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有楽町逢ふは奉行所ベンチにて [新宿発ポタリング]

minamibugyousyo1_1.jpg奉行所巡りは呉服橋門内「北町奉行所」から数寄屋橋門内「南町奉行所」へ。現在は呉服橋と鍛冶橋の中間辺りに東京駅が出来て、そこに八重洲橋が架かるも撤去・架橋を繰り返して今はない。この辺の詳しい経緯は<日本橋川(16)木下杢太郎の「八重洲橋撤去>でアップ済み。

 

そうつぶやく間もなく、有楽町駅前中央口・駅前広場の「南町奉行所跡」碑に到着。発掘された奉行所の石組でベンチが出来て、その背に史跡碑がはめ込まれていた。この碑は「有楽町マリオン」前にあったそうだが再開発後に移設。「北町奉行所跡」が知らぬまま歩いてきた“地”なら、ここもまた山の線「有楽町」から地下鉄へ乗り換えで幾年も利用してきた地。この歳まで知らずに南・北町奉行所跡を歩いていたとは、なんとも恥ずかしい。

 

minamibugyousyutudo_1.jpgminamizumen1_1.jpg「南町奉行所跡」碑の文言は… 南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。その範囲は、有楽町駅および東側街区一帯にあたり、平成17年の発掘調査では、奉行所表門に面した下水溝や役所内に設けられた井戸、土蔵などが発見されました。また「大岡越前守御屋敷」と墨書きされた荷札も出土しました。再開発事業では、石組下水溝の一部をここに再現するとともに、石材を事業地内でベンチなどに活用しています。

 

 同文の横には発掘時写真と奉行所図面が紹介されていた。まぁ、立派な建物だったことがわかる。しかし改めて切絵図を見れば、周囲の大名屋敷の広いこと。今は『有楽町で逢いましょう』は、南町奉行所跡のベンチってことらしい。それにしてもこの発掘調査が平成17年で、北町奉行所の発掘調査が平成12年。平成に甦った北・南町奉行所を訪ねた師走でした。


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八重洲とは阿蘭陀ヤンに由来して [新宿発ポタリング]

yan1_1.jpg北町奉行所の新旧史跡案内をしかと確認後に、八重洲口周辺を自転車散策した。東京駅といえば新幹線、新煉瓦駅舎に加え、八重洲側も再開発中で高層ビル群が次々建っている。都心はしばし見ぬ間に様変わり。変貌し続けている。そのなか八重洲口前の商店街「さくら通り」界隈だけに、昭和の雰囲気(写真下右)が残っていてうれしくなってしまう。

 

このサクラ通りを東に歩けば左に書店「丸善」、四つ角向こうが「日本橋高島屋」。ここで背伸びをしつつ左を向けば日本橋が見え、右の八重洲通り中央帯には「ヤン・ヨーステン記念碑」がある。

 

「丸善」の日本橋店は明治3年に開業。明治43年に赤煉瓦4階建て。現店舗は平成19年とか。高島屋日本橋店は大阪より昭和8年に出店。

さらに時代を遡れば「ヤン・ヨーステン記念碑」が欠かせない。彼はウィリアム・アダムス(三浦按針、旧居跡は日本橋にあり))と共にオランダ船リーフデ号で遭難漂着した航海士貿易家。按針と共に家康に信頼されてこの辺に邸を賜り、日本名は「耶揚子(やようす)」。ここから「八代洲(やよす)~八重洲(やえす)」へ。

 

tibasadakiti_1.jpgsakuratoori_1.jpgらに南側の鍛冶橋前の通りには「千葉定吉道場跡」(写真下左)。「お玉が池」の道場主・千葉周作の弟が、ここで「小千葉道場」を設け、坂本龍馬が北辰一刀流の免許皆伝となったのは、この道場とか。この辺から東方向に真っ直ぐ行けば与力、同心の組屋敷が連なった八丁堀に至る。江戸の捕物小説には与力、同心らが八丁堀から北、南町奉行所へ通うシーンが欠かせない。


