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へっつい考5:塩原多助の「計り炭」 [暮らしの手帖]

tasuketadon_1.jpg 大空襲後の東京の燃料事情は、江戸の裏長屋と似たようなもの。ガス復旧までは、江戸の熊さんと同じく拾った木屑を七輪で燃やしての煮炊き。しかし熊さんに米はあるも、東京っ子は日々「すいとん(水団)」だった。熊さんは炭の粉を団子にした「炭団(たどん)」も作りまた買ったろうが、明治以後は石炭の粉を固めた「豆炭・練炭」が主になった。祖母が台所外で「七輪+練炭」でよく煮物をしていたのを覚えている。

 

「炭団」と云えば塩原多(太)助になる。ネット上には「塩原太助が炭の粉に海藻をつなぎとして丸く団子にした炭団を普及」とあり、それを売り歩くと「多助どん、たぁどん、たどん(炭団)」になったとあった。

 

本当かいな。これらの出典元は探せぬ。「百科事典」「大辞林」をひけば、炭の粉を固めた「獣炭」は平安時代からで、「たどん」は鎌倉時代から庶民の燃料として使用されたとある。塩原太助以前から炭団も炭団句もあり。『芭蕉七部集』(1732年)に尾張商人・高橋羽笠(うりつ)句に「萱家まばらに炭団つく臼」。他に上田鬼貫句に「雪の降夜握ればあつき炭団哉」。蕪村句に「炭団法師火桶の窓から窺ひけり」などがあった。

 

そんな江戸の燃料事情が多少でもわかればと『円朝全集』(岩波書店刊)「塩原多助一代記」(明治11年初演、明治18年に速記本行)を読んでみた。ここにも「多助が炭団を発明した」なんてことは書かれていない。炭がらみ記述をひろってみた。

 

多助は「青の別れ」の後に江戸に出て、進退窮まって昌平橋で身投げをしようする所を、神田佐久間町河岸の炭問屋山口善右衛門に助けられた。恩義を感じて給金なしで働く。奉公11年目は明和8年(1771)で31歳。独立祝儀と貯めたお金で計三百両。そのまま預け置き、25両をもらって本所相生町で店を持った。まずは奉公10年の間に拾い集めた粉炭の「計り炭」商売から。文章が面白いのでひく。

 

…貧乏人には壱俵買は不自由な訳で。中々一俵は買へねへもんでがんすから。冬季などは困つて睾丸(きんたま)火鉢の中へ消炭抔(など)を入れ。プウプウと吹いて慄(ふる)へながら一夜あかすものが多い世の中で。裏店や。何かで難儀して居て一俵買が出来ねへで困つて居るものが有りやんすから。其様な人に味噌漉に一杯。高いか知りやせんが。七文か九文に売りやんせば大(でか)く益になり。買ふ人も寒さを凌げるから助かりやすゆゑ。是を創(はじ)めたら屹度繁昌しべいと思ひやす。

 

つまり粉炭(粉ではなく欠けた炭)を籠に入れ「計り炭はようがんすか。味噌漉に一杯五文と七文でがんす」と歩きながら売った。速記本の画は梅蝶楼国峯。絵にはちゃんと味噌漉の笊も描かれている。まぁ、他に諸々あって商売大繁盛。巨財築いて「本所に過ぎたるものが二つあり津軽屋敷と炭屋塩原」とまで言われた。私財投じて「塩原橋」(墨田橋下流左岸の竪川の隅田川より二つ目の橋。両国回向院裏)も架けたとか。次は『曲亭馬琴日記』から江戸の燃料事情を探してみる。(続く)


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