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南北の奉行所ともに火が迫り [くずし字入門]

kandakajic_1.jpg くずし字は手を抜くと、すぐに忘れてしまうゆえ「かわら版・天保五年の神田火事」の続き。今回は版木を彫り終えた後の欄外記述を読む。「同九日ひもの町辺より出火南風はげしく元大工丁にてやけどまる」。「ひもの町=檜物町=八重洲口辺り」。

 

ちなみに「八重洲橋」は江戸時代にはなく、明治17年に呉服橋と鍛冶橋の間に架橋。大正3年の東京駅開業で撤去。大正14年に東京駅入口として再び架橋。設計は詩人でもある木下杢太郎。そして昭和22年の外濠川埋め立てで再び撤去。数奇な運命の橋なり。<この辺は44日の日本橋川(16)で記している>

 

八重洲の火は元大工町、呉服町を燃やして止まったらしい。だがこれで終わりではなかった。追記がもうひとつ。「同十日ごふくばし内より出火西北風はげしく御屋敷方所々御類火それよりすきやばし御門外通よりいよいよ西風はげしくつきじ御門跡辺不残やけ、塩留ばしへんわきざかサマ御屋敷より仙だいサマ御やしき少々やけ芝口にてやけどまる如此大火ゆへ緒人御たすけのため所々御たすけごや相立難有事共なり」

 

呉服橋内と云えば、門内に北町奉行所あり。まさか奉行所から出火や。門内屋敷が次々に燃えて数寄屋橋御門方面へ至る。ここにあるのが南町奉行所。さらに汐留、芝口まで延焼して止まったとある。そして、火災後に財ある方々により「お助け小屋」が彼方此方にできたと記されていた。

 

嘉永2年の「江戸切絵図」を見つつ読んできたが、改めてここで北町奉行所(東京駅八重洲口北口の大丸辺り)と北南町奉行所(数寄屋橋門内、現:有楽町駅中央口駅前広場辺り)の位置を確認。ならばこの目で両奉行所跡を確認したくなってきた。自転車で行ってみましょうか。


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