひ取よし。申之。しつくいつけさせ、上張候様申付。<文政十年六月十五日> 夕方、清右衛門方より、火地炉出来、人足ニもたせ来ル。…おぉ、馬琴さん火地炉を350銅(朱と同じ)で買ったらしい。「地炉」は地上または床に作った炉、囲炉裏か竈か。どんな物を拵えてもらったのだろうか。興味湧きます。

 

 何で読んだか、江戸には1200軒ほどの炭薪問屋があったそうな。今ではホームセンターでバーベキュー用の薪・炭を売っているが、どっこい日本橋浜町「明治座」前に戦前からの薪炭問屋「風見燃料店」が頑張っている。時にマスコミ登場で、昨年1125日の「東京新聞」にも5段記事で紹介されていた。同記事によると昭和9年に三ノ輪で創業。その後、現在地の隣に移転。戦災で現在地に移ったとか。終戦後は薪や炭は生活必需品。復興と共の大繁盛。ガスや灯油が安く出回って同業者は次々廃業。薪や炭を買うのはせんべえ屋、煮豆など。

1970年代に暖炉付き住宅が登場して、薪が少し売れ出した。そして今は都内に彼方此方に出来た石窯を置いたビザ屋出現で、一手に需要を担っているそうな。年商三億円のうち、薪は一億円とか。あたしも大島ロッジの薪がなくなった時などは、ここで買って宅急便で島に送ろうかとさえ思ってしまう。

  

 子規句「薪をわるいもうと一人冬籠」。芭蕉句「消炭に薪割る音がをのの奥」。おまけに拙句「薪作り巡る季節に想い馳せ」。それにしても、あの裏長屋の竃で薪を燃やすに、火事の怖さがヒシと伝わる。(続く)


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へっつい考6:馬琴と炭 [暮らしの手帖]

bakinsiseki1_1.jpg 塩原太助の炭屋独立から約150年後の江戸「炭」事情を、『曲亭馬琴日記』(中央公論社2009年刊)から伺う。四巻までが文政九年十一年から嘉永二年五月までの日記で、第五巻が詳細索引。一巻より炭の記述をひく。

 

<文政十年六月十九日> 堅炭の粉多く有之候二付、お百、炭団製之、数十出来。…馬琴の妻・お百が炭粉が多くあったので炭団を作ったとある。北斎漫画に「炭団づくり」の絵あり。そこからお百の姿も浮んでくる。

 

 <文政十年八月廿五日> 杉浦老母申越候は、会所に炭置候由。即刻、日傭を雇、取ニ遣シ候所、最早売切候由にて、空手ニて帰り来、日傭賃少々遣之。…炭などの必需品は炭問屋だけではなく、町会所も関わっていたことがわかる。

 

 <文政十年十二月十五日> 過日、伊兵衛、寒中為見舞罷越候節(かんちゅうのためみまいまかりこしそうろうせつ)、炭之事約束被遊候ニ付(すみのことやくそくあそばされそうろうにつき)、当九日、本湊丁(町)松本三郎治、炭一駄八俵来ル。右代金弐両四匁弐分八厘、今日、取ニ来ル。御払被遣候(おはらいつかわされそうろう)。尤、松本三郎治請取書、笹屋より持参、取置。

 

bakinniki2_1.jpg 「一駄」とは馬一頭に積める荷物の分量。八俵とは左右に三俵づつ背に二俵か。いや馬が荷車を牽いてきたか。料金は二両四匁弐分八厘。さぁ、金勘定に疎い頭ゆえどうしよう。江戸時代後期は1両=約5万円=銀150匁=銭10貫文。二両四匁=3004匁+二分八厘。細かい処は省略で現代物価で約10万円、1俵=12500円か。

 