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知らぬまま奉行所跡を幾年余 [新宿発ポタリング]

daimaru1_1.jpgkitamatihi_1.jpg昨日の続き。まずは東京駅八重洲北口へ。右側に新大丸デパート。同店に沿って右に曲がって、その北側端の半間程の通用口っぽい出入口の膝下辺りの壁に「北町奉行所跡」の碑が嵌め込まれていた。「あぁ、ここだったかぁ」。

あたしが新幹線利用の際は、東西線「大手町」から地下道を通って東京駅・八重洲口が常で、知らずにその地を歩いていたことになる。大丸はなぜに誰も気づかぬだろう壁に史跡板を設置したや。やり様によっては集客施策として積極利用できたろうに…。

 

と首をひねればもう一つ、新「北町奉行所旧跡」碑(写真下)あり。同通用口風出入口からさらに北側、丸の内トラストタワーN館と、現工事中の鉄鋼ビルディングとの狭間遊歩道に「北町奉行所跡」碑。その文面には… 平成12年からの発掘調査で、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。とあって発掘写真と位置図掲載。発掘遺構の石積みなどが周囲に保存されていた。

 

kitamati2_1.jpgsinkitabugyou1_1.jpgここで改めて大丸の「都旧跡 北町奉行所跡」文言… 江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し配下の本所奉行道役小伝馬町牢屋寄場奉行町年寄を統轄した。その職掌は江戸府内の行政司法警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則とした旗本が任命され役料は三千石芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力同心などがいた。「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(一八四〇)三月から三年の間北町奉行の職にあった。

説明を加える。北と南町奉行所それぞれ与力25人、同心120人、南北あわせて290人。南町と北町が隔月交代で、月番でない時に受け付けた訴えの解決に当たった。与力や同人は八丁堀の組屋敷に住んでい、それぞれが十手を持った御用聞き、その彼らがまた手先を抱えていた。

さて、次は八重洲周辺を散歩してみましょ。


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奉行所の跡を巡りてこきの冬 [新宿発ポタリング]

ryobugyousyo_1.jpg江戸かわら版「神田大火」を筆写したら、この眼で北・南町奉行所跡を確認したくなった。まずは「江戸切絵図」をひもとく。右下「一石橋」で水路が十字になっている。右は現存「日本橋川」。鍛冶橋、常磐橋、神田橋、一ツ橋から九段下の俎橋に遡って行く。ここより下流は一石橋左折で日本橋方面へ。

 

そして左が「外濠川」で呉服橋、鍛冶橋、数寄屋橋へ。上が「道三堀」。家康が江戸城を築くための物資船運水路として最初に開削。銭亀橋、道三橋から現・皇居のお濠へ至る。築城当時は「道三掘」辺りに岡場所も、江戸最初の銭湯も出来たとか。かくして絵図のような江戸城周辺が整った。「道三堀」が埋立られたのは明治43年。外濠川は昭和22年に戦災瓦礫で埋立てられた。

 

gofukibasi1_1_1.jpgtaisyogofukubasi_1.jpg埋立て前の外濠川は井上安治「明治東京名所絵」の「鍛冶橋遠景」(日本川シリーズでアップ済)で情緒豊かに描かれている。目下は東京駅八重洲北口の北側で鉄鋼ビルディング工事中。その現場壁に明治元年頃の「呉服橋」、大正5年頃の鉄筋アーチ型呉服橋の写真などが貼示されて、埋立前の様子が伺える。

 

ここで再び切絵図をクリック(拡大)すれば呉服橋門内に「北町奉行所」(現・東京駅は大丸デパート北側に「北町奉行所跡」の碑)があり、数寄屋橋門内に「南町奉行所」(現・有楽町駅前広場に「南町奉行所跡」碑)があるのがわかる。これらを頭に入れて“古稀”のあたしは師走の街に自転車を“こきこき”して、東京駅八重洲口に向かった。(続く)


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桃色にスカイツリーの遊戯かな [東京スカイツリー]

tst2_1.jpgtukikumotree_1.jpg マイカテゴリー<東京スカイツリー>は、建設中以後は、特別な光景のみアップだが、珍しきピンクのスカイツリー也。夕陽が東方のスカイツリーにスポットを当てて、桃色ツリーで輝いていた。駄句をもう一句…

