SSブログ

知らぬまま奉行所跡を幾年余 [新宿発ポタリング]

daimaru1_1.jpgkitamatihi_1.jpg昨日の続き。まずは東京駅八重洲北口へ。右側に新大丸デパート。同店に沿って右に曲がって、その北側端の半間程の通用口っぽい出入口の膝下辺りの壁に「北町奉行所跡」の碑が嵌め込まれていた。「あぁ、ここだったかぁ」。

あたしが新幹線利用の際は、東西線「大手町」から地下道を通って東京駅・八重洲口が常で、知らずにその地を歩いていたことになる。大丸はなぜに誰も気づかぬだろう壁に史跡板を設置したや。やり様によっては集客施策として積極利用できたろうに…。

 

と首をひねればもう一つ、新「北町奉行所旧跡」碑(写真下)あり。同通用口風出入口からさらに北側、丸の内トラストタワーN館と、現工事中の鉄鋼ビルディングとの狭間遊歩道に「北町奉行所跡」碑。その文面には… 平成12年からの発掘調査で、北町奉行所の上水道や井戸、屋敷境などの遺構が発見されました。とあって発掘写真と位置図掲載。発掘遺構の石積みなどが周囲に保存されていた。

 

kitamati2_1.jpgsinkitabugyou1_1.jpgここで改めて大丸の「都旧跡 北町奉行所跡」文言… 江戸町奉行は徳川幕府の職制の一つで寺社奉行勘定奉行とともに三奉行と呼ばれていた。江戸町奉行は老中の支配に属し配下の本所奉行道役小伝馬町牢屋寄場奉行町年寄を統轄した。その職掌は江戸府内の行政司法警察の一切にわたっていた。定員は二名で南北両奉行に分かれ月番で交替に執務したが時に応じて増減された。原則とした旗本が任命され役料は三千石芙蓉間詰で勘定奉行の上座輩下に与力同心などがいた。「いれずみ奉行」として名高い遠山左衛門尉景元(遠山金四郎)は天保十一年(一八四〇)三月から三年の間北町奉行の職にあった。

説明を加える。北と南町奉行所それぞれ与力25人、同心120人、南北あわせて290人。南町と北町が隔月交代で、月番でない時に受け付けた訴えの解決に当たった。与力や同人は八丁堀の組屋敷に住んでい、それぞれが十手を持った御用聞き、その彼らがまた手先を抱えていた。

さて、次は八重洲周辺を散歩してみましょ。


コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。