 ちなみに裏長屋の一ヶ月店賃(家賃)が五百文(約12500円)から八百文(約20000円)。庶民の1日の稼ぎは居職350文、出職410文。1日の稼ぎは現代物価で約10000円。ここから炭1俵は出職1日の稼ぎと判断していいか。 また年末には「歳暮為祝儀、桜炭弐俵」とか「歳暮炭代として金壱朱被遣之」等のやり取りもあり。江戸時代の燃料で安かった順は<炭団→薪→炭>だろうか。

 

炭は冬の季語。枝炭、消炭、助炭、炭売、炭頭、炭竈、炭俵、炭斗(すみとり)、炭焼、花炭、炭火、石炭、当り炭、起炭、駱駝炭、炭荷、固炭、獣炭、白炭、炭手前、飾炭、管炭、輪炭、胴炭、点炭…。円朝「塩原多助一代記」に炭言葉を羅列の面白い「序詞」がある。

 

好きな炭の句を幾つかあげる。一茶「炭もはや俵の底ぞ三ケの月」。島田青峰「眼伏せて炭ついでゐる無言かな」。蕪村「炭うりに鏡見せたる女かな」。日野草城「見てをれば心たのしき炭火かな」。加藤重吾「炭売のをのがつまこそ黒からめ」。次は「薪」について(続く)


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へっつい考5:塩原多助の「計り炭」 [暮らしの手帖]

tasuketadon_1.jpg 大空襲後の東京の燃料事情は、江戸の裏長屋と似たようなもの。ガス復旧までは、江戸の熊さんと同じく拾った木屑を七輪で燃やしての煮炊き。しかし熊さんに米はあるも、東京っ子は日々「すいとん(水団)」だった。熊さんは炭の粉を団子にした「炭団(たどん)」も作りまた買ったろうが、明治以後は石炭の粉を固めた「豆炭・練炭」が主になった。祖母が台所外で「七輪+練炭」でよく煮物をしていたのを覚えている。

 

「炭団」と云えば塩原多(太)助になる。ネット上には「塩原太助が炭の粉に海藻をつなぎとして丸く団子にした炭団を普及」とあり、それを売り歩くと「多助どん、たぁどん、たどん(炭団)」になったとあった。

 

本当かいな。これらの出典元は探せぬ。「百科事典」「大辞林」をひけば、炭の粉を固めた「獣炭」は平安時代からで、「たどん」は鎌倉時代から庶民の燃料として使用されたとある。塩原太助以前から炭団も炭団句もあり。『芭蕉七部集』(1732年)に尾張商人・高橋羽笠(うりつ)句に「萱家まばらに炭団つく臼」。他に上田鬼貫句に「雪の降夜握ればあつき炭団哉」。蕪村句に「炭団法師火桶の窓から窺ひけり」などがあった。

 

そんな江戸の燃料事情が多少でもわかればと『円朝全集』(岩波書店刊)「塩原多助一代記」(明治11年初演、明治18年に速記本行)を読んでみた。ここにも「多助が炭団を発明した」なんてことは書かれていない。炭がらみ記述をひろってみた。

 

多助は「青の別れ」の後に江戸に出て、進退窮まって昌平橋で身投げをしようする所を、神田佐久間町河岸の炭問屋山口善右衛門に助けられた。恩義を感じて給金なしで働く。奉公11年目は明和8年(1771)で31歳。独立祝儀と貯めたお金で計三百両。そのまま預け置き、25両をもらって本所相生町で店を持った。まずは奉公10年の間に拾い集めた粉炭の「計り炭」商売から。文章が面白いのでひく。

 

…貧乏人には壱俵買は不自由な訳で。中々一俵は買へねへもんでがんすから。冬季などは困つて睾丸(きんたま)火鉢の中へ消炭抔(など)を入れ。プウプウと吹いて慄(ふる)へながら一夜あかすものが多い世の中で。裏店や。何かで難儀して居て一俵買が出来ねへで困つて居るものが有りやんすから。其様な人に味噌漉に一杯。高いか知りやせんが。七文か九文に売りやんせば大(でか)く益になり。買ふ人も寒さを凌げるから助かりやすゆゑ。是を創(はじ)めたら屹度繁昌しべいと思ひやす。