 

月と雲ツリーも隣る夜寒かな

「おまいさん、見てごらんよ」。夜9時だというのに、ベランダから東の空を見れば月と雲に、東京スカイツリーも輝いて寒空の賑わい。昨夜、本を読んでいたら「隣る」があった。国語辞典をひくと「ラ(ロ)・リ(ッ)・ル・ル・レ・レ」の活用。「隣る」を使ってみたかっただけ。
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地震火事すはやの時のご用心 [くずし字入門]

hinoyoujin2_1.jpg 前回「火の用心のうた」の続き。前半は数ヶ所わからなかったが、後半はほぼ解読か…。 

 

火の為に着替えのきものさだめおけすハやといへる時の用心

火の為に夜もながすな居風呂の湯も朝こぼせこれも用心

火のときハ老人子供病人をけがせぬやうににがす用心

火のときハ火のある火ばち火入などあハてて蔵に入れぬ用心

火のときハ宝過去帳諸帳面證文るゐを焼かぬ用心

火のときは極大せつなものならバ蔵へ入れずにいたす用心

火のときハ盗人多くあるもの顔みて荷もつわたす用心

火のときハ金銀などにめをかけて大事の命すてぬ用心

 

 最初項の★「すはや」は「すは=あっ、やっ=突然の出来事に驚き発する感動詞」+「や=強調」。二項目の★「居風呂」は「据風呂」だろうか。★五項目の「過去帳」は故人の戒名、俗名、死亡年月日、享年などを記した仏具の帳簿。その家の系譜記録。★火鉢が出てきたので、ちなみに竃(へっつい)、七輪、焙籠(あぶりこ)などを造るのを石灰職人とか。こうした言葉を知らないと江戸のくずし字も解読ならぬのだろう。『江戸の用語辞典』なる書もあるそうで、見つけたら購っておきましょう。『守貞漫稿』なる江戸後期の江戸の暮しを記した全30巻を3冊に収めた書があるそうな。これは図書館の閉架、しかも館内にみ閲覧の稀少本らしい。また図書館通いが始まりそう。

 

皆様、寒くなってきました。大気乾燥。年の瀬の忙しさもあります。どうぞ「火の用心」を。20日の新聞に首都直下地震の被害想定が載っていた。死者23000人とか。怖いのはやはり火災です。


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かわら版火の用心のうた怪し [くずし字入門]

hinoyoujin1_1.jpgfumei2_1.jpgfumei1_1.jpg 平凡社刊、太陽コレクション「かわら版新聞」に小さく「火の用心のうた」が載っていた。全十七番。頭揃えで「火の」、末尾「用心」がデザイン化された文字で並んでいた。「くずし字」初心者ゆえ、残念ながら解読できぬ箇所あり。まずは八番までを筆写、解読を試みた。

火の元は上にたつ人見まわりて内から火事を出さぬ用心

火のもとハ夏とてゆだんせぬがよしもえたる〇〇わけて用心

火のもとハふしんの場所のかんなくず焚ちらしたるあとの用心

火の元はきせるちやうちん火うち箱しそくにつけ木炬燵用心

火の元は捨るハら灰火けし壺火にゑんのある所の用心

火の為にはしご縄ひも桶つるべ蔵もつ人ハ土の用心

火のためにわらし(じ)手ぬぐいたすき帯薬〇〇〇常に用心

火のくらに入るハ見廻りよりあしきゆゑ鼠穴などべして用心

★「しそく」? 解読失敗や、いや、これは「紙燭・脂燭・ししょく」。照明具。松の木を長さ50センチ、直径1センチほどの棒にし、先端を焦がして油を塗って火をともした。手に持って用い、持つ部分に紙を巻いたもの。絵がみたいと思ったが探せずも「古語辞典」に挿絵があった。この項を漢字で書き直せば「火の元は煙管提灯火打箱紙燭付け木炬燵用心」。一茶句に「蚊を焼くや紙燭にうつる妹(いも)が顔」あり。★「火打箱」は火打石、火打金、火口(ほくち)、付け木を納めた箱。

