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へっつい考8:荷風の七輪 [暮らしの手帖]

stove1_1.jpg 裏長屋の「へっつい」に薪が燃える図を想えば「よくもまぁ、火事にならないで…」と心配せずにはいられぬ。あたしも伊豆大島ロッジで、二十余年も薪ストーブを愉しんできた。しかし冬の強い西風が直接ロッジを襲い(防風林が伐採されて)、吹き飛ばされるかの恐怖。そんな強風下での薪ストーブ使用が怖くて「冬の島暮し」を止めた。

 

晩秋や早春に、待っていましたとばかりに島暮し。だが時に冬と同じく強い西風に襲われる。大気乾燥で未だ冬木立。そんな時は火の用心で熾火の控えめな薪ストーブになる。まぁそんなこんだで薪ストーブを盛大に燃せるのは雨天のみか。「寒もどし熾火加減の肴かな」。

 

 火は好きだ。高校時代は山岳会で野営、三十代でちょっと変な「野営ダイビング」教室、40代後半からの薪ストーブ。さらに振り返れば幼き頃より「火」あり。母が茶道師匠で、畳に「炉」が切ってあり、季節が変われば「風炉」になった。茶道用の炭(菊炭)や白い枝炭(貝粉を塗る)。そして当時はどこの家には火鉢、炬燵あり。火箸、灰ならし、五徳、十能、火消壺、火熾し器。豆炭はアンカや置炬燵に、炭は掘り炬燵や火鉢で使っていたかに覚えている。

 

そう、大島の地は弥生遺跡跡。稲作せぬ弥生人らの火を囲んだ生活も浮かぶ。火は恐怖と癒しあり。文明で文化でもあり。永井荷風も火が好きだったとみた。『断腸亭日乗』に麻布・偏奇館が東京大空襲で炎上する数ヵ月前のこと。興味深げに石油缶の煮炊きをスケッチしている。「くずし字」混じりの文は…石油鑵またバケツの古き物のところどころに風入の穴を穿(うが)ちて飯をたく。竹頭木屑(ちくとうぼくせつ)を集めて燃すなり。谷町裏長屋にて見るところを描くなり。

 

kafumaki2_1.jpg荷風さん、石油鑵の竈を他人事のように書いているが、十日前の日記に「晝の中は掃塵炊飯にいそがし。炭もガスも思ふやうに使ふこと能(あた)はざれば板塀の古板蜜柑箱のこはれしなどを燃して炭の代りとす。案外に時間を要すなり。朝十一時頃に起出で飯をたきて食し終れば一時過なり」。竹頭木屑の飯炊は自身の姿でもあった。

 

炭もなく、水や電気のライフラインも止まった生活が戦後も続き、市川に移転後はすっかり七輪愛好者になっていた。「雑誌二冊で結構飯が炊けます」(秋庭太郎著『考證永井荷風』)で、部屋の中に七輪を持ち込んで火を熾す。岩垣顕著『荷風片手に東京・市川散歩』を見たら、小西茂也宅に間借りした際の、畳の部屋内で七輪のまわりに食材をずらっと並べて料理する荷風さんの写真が載っていた。部屋ん中で煮炊きし、こっそり書いた妖し原稿をも燃やしたのだろう。周りの人々を「火事にならぬか」とヤキモキさせていた。

 

 

 火はいい。裏長屋の熊さん・八っつあんも、悩みを胸に秘めた晩などチロチロと燃えるへっついの炎を見つめて心を癒した時もあろう。(次回で終わる)


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