 

つまり粉炭(粉ではなく欠けた炭)を籠に入れ「計り炭はようがんすか。味噌漉に一杯五文と七文でがんす」と歩きながら売った。速記本の画は梅蝶楼国峯。絵にはちゃんと味噌漉の笊も描かれている。まぁ、他に諸々あって商売大繁盛。巨財築いて「本所に過ぎたるものが二つあり津軽屋敷と炭屋塩原」とまで言われた。私財投じて「塩原橋」(墨田橋下流左岸の竪川の隅田川より二つ目の橋。両国回向院裏)も架けたとか。次は『曲亭馬琴日記』から江戸の燃料事情を探してみる。(続く)


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へっつい考4:長屋の朝 [暮らしの手帖]

futatuhettui2_1.jpg「へっつい」の使用状況はどうだったか。中江克己著『見取り図で読み解く~江戸の暮らし』より引用する。余談だが、若い時分に氏の取材チームで短期間働いたことがあって当時が懐かしい。

 

 …長屋の朝は明六つ(午前六時)、路地口の木戸が開いてはじまるが、多くの人はすぐ朝食の支度をする。一日分の飯を炊き、木製の飯櫃にいれておくが、朝食は暖かい飯に味噌汁、漬物というのが一般的。納豆があれば、いいいほうだった。昼は残りの飯と味噌汁。夜は野菜の煮物、焼き魚、煮物屋の惣菜。または屋台で済ませた…と書かれていた。これは中江著に限らず、江戸暮らし本の多くにそう書かれている。これも出典元は『守貞漫稿』だろうか。

 

 さて煮物、焼き魚、惣菜作りは「七輪」でも可だが、飯炊きはやはり「へっつい」だろう。コツは「始めちょろちょろ中ぱっぱ赤子なくとも蓋取るな」。これまた高校時代に社会人山岳会メンバーだったゆえに、焚火で飯盒飯のコツも身についている。

 

山登り当時の火付けは「マッチ」だった。ネット調べをすれば「マッチ」量産は明治前期で、国産100円ライターの普及品「チルチルミチル」が出回ったのは昭和50年(1975)頃。その間はずっとマッチが主役。また余談だが、小雨降る河原の野営で、あたしはマッチ2本で火を熾し、その技が自慢だったことも思い出す。しかし今は「マッチ」をとんと見ぬ。我が家からも姿を消した。ところが先日5日の新聞に「マッチ人気再燃」の記事。使い捨てライターの着火レバーが重くなるのを嫌った高齢者、災害備蓄、アウトドアブームが要因で出荷量がプラスに転じたとか。

 

本題に戻る。裏長屋「へっつい」の付け火はどうしたか。火付け道具は「火口箱(ほくちばこ)」に収まっていた。「火打石(石英などの硬い石)」「火打鉄(鋼鉄片)」そして「付木」。火花を発して「火口(ほくち)=ガマの穂綿や草の茎など」へ移し、カンナで削ったような薄い板の先に硫黄を塗った「付木」に着火。そして粗朶から薪へ…。

 

長屋ゆえ、そんな面倒くさいことをせずに気軽に隣へ火種を貰いにも行ったかもしれない。火力を増すには「火吹竹」を使う。朝餉が終わって残った薪(炭)は「火鉢」「長火鉢」「消壺」へ。灰は同じく竹製「とこまさらえ」で掃除だろう。(続く)