★「蔵持つ人は土の用心」。これにも首をひねったが「火事になったら土蔵の隙間に土を塗り塞ぐ」ことは知っていた。改めて調べてみる。…火が蔵に入らぬように扉や窓の隙間を土で塗り固める。そのための土が「用心土」。出入り職人が常々「用心土」が固まらぬようにかき回していたとか。

★捨るハ「ら灰」? 捨る「ハら灰」? ★鼠穴など「べして」とは? 誤読だろうか。まったくお手上げ〇〇は写真の通り。何方かご教授下さい。続きはまた明日…。追記)最初の「〇〇=まき」だな。


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山茶花や散るが風情と連れもなし [花と昆虫]

sazanka1_2_1.jpg 山茶花の花は頼りなげに平らに開いて、その花弁は紙のように薄い。花弁の付け根がギュッと合着せぬ構造(離弁花)で、強い風が吹けば一枚一枚がパラパラと散り、実に頼りなく儚い。

 

 サクラも離弁花だが、山茶花はまさに「散る風情」の代表花だろう。不倫歌『さざんかの宿』まさにぴったりで、さすが吉岡治さん。比して“ツバキ”は肉置き豊かな年増のよう。アンコ娘は情が深いし、サザンカよりツバキ油の方がグッと濃厚、効能も大なる雰囲気をもつ。

伊豆大島被災一か月後に我がロッジの按配を見に行った。その時に被災のテレビ報道で何度も顔を拝見した〇〇ちゃんのところで、新宿の近所のバアさん連とかかぁがより美しくなるようにと、美顔用の椿油を幾つか購った。皆さん、来春の「椿まつり」が楽しみだと云ってくださった。

 

近所のバアさん連は、なぜか未亡人ばかり。旦那が先に逝き、あたしだけが生き残っている。★ええっ、猪瀬直樹が辞任表明と! その散りざまのなんたる醜態よ。知事就任と同時、今年1月から25回に及んでマイカテゴリー『ミカドの肖像』検証シリーズを記したが、改めて己の駄文を読み返してみましょ。


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年の暮スズメと遊ぶ皆一茶 [私の探鳥記]

suzume1_1.jpg 下町の印刷屋に行った帰りに、上野下車で不忍池を歩いた。餌を持ちスズメを手に寄せるオジさんがいた。数人のオバさんらが感心して見入っていた。オジさんのあたしは写真を撮った。年の瀬だが皆さん隠居世代。持て余すほどの隙(ひま)がある。

 

スズメと云えば一茶が浮かぶ。一茶が「我と来て遊ぶ(べ)や親のない雀」を詠ったのは文化11年の52歳の時らしい。三歳で実母を失い、八歳の時に迎えた継母になじめぬ孤独を思い出しての句。

 

しかし同句を詠んだ頃から一茶の人生は一変する。52歳で三度目の帰省。長かった相続争いに一応の決着をみて、江戸を諦めて田舎暮らし。28歳の「菊」を娶った。若い妻を菩薩様、観音様と「夜五交合」。「菊」が亡くなると62歳で二度目の妻、38歳「雪」を娶る。すでに中風で歩行困難、寝小便もする一茶が床を迫って「雪」は逃げだした。

 

64歳で三度目の32歳の妻「やを」を得る。今度は気立てがよくて、そんな一茶を菩薩のように抱いてくれた。同年11月に一茶逝去。(参考:丸山一彦校注『一茶俳句集』、藤沢周平『一茶』)

 一茶の晩年は若い女房がらみだが、今ここ不忍池で雀と戯れるオジさんオバさんの一茶たちは、歳相応に枯れてい、しばし「スズメ談義」を愉しんだ。全国の高齢者、隠居の皆さま、年の暮をいかがお過ごしでしょうか。「余計な御世話だ」「おっしゃる通り。あたしは昨夜、心臓がちょっと痛かった。皆さん、健康にお気を付けて…」