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へっつい考3:へっつい幽霊と左官職人 [暮らしの手帖]

hitotihettui_1.jpg へっついと言えば、落語「へっつい幽霊」が浮かぶ。あたしは志ん朝ファンゆえ、彼の「へっつい幽霊」を記す。ちくま文庫の『志ん朝の落語5』の解説に、もとは上方噺で、その趣きを残していたのは三代目桂三木助と六代目三遊亭圓生だった、とある。若旦那と熊さんとへっつい幽霊がからむが、志ん朝のは短縮した噺になっている。元は上方噺だから、この噺と浅草「へっつい横町」を結びつけるのは間違いだろう。志ん朝の短縮版をさらに短縮してみよう。

 

 「こりゃ、いい竃だ。買った」「ただでお譲りします。その代り、後で気に入らねぇってんで、お戻しになっちゃいやですよ」ってぇことで、その竃を据えた丑三つ時、薪もくべないのに、竃から幽霊が出やがった。「怖かねぇぞ。何んで出やがった」「あのぅ、相談が…」「幽霊が相談だと」「あたしは左官職人で博打がでぇ好きだった。首が回らなくなって、これが最後の博打。そしたら二百五十両も勝っちゃった。竃をこさえて二百両を埋め込んだ。残り五十両あるから毎晩呑んだ。そんな或る日、酔い潰れてドブん中に頭ァ突っ込んで死んじまった」「で、二百両が気になって化けて出たか」「えぇ、幽霊になって手に力が入ぇらねぇんで、この竃を壊して金を出していただきた」「いいよ、その代り山分けだよ」。バンバン!「やっ、ほんとに金が出てきた。さぁ、おめぇが百両、俺が百両だ」「それを賭けませんか」「おぉ、そこまで博打が好きか。よし、コロコロっと。半で俺の勝ち。二百両いただきだ」「もう一度勝負を」「てやんでぇ、てめぇには、もう金はねぇ」「いえ、あっしも幽霊。足は出さねぇ」。

 

 ここから、竃作りは左官職人の仕事とわかる。ケヤキの台はむろん大工仕事。竃と台の間に平瓦を敷いたらしい。竃が壊れると、長屋仲間や出入りの左官職人が直したが、「へっつい直し」の掛け声の流しもあったそうな。これにはワルがいて、直してから法外な金を要求したとか。今も庶民が庶民を騙す情けねぇワルがいる。★「とか」「らしい」表現は、証拠文献に至っていないゆえで、わかれば後日に訂正。(続く)


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へっつい考2:『守貞漫稿』の竃 [暮らしの手帖]

hettuiinnsatu1_1.jpg喜田川守貞著『守貞漫稿』は、天保8年から30年間に及んで江戸文化を京都・大阪と比較しつつ絵入りで解説された全35巻の類書(百科事典)。復刻版が1981年に東京堂出版より刊。そこから「竃」の項を探した。

 

まずは『京坂竈之図』(図は俗字=くにがまえの中にムと面で、その略字)を読む。手書きの「漢字+カタカナ」文。読むも難儀だが解読を試みた。

 竈ヲ俗ニ「ヘツイ」ト云。又訛テ「ヘッツイ」ト云也。図ノ如キヲ「三ツヘッツイ」ト云。竈口三アル故也。家内人数三五口ノ家、大略(たいりゃく)用テ(カタカナのくずし字のテ)、多人数ノ家ニハ、竈口五口七口九口等アリ。五ツヘッツイ七ツヘッツイト云也。竈土色黄也、黒ヌリ無て、又銅竈ヲ用ヒズ。又京坂ノ竈ハ場ヲ間ニ、床ヲ背ニス。江戸ハ反也。又図の如ク鉄漿壺(てっしょうつぼ=おはぐろの液の壺?)ノ坐アルコト(コト=カタカナの合字)必ズトセズ。不潔〇者亦多有て。又竈口ノ前及ビ竈底等平瓦ヲ敷ク。竈口ノ周リモ亦瓦ヲ用リ、又竈臺多クハ杉材也。

 京坂と江戸の竈の大きな違いは、京坂が床向きで、江戸は床に腰かけて壁向きに設置。また江戸の竃は黒塗りが多く、鉄漿壺もなし。

 