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ちゃんぽんと馬琴巡りに落葉舞ひ [新宿発ポタリング]

suimyoutei_1.jpg 自転車散歩中に神宮の杜ん中で隠れ建つような「水明亭」を見つけた。後日、かかぁと大江戸線「国立競技場前」下車で同店名物「長崎ちゃんぽん」「皿うどん」を食い、「いちょう祭り」へ。屋台で立ち食いし、お土産各種を購って見事な銀杏並木を散歩した。

 

 この辺はお気に入り自転車コースゆえ、先日も水明亭で「長崎ちゃんぽん」を食った。同店創業は60年前とか。神宮野球場がGHQ接収を解除されたのが昭和27年。その頃なのだろう。その年は永井荷風74歳で、浅草ロック座の踊り子らと某所で秘儀映画を愉しんだ秋に文化勲章授章。東京散歩の達人風タモリはテレビ番組「ブラタモリ」で水明亭を訪ねるなどしているが、当時の彼は福岡の少年で上京20年も前のこと。水明亭は49年前の東京オリンピックで競泳選手らに食事を提供とか。

 

cyanpon1_1.jpgちゃんぽんを食った後は、近くの蕎麦チェーン店「日高屋」脇の「滝沢馬琴終焉の地」史跡看板を見て、早や冬木立の銀杏並木から青山通り横断で、青山墓地の真ん中を突っ切った。そこから右は麻布、青山方面。左は六本木方面。

 

 昔はバイクでよく通った六本木ヒルズ辺りへ走った。久し振りの同界隈は様変わり。お上りさんみたいにキョロキョロしつつ、「テレビ朝日」でお天気中継をやる「毛利庭園」などを見て、六本木トンネル経由で帰還。 

 江戸末期の馬琴が亡くなったのが嘉永元年(1848)、明治維新の雇われ外国人らが眠る青山墓地、GHQ接収解除頃に開業の「水明亭」、神宮球場と国立競技場、そして六本木ヒルズ。約165年を走りまわったことになる。東京を自転車で走るって愉しいねぇ。


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ガラス玉夕陽孕みて春を待ち [週末大島暮し]

yuuhigarasutama1_1.jpg 島ロッジのベランダに、大小のガラス玉が下がっている。冬が近づくに従って伊豆半島や富士山がクリアに見え、夕陽も冴え渡る。キンと凍て澄んだ大気ゆえだろう。

 

 こう記せば透明感のある静謐な情景が浮かぼうが、そうは問屋が卸さない。冬になるに従って怖いほどの西風に襲われる。この写真も西風にガラス玉は激しく揺れ、芒は狂ったようになびき、カメラを構えるあたしも両足を踏ん張っている。冬の西風は体温を奪い刺すように痛い。

 

 昔はベランダから海は見えず、防風林に護られていた。保護されるべく防風林が徐々に伐採されて今は写真の通り「海一望」。かくして西風がロッジを直撃する。

日没と同時に漆黒の闇。耳だけが敏感になる。西風に軋む木々の音、磯場に砕ける波の音、周期的に数段と強い風が襲ってロッジがガクッと揺れる。エントツが落ち、物置も動く。冬の島ロッジは怖くて暮せぬようになってしまった。

 「それがなぁ、最近の西風はなぜか数日続くとピタッと止まるんだ。で、妙に小春日和になる」。島の方がそう言った。これまた不可解な変化。とまれ厳しい冬が終われば、島の椿は咲き誇り、メジロは飛び交い、ウグイスは鳴く。厳しい西風は、春の至福を産む陣痛なのかもしれない。16日で台風26号の災害から2か月目。


渡り来て人に媚びたる冬の鳥 [新宿御苑の野鳥]

kinkuro3_1.jpg 新宿御苑に例年通りキンクロハジロの群れが渡ってきた。年々個体数が減っているようだ。シベリアやユーラシア大陸北部で繁殖し、越冬のために飛来する。繁殖はおそらく原初的大自然の中で営まれようが、日本飛来と同時に、餌を求め人に寄ってくる。人は哀しい習性を教えてしまったようで、なんともやりきれぬ。かくいうあたしも、そんな姿を撮ってよろこんで?でいる。

 

 ちょっと落ち込んだが、考えてみればこの池のキンクロハジロは江戸時代の高遠藩(たかとおはん:現・長野県伊那市高遠町)の内藤家江戸下屋敷「玉藻池」時代から人に餌を貰うDNAを受け継いでいるのかもしれぬ。そう思えば多少のロマンも甦る。

 

 家のベランダでは、内藤家の菜園から広がったといわれる江戸野菜「内藤唐辛子」の二度目の実がたわわだが、時期が遅かったか、なかなか赤くならず緑のまま。いつ始末しようか迷っている。


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南北の奉行所ともに火が迫り [くずし字入門]

kandakajic_1.jpg くずし字は手を抜くと、すぐに忘れてしまうゆえ「かわら版・天保五年の神田火事」の続き。今回は版木を彫り終えた後の欄外記述を読む。「同九日ひもの町辺より出火南風はげしく元大工丁にてやけどまる」。「ひもの町=檜物町=八重洲口辺り」。

 

ちなみに「八重洲橋」は江戸時代にはなく、明治17年に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋。大正3年の東京駅開業で撤去。大正14年に東京駅入口として再び架橋。設計は詩人でもある木下杢太郎。そして昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。数奇な運命の橋なり。<この辺は44日の日本橋川(16)で記している>

 

八重洲の火は元大工町、呉服町を燃やして止まったらしい。だがこれで終わりではなかった。追記がもうひとつ。「同十日ごふくばし内より出火西北風はげしく御屋敷方所々御類火それよりすきやばし御門外通よりいよいよ西風はげしくつきじ御門跡辺不残やけ、塩留ばしへんわきざかサマ御屋敷より仙だいサマ御やしき少々やけ芝口にてやけどまる如此大火ゆへ緒人御たすけのため所々御たすけごや相立難有事共なり」

 

呉服橋内と云えば、門内に北町奉行所あり。まさか奉行所から出火や。門内屋敷が次々に燃えて数寄屋橋御門方面へ至る。ここにあるのが南町奉行所。さらに汐留、芝口まで延焼して止まったとある。そして、火災後に財ある方々により「お助け小屋」が彼方此方にできたと記されていた。

 

嘉永2年の「江戸切絵図」を見つつ読んできたが、改めてここで北町奉行所(東京駅八重洲口北口の大丸辺り)と北南町奉行所(数寄屋橋門内、現:有楽町駅中央口駅前広場辺り)の位置を確認。ならばこの目で両奉行所跡を確認したくなってきた。自転車で行ってみましょうか。


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カラハラと枯葉落としの鳥が舞ひ [新宿御苑の野鳥]

enaga1_1.jpg コンビニのセルフ式ドリップコーヒーが人気らしい。歳を取るってぇと、初めての事は億劫で躊躇するが、コーヒー好きゆえに近所のセブンイレブンのコーヒーを購った。

 

レジで「コーヒー」「小、大?」「大」「150円です」。お金を払うと大カップをくれる。コーヒーマシーンにカップを置き、「L」ボタンを押す。しばし待つ。抽出2度でLカップがいっぱいになる。マシーン横に蓋、スプーン、砂糖、ミルクなど。

 

「おいしいですよ」と店長。「味がわかるのかぇ」。「いえ、僕の意見ではなく、皆様がそうおっしゃっています」。うむ、こりゃ人気が出るのも納得なり。名は「SEVEN CAFÉ(セブンカフェ)」とか。我がマンション裏斜めの至近「セブンイレブン」ゆえ持ち帰りが習慣になる。

 

「柄長匙(スプーン)」でコーヒーをひと掻きし、パソコン・モニターを見る。先日撮った黄葉の木々の間を忙しく飛び交う柄長(エナガ)写真。コーヒー飲みつつ、この写真で一句と思ったが、すでにエナガで五句もアップ済ゆえに鳥名を避けた。枯葉が落ちれば冬木立です。街はクリスマスのイルミネーションの時期。