 次に『江戸竈図』 俗ニヘッツイト云。銅竈ヲ銅壺ト云。江戸ノ竈ハ、必ズ場ヲ背ニ床ヲ前ニス。人数ニ三人ノ者、専ラニツ竈ト云、火口ニ所。下図ノ如シ。六七人家内人数ノ家ニモ用テアリ。多人数ト雖(いえど)モ、竈口大略三ツ竈也。(以下略)。

 

hettuiinsatu2_1.jpgそして文章のみの説明。…前図ノ如ク石台竈アリ。多クハ槻台(槻=き、つき。けやき種。ツキダイ、キダイ。図にケヤキとあるからケヤキダイと読んでいいのか)也。又極小戸ハ下図ノ如ク全ク土製竈ヲ用ヒ、多クハ銅壺ヲ土竈ニ交ヘ製ス。上図ノ者ハ大釜ノ所。土竈一口其他銅壺二口アリ。此図ノ銅壺三ケヲ合テ二口ヲ備フ。此中銅壺ヲ分銅ト云。(略) 銅壺ニハ水一盃ニ盛ル。竈ノ焚ク火気ニテ壺中ノ水モ湯トナル。〇水及び諸具及び衣服洗濯等、此湯用也。鍋釜を掛る口の四隅に小口を設け、柄〇を以て台中の湯を汲む備ふ。又土竈を交えず全竈銅壺の者あり。是を惣銅壺と云。

以下略だが、江戸の長屋は狭いので竈を失くして七輪を用いるの意が書かれていた。江戸の暮しを紹介する多くの書の出典元が、同著と推測される。(続く)


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へっつい考1:裏長屋の竈 [暮らしの手帖]

hettui6_1.jpg 伊豆大島で薪ストーブを愉しむゆえに「囲炉裏」や「竈(へっつい)」にも関心あり。生田緑地の「日本民家園」、小金井公園内の「江戸東京たてもの園」、伊豆大島「郷土資料館」などの<古民家の囲炉裏・竈>を見てきたが、江戸は裏長屋の「竃」も気になる。過日、天保5年(1834)の大火事「かわら版」を筆写して、なおさら気になってしようがない。

 

自転車で「深川江戸資料館」へ。ここには天保年間(18321844)の深川佐賀町の表長屋、裏長屋が再現されている。裏長屋は九尺二間(間口九尺約2.7㍍)、奥行二間約3.6㍍)の3坪、または5坪。「ぼて振りの政助」「木場の木挽き職人・大吉」は三坪の4畳半。妻子持ちの「つき米屋職人・秀次」や「三味線お師匠さん」の部屋は5坪か。この竃で薪をメラメラ燃やせば、火事にならぬわけがなかろうに…。

 

写真撮影可で、各部屋の「竃」を撮らせてもらった。粘土を固めた炉周りが、なんと木製ではないか。火が直接あたる部分に銅板が覆ってあるだけ。竈は一つと二連のもの。さらに表長屋の船宿「相模屋」は料理も供したか、全銅板で覆った工芸品のように立派な二つ炉の竃だった。

funayadohettui1_1.jpg同館ガイドさんに「煙はどうしたんの」と訊ねれば、軒下の「無双窓」を教えてくれた。三寸(約9センチ)巾の板の二枚重ねの開閉で風を出し入れ。またひさし屋根に縄で開閉の天窓(煙り出し穴)もあり。竃の上には鍋と釜。脇に水瓶、水桶、流し台(どぶ溝あり)、七輪、火吹竹など。部屋が狭いために上り框に腰かけての作業だろう。

 

これら竈については『守貞漫稿』に詳しいとか。江戸後期の生活記録風の全30巻。それを3冊に収めた復刻書あり。また江戸暮らしを克明に記した『馬琴日記』に炭や薪についての記録があるかもしらん。まずは『守貞漫稿』をひもといてみる。(続く)


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