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この邦も吾も枯れるる枯尾花 [散歩日和]

kareobana5_1.jpg ウィークディに新宿御苑に行くってぇと、何と申しましょうか、それなりに賑わっているんでございますなぁ。「あぁ、こんなにも多くの人が働いてねぇんだ」。遮二無二働いてきた戦後世代・団塊世代が一斉リタイアで、年金受給者になった。今や日本人口の1/4が高齢者で、赤ちゃんと母親、学生、専業主婦を加え、総人口のうち働いているのは何割なのだろう。

 

 日本のパワーは衰え、災害は想定越えで襲い始め、村々が放射能で侵された。日本人口半減へ向かう少子化、過疎地も拡大の一途。そんな日本に、一極集中の東京に巨資投じるオリンピックが必要だろうか。枯尾花の風情だけでも充分に愉めようぞ。

 

 その意では地方都市、山村、離島で暮らす方々のほうが、筋金入り“諦観”を踏まえた上での新たな価値観を見つけてくれそうな気がしないでもない。

 ちなみにかつての「東京オリンピック」は二十歳の頃だが、もう充分にひねていて「東京はうるせぇから、どっかへ行こっ」ってんで友人と東京脱出した。伊豆は河津にミニ滞在。当時の河津の村民浴場(銭湯・温泉)は混浴だった。近眼で眼鏡を外した入浴ゆえに女体観察とは参らなかったが、友人は眠れぬほど興奮していたことを思い出す。そう、あの時に首都高速ってぇのが、日本橋川をはじめの川々を覆い尽くす愚策をやらかした。


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てえへんだ八丁堀に火が移り [くずし字入門]

kandakaji2_1.jpg「かわら版/甲午の火事」(天保五年)の続き。この筆写は地名列挙で馴染みない漢字の“くずし字”と、江戸府内地理のお勉強。文はこう続く。「松島町御屋敷方又壱口ハ茅場町北八丁堀亀しま町飛火致し本八丁堀南八丁堀霊岸島不残佃島飛火鉄砲洲御屋敷方舟松町弐丁目焼留」。

 

 火は北へ飛び「松島町」ってことは水天宮辺りに広がった。南は日本橋川を越えて「茅場町」へ、さらに南下して「八丁堀」へ拡大。ここで「江戸切絵図」を見れば、亀島町辺りから現・八丁堀辺りまでが与力町と同心町が交互に並ぶ「町御組屋敷」。某時代小説を読んでいたら、八丁堀に盗賊の根城があって捕物シーンあり。そりゃないでしょと、江戸地図を知れば時代小説の誤りにも気づく。さて、この火事で茅場町と組屋敷も焼失したか。

 

火は波状拡大する。亀島川を越えて霊岸島へ、隅田川を超えて佃島、鉄砲洲へと広がる。まさに激しい西北風。ここで焼け止まるワケもない。「又一口日本橋向青物町しんば近辺通壱残る同弐三四かたわら中ばしおが丁むし町焼留る又壱口は横山町両国近辺不残浜町御屋敷方新大橋半分焼落」。

 

火の手は次に日本橋川を越えて青物町が燃え、八重洲方面へ。別の火の手は柳橋の南の横山町から隅田川に沿って浜町まで燃えて「新大橋」に迫る。江戸城の東側一帯が焼けていることがわかる。かわら版が摺り上がった後で、飛び火はまだ続き、欄外に九日、十日の延焼が書かれていた。(続く)


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黄と赤や枯れ散る前の宴かな [散歩日和]

icyomomiji_1_1.jpg 秋と春が好き。黄金色の銀杏に紅葉。巡る季節のなか、最も美しい彩りとなる。

 

 それも束の間。銀杏は決まっていたかの或る日に、黄葉をハラハラと散らす。あとは色を失った冬木立へ季節一変。

 

 猪瀬都知事の散る前の宴がオリンピック招致。さぁ、あとは散るがいい。同じく安倍内閣の散る前の宴がアベノミクス。暴挙のあとはハラハラハラと支持率急降下。見放されようゾ。


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桐の眼はなにを見張るや東見て [散歩日和]

kirinome5_1.jpg 「飯桐」の次は「桐」を見た。種が違うゆえ、結実時期も違うのだろう。見上げてもイイギリのようなたわわな赤い実なし。こちらは五月頃に紫の花を付け、実は薄緑色の涙型。茶色に枯れて殻が割れると翼付き小種が風に散る。それもすでに終わったのだろう。

 

実はなかったが、桐の幹に“眼模様”があって、ドキリッとした。幹をグルッと回われば、上眼遣いの大きな眼が東方面に三つ。東へ振り向けば国会議事堂、霞が関方面ではないか。

 

返り咲いた首相の言動はどこか変だ。かつての所信声明演説後の精神衰弱・体力限界退陣のコンプレックスから、精神のどこか歪んだ感が否めぬ。頑な原発再稼働、原発輸出。福島原発はメルトダウン千日後の今も130万ベクレルの汚染水を流している。よくもまぁ、ぬけぬけとコントロール下にあると言ったものだ。東北復興の遅れ。放射能汚染で戻れぬ村々があり、仮設住宅暮しも続く。そして特定秘密保護法案。日本はイヤな方向に歩んでいる。そして野党のていたらくよ。政治はいつだって国民意識とかけ離れているのは何故なのだろうか。

 

権力を持つと人は変わる。片や暴挙、片や保身。桐の眼の反対側を見れば、都庁舎が聳えている。そっちは金銭欲、出世欲、名誉欲に加えコンプレックスの塊の都知事がいる。この機に資金集めのパーティをやったとか。その鉄面皮あまりに醜い。飽きれ果て、名を聞くものイヤだ。こちらも都議会は猪瀬追及に及び腰とか。

 秋景色に風流を愉しもうと思ったが、出るのは溜息ばかりだ。
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かわら版古地図広げて火の用心 [くずし字入門]

kandakajia_1.jpg 太陽コレクション「かわら版新聞」(平凡社刊)に、天保五年の「甲午(きのえうま)の火事=神田大火事」が地図付きで載っていた。インターネットには文字だけの摺物も幾つか公開されている。さっそく筆写した。

 

 「頃ハ天保五年二月七日八ツ時頃外神田佐久間町弐丁目より出火して西北風はげしく同三丁目少〃焼お玉が池近辺土手下近辺元せいかん寺御屋敷方あまた弁けい橋通りいよいよ風はげしく」。

 天保五年は1834年。江戸後期は徳川家斉の時代。神田雉子町の名主・斎藤家三代による『江戸名所図会』が刊行され、広重『東海道五十三次』完成の年。この大火による死者は二千八百名とも四千名とも記されている。

 

出火は「八つ時」。草木も眠る丑三つ時、深夜二時頃だろう。外神田佐久間町は現在もあり。秋葉原駅の東側で神田川左岸。当時は材木商が多く、出火の多い地だった。すでに材木置き場は木場に移転していたが、五年前の文政十二年(1829)にも佐久間町出火の大火あり。これも「かわら版」に載っていたが、同大火の五年後といえば、復興も落着き出した頃の再びの大火だった。

 

火はどのように広がったか。佐久間町の火は、激しい西北風によって神田川を越えて「お玉が池」辺りを燃え尽くした。千葉周作のお玉ヶ池「玄武館」も燃えたろうか。この辺は現・岩本町一帯。「弁けい橋」は巾一間程の藍染川に架かっていた橋。火はさらに南の日本橋方面へ向かって行く。

 

「六口程成小伝馬町本銀町より本石町本町辺宝町小田原町いせ町近辺小舟町小網町近辺ふきや町堺町芝居近辺不残」。「六口程成」は火の手は六ヶ所の意か。まさに地獄の火となった。ここは「goo」の古地図<日本橋>をモニターに映し、手許の江戸切絵図を開き、位置を確認しつつ読み進めてみる。「小傳馬町から小舟町、小網町」と云うから日本橋一帯も「不残」焼けたということだろう。(続く)


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